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境界探偵アイディアルハザード ―異界ホテルの六人目―  作者: スドタケ


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第10話 この国を殺す

地下通路から、いくつもの足音が近づいてきた。


ヴァルツの放送を聞いた各界の護衛たちだ。


《根門》が低く唸る。


五つの輪に映る景色が重なり、竜界の炎が人界の高層建築へ流れ込んでいた。


「接続先が崩れています」


リゼットは操作台へ向かう。


「止められるか」


グレイが尋ねた。


左脇から血が落ちている。


右脚もわずかに引きずっていた。


それでも声は静かだった。


「主制御を取り戻せれば」


「なら、やれ」


「警備隊が来ます」


グレイは入口へ向き直った。


「そっちは俺が止める」


防壁が開いた。


人界警備隊を先頭に、各界の護衛が流れ込んでくる。


無数の武器が、グレイとリゼットへ向けられた。


「グレイ・ハザード、リゼット・モーン!」


人界の隊長が叫ぶ。


「境界管理庁長官の命令により拘束する!」


グレイは両手を上げなかった。


リゼットの前へ立つ。


血に濡れた背中だった。


若くも、無傷でもない。


それでも、誰もすぐには踏み込めなかった。


「抵抗するなら武力を行使する!」


「放送だけで撃つつもり?」


ヴェラが護衛の間から進み出た。


ラド、セレネ、エイリンも続く。


「この男は《アイディアルハザード》です」


人界隊長が答えた。


「だから何?」


ヴェラはグレイから目を離さない。


「本気で五界を奪うつもりなら、私たちがここまで来られると思う?」


「恐れているだけだ」


若い竜界兵が前へ出た。


炎をまとった剣を振り上げる。


「伝説が本物か、俺が確かめる」


グレイは避けなかった。


次の瞬間、剣だけが床を滑っていた。


竜界兵は腕を押さえ、膝をつく。


背後から人界警備官が警棒を振る。


機界兵の義腕が照準を合わせる。


夜界兵の影が床を走った。


乾いた音が、一度だけ響いた。


警棒が義腕へ挟まり、照準が天井へそれる。


影は主を失ったように消えた。


グレイは夜界兵の肩へ触れ、その身体を静かに床へ寝かせる。


四人。


誰も死んでいない。


だが、誰も立てなかった。


グレイは血のにじんだ袖を引き下ろす。


「退け」


低い声が地下へ落ちた。


若い護衛たちから勢いが消える。


恐怖。


畏怖。


憎悪。


隠し切れない憧れ。


機密文書の名ではない。


目の前の男そのものが、《アイディアルハザード》の意味を証明していた。


古参兵たちが武器を下ろす。


「今だ」


グレイは振り返らずに言った。


リゼットは操作台へ手を置いた。


「私の判断で開きます」


「ああ」


それだけだった。


リゼットは生体情報を《根門》へ接続する。


六つ目の空白に淡い光がともった。


――門界認証、一致。


――旧管理記録を展開。


大量の記録が流れ込む。


ヴァルツの顔から余裕が消えた。


「切断しなさい」


「十年、境界設備を扱ってきました」


リゼットの指は止まらない。


「あなたより分かります」


クオンの声が端末から響く。


『原本領域への接続を確認。改変は不可能』


「午前零時の記録を」


グレイが言う。


『均衡領域停止、九秒。会議前に登録された予約命令だ』


認証者の名が表示された。


エドガー・ヴァルツ。


「認証は複製されたものです」


「できません」


リゼットが即座に否定する。


「特別認証には生体反応が残ります」


『一致率九九・九九七パーセント』


クオンが続けた。


セレネも端末を開く。


「夜界通信は地下警備回線で作られている。送信端末は境界管理庁のものよ」


エイリンがアルバートの血液記録を示した。


「死因は森界の毒ではありません。服用していた胃薬です」


「均衡領域が停止した九秒間だけ、血中で結晶化した」


リゼットが言った。


「犯人は部屋へ入る必要がなかった」


竜界の金属片も、ヴァルツが承認した警備備品から持ち込まれていた。


ノアへ匿名で資料を送った回線も同じだった。


四界を疑わせる証拠。


ノアを犯人に見せる情報。


すべてが、ヴァルツへつながっていく。


「長官……」


人界隊長が武器を下ろした。


「捏造です」


ヴァルツは静かに答える。


「レムナの権限で書き換えている」


『不可能だ』


クオンが断じた。


『原本は機界側にも分散保存されている』


沈黙が落ちる。


「なぜアルバート議長を?」


リゼットは第六議席の復活案を開いた。


レムナの出生記録。


《根門》の共同管理案。


代表候補として記された、リゼットの名。


さらに、別の文書が表示される。


――五界協定失効時、ホテル・アーク全境界設備を人界境界管理庁の緊急管理下へ移行。


責任者、エドガー・ヴァルツ。


「協定が失効すれば、ホテルと門の管理権はあなたへ移る」


リゼットはヴァルツを見た。


「アルバート議長は、それを止められる立場だった」


「レムナの真相も持っていた」


グレイが続ける。


「だから殺した」


ヴァルツは、もう否定しなかった。


「五界には管理する者が必要です」


不安定な《根門》を見上げる。


「軍も交易も外交も、門を握る者が制御できる。誰かが秩序を作らなければ、五界はまた争う」


「その誰かがお前か」


「私なら制御できる」


「十年前も、同じ理屈だった」


画面に古い命令書が開いた。


――第二次執行命令。


――対象、三百十二名。


――研究者、避難民、家族、証人を含む。


――全対象を処分。


リゼットの指が止まる。


子供の名前もあった。


「これが、第二命令……」


「三百十二人で、何億人が救われると思いますか」


ヴァルツが言った。


グレイの左手が強張る。


「俺も最初は、同じ側にいた」


二十九人。


その中には、止めるべき者もいた。


真実を公表しようとしただけの者もいた。


「だから命令を拒んだ?」


「ああ」


別の記録が表示される。


午前一時十二分。


停戦執行室の外部通信停止。


午前一時十九分。


指揮階を分断。


午前一時二十七分。


証拠抹消回線と資金口座を封鎖。


午前一時三十一分。


記録庫を制圧し、全執行命令を停止。


命令。


通信。


記録。


資金。


指揮官。


組織が動くために必要なものだけが、順番に奪われていた。


停戦執行室は、一夜で機能を失った。


「自分を作った場所まで壊した」


ヴァルツが言う。


「壊したのは建物じゃない」


グレイは答えた。


「人を数字で処分する仕組みだ」


リゼットは、その下に残る記録を見つけた。


未完成の避難門。


通過反応、三百十二。


数秒おきに、一人ずつ記録されている。


名簿に引かれた線と、時刻が一致した。


「殺害済みの印じゃない」


リゼットは息を呑む。


「門を通った順番……」


「人界へ逃がした」


グレイが答える。


「私の家族も?」


「名簿にいる。全員、門は通した」


「その後は?」


「本人の同意なしには開けない保護記録だ」


「追跡されないように旧氏名と国籍を消し、公式には死者にした」


灰色の手袋。


血のついた左手。


夜明けまでに、この国を殺す。


「あなたが殺したのは……」


グレイは六つ目の空白を見た。


「人間じゃない」


静かな声だった。


「国だ」


ヴァルツが笑う。


「それで英雄になったつもりですか」


「なっていない」


「二十九人を殺した男が、今さら探偵ですか」


「ああ」


グレイはリゼットの前に立ったまま答える。


「国家は人間を数で見る」


二十九人。


三百十二人。


記録には、名前より先に数字が並んでいた。


「探偵は、最初に名前を聞く」


「それだけですか」


「俺には十分だ」


ヴァルツの手が、操作台の下へ伸びた。


「離れて!」


非常起動装置が押される。


《根門》の五つの輪が一斉に回転した。


炎と影と蔦が地下へあふれ出す。


ヴァルツは警備隊の銃を奪い、リゼットへ向けた。


銃声。


グレイの右肩が跳ねる。


「グレイ!」


「止めろ」


彼は振り返らなかった。


二発目が撃たれる前に、グレイがヴァルツの懐へ入る。


負傷した右腕を使わず、左手だけで銃を落とした。


ヴァルツの膝が折れる。


グレイは逃げ道だけを奪い、床へ伏せさせた。


「殺しなさい」


「それでは終わらない」


「昔から甘い」


「昔なら殺した」


グレイは拘束具を締めた。


「今は探偵だ」


ヴァルツが苦しげに笑う。


「生かして、何になる」


「死人は、都合のいい罪しか背負わない」


グレイはヴァルツを床へ伏せさせた。


「生きて、全部話せ」


リゼットは《根門》の接続を一つずつ切り離した。


竜界。


夜界。


森界。


機界。


人界。


最後に、六つ目の空白を閉じる。


巨大な輪が停止した。


午前五時五十分。


残された十分の間に、アルバート殺害の証拠と、ヴァルツの管理権移管計画が各界の政府と現地部隊へ共有された。


緊急協議の末、午前六時を前に、五界協定は事件の再調査が終わるまで暫定延長された。


《根門》は封印され、レムナの第六議席は関係者の意思が確認されるまで保留となった。


「あなたが代表になるのではないのか」


ラドがリゼットへ尋ねる。


「今は決めません」


「資格はある」


「資格があることと、受けることは別です」


リゼットは停止した《根門》を見た。


「レムナを戻すかどうかは、生き残った人たちが決めることです」


グレイは何も言わなかった。


ただ、わずかに目を細めた。


午前六時過ぎ。


地下から戻る途中、グレイの足が止まった。


リゼットが腕を取る。


「つかまってください」


「必要ない」


「右肩を撃たれています」


「見れば分かる」


「では黙ってください」


グレイは諦めたように、彼女へ体重を預けた。


白髪は汗で額へ張りつき、左頬の古傷には薄く血がにじんでいる。


若くはない。


無傷でもない。


それでも、その横顔には、長い夜を越えた男だけが持つ静かな色気があった。


曲がったネクタイへ、リゼットが手を伸ばす。


グレイがわずかに顔を引く。


「近い」


「戦場では平気なのに」


「戦場の敵は、ネクタイを直さない」


リゼットは小さく笑った。


一階のロビーには、六つの旗台が並んでいた。


一つだけ、空いたままの旗台。


「依頼は終わりですか」


「ああ」


「請求額は?」


グレイは血のついた請求書を差し出した。


金額欄は空白だった。


「また未記入ですか」


「あとで決める」


「それで、よく十年も続きましたね」


グレイは朝日の差す出口へ歩き出した。


「俺もそう思う」


リゼットは空白の請求書を手に、その背中を追った。

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