エピローグ まず、お名前を
事件から三週間後。
境界都市には、いつもの雑踏が戻っていた。
五界協定は暫定延長されたまま、アルバート・ヴェイル殺害事件と、十年前の門界消滅について再調査が続いている。
ヴァルツは、五界共同警備の管理下に置かれた。
《根門》は封印。
三百十二人の現在の身元は、公開されていない。
グレイ境界探偵事務所の扉が、前触れもなく開いた。
旅行鞄の車輪が、入口の段差へぶつかる。
続いて、大きな書類箱を抱えたリゼットが、身体で扉を押し広げながら入ってきた。
机の向こうで古い端末をにらんでいたグレイが、ゆっくりと顔を上げる。
右肩には、まだ包帯が残っていた。
白髪も、左頬から顎へ走る古傷も変わらない。
ただし、曲がったネクタイだけは、事件前より少しましになっていた。
グレイはリゼットを見る。
次に旅行鞄。
さらに、扉の外に置かれた二つ目の荷物へ視線を移した。
「……何の真似だ」
「予約は入れていません」
「見れば分かる」
「連絡もしていません」
「それも分かる」
リゼットは書類箱を抱え直し、そのまま奥へ入った。
「誰が入っていいと言った」
「扉は開いていました」
「今、君が開けた」
「細かいことを気にするんですね」
書類箱が、机の上へ置かれる。
積まれていた未処理の請求書が崩れた。
「家出か」
「退職しました」
グレイの眉がわずかに動く。
「ホテルを?」
「昨日付で」
リゼットは箱から契約書を取り出した。
「境界設備の外部顧問契約は残しました。レムナ由来の設備を扱える人間を、ホテルも手放したくないようです」
「なら、そちらに専念しろ」
「こちらでも働きます」
「聞いていない」
「今、言いました」
リゼットは机の上を見回した。
期限を過ぎた請求書。
未開封の行政通知。
空になったコーヒー容器。
事件の日に渡された、金額欄が空白の請求書。
机の端には、各界政府から届いた封書も積まれていた。
竜界軍からの顧問要請。
機界保安局からの協力依頼。
人界境界管理庁からの特別顧問就任要請。
すべて未開封だった。
「返事をしなくていいんですか」
「捨てておけ」
「全部ですか」
「依頼人の名前が書いていない」
リゼットは一度だけ封書を見たあと、未処理箱へ移した。
「では、今日から私が管理します」
「採用した覚えはない」
「採用手続きは準備しました」
「給料は出ないぞ」
「ホテルの顧問料がありますから、当面は困りません」
「ただ働きか」
「事務所が黒字になったら、未払い分もまとめて請求します」
「黒字になる保証はない」
「私が管理すればなります」
グレイは返事をしなかった。
リゼットは部屋の隅にあった椅子から、古いコートを持ち上げる。
その下には、空の書類棚があった。
「ここを使います」
「客用だ」
「客が座った形跡がありません」
「観察が細かいな」
「境界探偵の助手ですから」
「まだ決まっていない」
リゼットは書類箱から、携帯式の表示札プリンターを取り出した。
端末で短く文字を入力すると、細長い粘着札が音を立てて吐き出される。
「それは何だ」
「事務所に必要な表示です」
リゼットは印字面をグレイから隠すように持ち、入口へ向かった。
「勝手に貼るな」
「もう印刷しました」
「印刷と掲示は別だ」
リゼットは台紙を剥がし、古い看板の下へ札を押しつけた。
グレイが椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
事務所の呼び鈴が鳴った。
扉の前には、四十代ほどの女性が立っていた。
手には、市警と境界管理局の紹介票がある。
「夫を探していただけますか」
グレイは依頼人の前へ出た。
右肩をかばう動きが、まだわずかに残っている。
それでも、疲労を感じさせない落ち着いた顔になっていた。
「市警には?」
「三日前に届けました」
女性は調査資料を差し出した。
「普通の失踪ではない可能性があるから、境界探偵へ相談するように言われました」
アーク中央駅の映像には、最終列車へ乗り込む夫の姿が残っていた。
だが、その後、どの駅のホームにも改札にも映っていない。
列車が車庫へ入った時、車内にもいなかった。
扉の開閉記録に異常はない。
ただ一つ。
二つの駅の間を走行中、車内映像が二秒間だけ白く途切れていた。
同じ時刻、列車の境界記録器には、不明な反応が残されている。
――臨時接続地点・白夜終端。
「鉄道会社にも、市警にも、そんな駅は存在しないと言われました」
リゼットは記録を端末へ読み込んだ。
現在の路線。
廃止された駅。
五界の門座標。
どこにも該当しない。
「停車した記録ではありません」
リゼットは表示を拡大した。
「列車そのものが、二秒間だけ別の境界へ接続しています」
女性の顔から血の気が引く。
グレイは記録をしばらく見た。
それから手帳を開く。
「夫の名前は」
女性が答える。
グレイは、最初の行にその名を書いた。
国でもない。
事件番号でもない。
消えた一人の名前だった。
「調べる」
「見つかるでしょうか」
グレイは古いコートを羽織り、依頼人から受け取った資料を内ポケットへ入れた。
「それを確かめるのが仕事だ」
リゼットも端末と鞄を持ち、その背中を追う。
扉の横では、古い看板の下に、新しい札が揺れていた。
――灰色の悪魔と美人助手が在籍。まず、お名前を。
グレイが足を止めた。
「剥がせ」
「事件から戻ったら考えます」
「今剥がせ」
リゼットは聞こえないふりをして、先に階段を下りた。
グレイは小さく息を吐く。
胸ポケットからペンを抜き、札の文字を黒く塗りつぶした。
それから、リゼットの背中を追って階段を下りていく。
扉の看板が、風に小さく揺れた。
――グレイ境界探偵事務所。
――失踪・身元・異界事件。
――■■■■■■美人助手が在籍。まず、お名前を。




