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境界探偵アイディアルハザード ―異界ホテルの六人目―  作者: スドタケ


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第9話 五界の敵

午前五時二分。


リゼットは、冷たい床の上で目を覚ました。


頭が重い。


視界の端が白くかすんでいる。


両手は背中側で拘束され、足首にも細い金属帯が巻かれていた。


周囲には巨大な輪がいくつも立っている。


輪の内側では、五つの異なる風景が不安定に揺れていた。


灼熱の空。


影に沈んだ街。


深い森。


白い機械都市。


高層建築の並ぶ人界。


五界へつながる門だ。


その中心に、六つ目の空白がある。


「《根門》……」


リゼットの声がかすれた。


完成してはいない。


複数の輪を仮設の支柱と太い配線が支え、床には未接続の端子が残されている。


それでもホテルの門と均衡設備をまとめて動かせるところまで、試験運用が進んでいた。


ヴァルツが操作台の前に立っていた。


制服の上着を脱ぎ、袖をまくっている。


先ほどまでの混乱を指揮していた男と、何も変わらない。


「目が覚めましたか」


「私を、何に使うつもりですか」


「認証です」


ヴァルツは淡々と答えた。


「境界管理庁の権限で動かせるのは、緊急系統までです。」


「接続先を安定させ、五界の門を個別に管理する主制御には、レムナ人の生体認証が要る。あなたなら開けられる」


「開けたあとで、ホテルを壊す?」


「逆です。私が管理します」


「均衡領域を止めて、五界を争わせた人が?」


ヴァルツは否定しなかった。


「五界は、共通の敵がいなければまとまらない」


「共通の敵……」


リゼットは、先ほどの館内放送を思い出した。


均衡領域を停止させたのは、門界《レムナ》の関係者。


ノアとリゼットは、レムナのテロ犯。


「あの放送も、そのためだったんですね」


ヴァルツは否定しなかった。


「私たちを犯人にして、レムナを五界共通の敵にする」


「十年前と同じです」


その言葉に、リゼットの胸が冷えた。


「十年前のことを、知っているんですね」


「知っています」


ヴァルツが振り返る。


「私は《停戦執行室》の副責任者でした」


遠くで金属音が響いた。


誰かが地下の防壁を破っている。


ヴァルツは音の方向を見た。


「来ましたね」


リゼットにも分かった。


グレイだ。


「彼が、ここまで来られると?」


「来ます」


ヴァルツの答えには迷いがなかった。


「呪いも、魔力による追跡も、血筋を調べる術も、あの男には通じない」


「なぜです」


「《零界体》」


初めて聞く言葉だった。


「人間の姿をしている。血も流れる。老いもする」


ヴァルツは根門の表示を操作した。


「だが、五界のどこにも出生が登録されていない」


「登録されていない?」


「戸籍の話ではありません。世界そのものが、あの男の所属先を持っていない」


表示の中で、五界を示す光が並ぶ。


その横に、一つだけ空白があった。


「魔法は対象を選ぶ時、その者がどの世界に属するかを手掛かりにする。グレイには、それがない」


「だから追跡の影が、彼を避けた」


「避けたのではありません。見つけられなかった」


ヴァルツは薄く笑った。


「あの男は、世界から見れば人の形をした空白です」


再び衝撃音が響く。


今度は近い。


「では、何も効かないのですか」


「そんな便利なものではない」


ヴァルツは腰の拳銃を抜いた。


ホテル内では無力化されていた銃器も、均衡領域が落ちた今は使える。


「撃てば傷つく。毒も効く。火に焼かれれば死ぬ。疲労もする」


「それでも、あの強さは」


「訓練と経験です」


即答だった。


「停戦執行室は、あの性質を利用した。魔法に頼らず、どの世界でも生き残れるよう、身体と判断を徹底的に作り替えた」


「作り替えた?」


「骨を折り、治し、また動かす。毒を入れ、限界量を覚えさせる。敵の呼吸、脈、関節、視線を、数字より正確に読むまで繰り返す」


根門の画面に、古い戦闘記録が映し出される。


「竜王より力が強いわけではない。相手の力が最大になる瞬間と、最も崩れやすい一点を知っている」


映像の中で、巨大な竜人が自分の勢いのまま床へ倒れる。


「夜界のように影を渡るわけでもない。視線と魔力感知、その両方が途切れる場所だけを選んで歩く」


別の記録では、夜界兵の包囲からグレイの姿だけが消えていた。


「機界より計算が速いわけでもない。機械は起こり得る動きをすべて調べる」


ヴァルツは画面を送った。


「グレイは呼吸、視線、足の向き、指の震えから、相手が選ばない動きを捨てる。残った一手だけを、機械が答えを出す前に読む」


最後の記録では、グレイが相手の首と腕へ一度ずつ触れただけで、数人の兵が膝をついていた。


「森界の生命術でもない。神経と血流の位置を知り尽くしている。どこへ触れれば腕が止まり、どこを押せば意識を残したまま立てなくなるかを知っている」


「全部、技術だというんですか」


「技術と経験。そして、正常な人間なら壊れる訓練を生き残った身体です」


扉の向こうで、最後の封鎖が砕けた。


「生まれつきなのか、誰かに作られたのか」


ヴァルツは銃口を入口へ向けた。


「それは、我々にも分からなかった」


扉が開く。


グレイが入ってきた。


左腕から血が落ちている。


額にも傷がある。


呼吸は浅く、右足を引く動きも隠せていない。


それでも目だけは静かだった。


「リゼットから離れろ」


「ようやく、十年前の話ができますね。グレイ」


ヴァルツが言った。


グレイの表情は変わらない。


「ホテルで会った時から、気づいていたのか」


「もちろんです」


「なら、ずいぶん他人行儀だったな」


「それは、あなたも同じでしょう」


ヴァルツは静かに笑った。


「私が《停戦執行室》にいたと明かせば、十年前の記録まで掘り返される」


「俺が明かせば、お前は証拠を消す」


「だから互いに、知らないふりをした」


「違う」


グレイは拘束されたリゼットを見た。


「俺は、お前が次に誰を狙うか見ていた」


ヴァルツの笑みがわずかに薄くなる。


「相変わらずですね」


「あの夜の続きか」


「ええ」


ヴァルツは操作台へ手を置いた。


「あなたが、私の第二命令を拒んだ夜の続きです」


グレイの視線が、銃からリゼットの拘束へ移る。


「放せ」


「まず、昔話をしましょう」


「興味はない」


「彼女にはある」


ヴァルツは銃口をリゼットへ向けた。


グレイが止まる。


「十年前、あなたはレムナの軍事通信と根門を止めた」


ヴァルツの背後に、古い作戦記録が表示される。


二十九人の名前。


「そして、二十九人を殺した」


リゼットはグレイを見た。


彼は否定しなかった。


「戦争指導者」


ヴァルツが名前を送る。


「兵器転用責任者」


次の名前。


「五界への攻撃を計画していた者」


さらに次。


「そして、侵略計画が偽造だと知り、公表しようとしていた研究者と政治家」


グレイの左手が、わずかに強張った。


「真実を公表しようとしていた者まで、処分対象に混ぜたのは停戦執行室だ」


「ですが、命令を実行したのはあなたです」


ヴァルツの声は静かなままだった。


「騙されていたとしても、二十九人を殺した事実は消えない」


「分かっている」


グレイは短く答えた。


言い訳はしなかった。


「止めなければならない者もいた」


低い声が続く。


「騙されて殺した者もいた」


「今さら悔いていると?」


「名前は、全員覚えている」


ヴァルツの口元から笑みが消えた。


「覚えていれば、許されるとでも?」


「許されるとは思っていない」


グレイは一歩進んだ。


銃口が彼へ戻る。


「殺したのは俺だ。停戦執行室へ責任を押しつけるつもりもない」


二十九人の名前が並ぶ画面を、グレイは見た。


「だから、今も背負っている」


ヴァルツが引き金を引いた。


乾いた音が響く。


グレイの身体が傾いた。


弾丸は左脇をかすめ、背後の支柱へ当たった。


二発目。


グレイは根門の配線束を引き寄せた。


弾丸が金属板に弾かれる。


そのまま暗い支柱の陰へ入った。


ヴァルツが照準を動かす。


だが、そこにグレイはいない。


右。


左。


背後。


影術ではない。


遮蔽物と視線の切れ目だけを、音もなく移っている。


ヴァルツが振り向いた時には、銃が手から消えていた。


グレイが弾倉を抜き、床へ落とす。


同時にヴァルツの肘を押し、身体を操作台へ伏せさせた。


「相変わらずですね」


ヴァルツは苦しそうに笑った。


「私を殺せば、早いでしょう」


「分かっている」


「私を生かせば、政府も五界も、また事実を覆い隠す」


グレイは答えず、ヴァルツの上着から解除端末を抜いた。


リゼットのもとへ向かう。


「動けるか」


「薬が残っています。でも、手は使えます」


グレイは拘束帯を調べた。


解除には二重操作が必要だった。


「私の家族も……」


リゼットが言った。


グレイの手が止まる。


「十年前、あなたが殺したんですか」


グレイは彼女を見た。


答えない。


先に金属帯を外す。


両手。


足首。


最後に、首元の認証器を取り外した。


「答えてください」


「あとだ」


「また、それですか」


「立てるか」


リゼットは自分の足で立ち上がった。


膝が揺れたが、グレイの腕にはつかまらなかった。


彼も無理に支えようとはしない。


ただ、倒れた時に受け止められる距離へ立った。


「根門を止めます」


リゼットは操作台へ向かった。


その瞬間、ヴァルツが床の非常端子を踏んだ。


根門の輪が一斉に光る。


各界代表の会議室、警備本部、館内に展開する護衛たちの端末が、一斉に切り替わった。


映し出されたのは、十年前の死亡記録ではない。


さらに古い、複数の機密作戦記録だった。


――停戦執行記録。


――対象地域への単独潜入。


――軍指揮系統の停止。


――通信施設の破壊。


――要人の排除。


作戦名と対象地の多くは黒く塗り潰されている。


だが、現場執行者の欄には、同じ名前が繰り返し記されていた。


グレイ・ハザード。


ある記録では、一つの軍事拠点が一夜で機能を失っている。


別の記録では、国家中枢にいた複数の人物が、同じ時刻に姿を消していた。


さらに別の記録では、軍、通信、政治の命令系統が、たった一人の侵入によって停止している。


『ホテル内の全代表、ならびに全警備要員へ告げます』


ヴァルツの声が館内へ流れた。


落ち着いた、危機管理責任者の声だった。


『これまで五界の安定を守るため、封印されていた記録を公開します』


画面の中央に、グレイの顔写真が表示される。


現在の白髪ではない。


まだ黒い髪を残していた頃の、感情のない横顔だった。


『グレイ・ハザード』


『通称、《灰色の悪魔》』


その呼び名に、各所の護衛たちが息を呑む。


だが、画面にはさらに別の記録が重なった。


――単独で侵入。


――最小の手数によって、一国家の通信、軍事、政治、門機能を一夜で停止。


――国家を崩壊させる危険因子として、理想形に近い。


――危険分類、最高位。


最後に、赤い文字が表示された。


――コードネーム、《アイディアルハザード》。


『各界で暗殺、破壊工作、政変介入を繰り返してきた、元停戦執行人です』


記録が次々と切り替わる。


倒れた兵士。


停止した通信塔。


機能を失った軍事施設。


地図から消された作戦区域。


映像の多くは途中で切れ、前後の事情は示されていない。


それでも、見る者へ与える印象は十分だった。


『十年前、彼は門界《レムナ》へ単独で侵入しました』


画面に、レムナ停戦執行作戦の記録が現れる。


――国家通信停止。


――軍事機能停止。


――政治機能停止。


――門機能停止。


続いて、三百十二人分の死亡認定記録が画面を埋めた。


『その結果、レムナは消滅し、三百十二名が死亡しました』


ヴァルツは、グレイが三百十二人を直接殺したとは言っていない。


だが、館内にいる者たちは、すでにその噂を知っている。


公開された機密記録は、噂が事実だったと信じるには十分だった。


次に表示されたのは、リゼットの身分記録だった。


リゼット・モーン。


人界身分発行日、十年前。


その下に、封印されていた古い記録が重なる。


――出生地、門界《レムナ》。


――移送時年齢、十六歳。


――境界設備適合率、最高値。


「やめて……」


リゼットが送信を切ろうとする。


制御盤は反応しなかった。


『そして、グレイ・ハザードには協力者がいました』


現在のリゼットの顔写真が表示される。


『ホテル・アーク危機管理室、境界設備担当官。リゼット・モーン』


『人界出身者として勤務していましたが、実際にはレムナ出身者です』


『彼女は身分を偽り、長年にわたってホテルの境界設備へ接触できる立場にいました』


画面に、リゼットの設備操作履歴が並ぶ。


日常業務として行った点検。


均衡領域の調整。


地下設備への認証。


すべてが、侵入準備の記録であるかのように編集されていた。


『二人は最初から通じていました』


地下の監視映像が映る。


グレイとリゼットが並び、《根門》の前に立っている。


切り取られた映像だけを見れば、二人が門を操作しているようにしか見えない。


『アルバート・ヴェイル議長は、二人の計画に気づきました』


画面が切り替わる。


密室で倒れているアルバート。


血液から検出された森界薬剤。


停止していた均衡領域。


偽装された機界管理記録。


『そのため、口を封じられたのです』


「違います!」


リゼットの声が地下に響く。


館内には届かない。


『ノア・セルンも、二人の計画に利用された可能性があります』


ヴァルツの声には、若者を案じるような響きさえあった。


『彼が入手した資料も、送信した警告も、すべて二人が用意した誘導だったと考えられます』


リゼットは画面を見つめた。


事実と虚偽が、巧妙につなぎ合わされている。


グレイが停戦執行人だったこと。


リゼットがレムナ出身だったこと。


ノアが資料を盗み、警告を送ったこと。


アルバートが殺されたこと。


どれも事実だった。


ただし、その間にある理由だけが、すべて逆転させられていた。


『現在、二人はホテル地下の《根門》を占拠しています』


五界へつながる門の映像が映る。


接続先が不安定に揺れ、警告表示が赤く点滅していた。


『《根門》が完成すれば、五界すべての門を、個別に閉鎖、開放、変更できるようになります』


『軍の移動も、食料の輸送も、医薬品の供給も、二人の意思で止められる』


『彼らの目的は、レムナの復興ではありません』


わずかな間を置き、ヴァルツが告げる。


『五界の支配です』


ホテル各所の映像が分割表示された。


各界代表。


護衛隊。


警備室。


誰もが画面を見上げている。


『私は現在、地下で二人の計画を阻止しています』


操作台の横に立つヴァルツ自身の姿が映る。


画面の角度は、拘束されたリゼットや、銃を持っていた事実を映していなかった。


『均衡領域の停止と《根門》の暴走を食い止めるには、皆さんの協力が必要です』


ヴァルツは、あくまで冷静に続けた。


『グレイ・ハザードとリゼット・モーンを、直ちに拘束してください』


『抵抗した場合に限り、各界警備規定に基づく武力行使を許可します』


命令ではない。


五界を守るための、正当な要請に聞こえた。


『これは新たな支配者を生み出さないための行動です』


館内の護衛たちが、次々と武器を取る。


先ほどまで《灰色の悪魔》の強さへ畏怖と憧れを向けていた者たちも、表情を変えていた。


伝説の英雄ではない。


数々の国家を裏から壊し、今度は五界そのものを奪おうとしている怪物。


恐怖は、敵意へ変わる。


畏敬は、警戒へ変わる。


グレイを称賛していた若い護衛たちまで、地下へ続く通路へ向かい始めた。


リゼットは唇を噛んだ。


「これが、あなたの目的だったんですね」


ヴァルツは操作台の前で立ち上がった。


「事実を並べただけです」


「理由を全部隠して」


「人は理由では動きません」


ヴァルツは画面に映るグレイを見た。


「恐れるべき名前と、倒すべき敵がいれば動く」


根門が大きく揺れた。


五つの輪に映る風景が崩れ始める。


「間もなく、ここへ各界の警備隊が来ます」


ヴァルツは静かに告げた。


「今度は全員が、あなたたちを止めるために」

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