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境界探偵アイディアルハザード ―異界ホテルの六人目―  作者: スドタケ


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12/12

エピローグ まず、お名前を

事件から三週間後。


境界都市アークには、いつもの雑踏が戻っていた。


五界協定は暫定延長されたまま、アルバート・ヴェイル殺害事件と、十年前の門界レムナ消滅について再調査が続いている。


ヴァルツは、五界共同警備の管理下に置かれた。


《根門》は封印。


三百十二人の現在の身元は、公開されていない。


グレイ境界探偵事務所の扉が、前触れもなく開いた。


旅行鞄の車輪が、入口の段差へぶつかる。


続いて、大きな書類箱を抱えたリゼットが、身体で扉を押し広げながら入ってきた。


机の向こうで古い端末をにらんでいたグレイが、ゆっくりと顔を上げる。


右肩には、まだ包帯が残っていた。


白髪も、左頬から顎へ走る古傷も変わらない。


ただし、曲がったネクタイだけは、事件前より少しましになっていた。


グレイはリゼットを見る。


次に旅行鞄。


さらに、扉の外に置かれた二つ目の荷物へ視線を移した。


「……何の真似だ」


「予約は入れていません」


「見れば分かる」


「連絡もしていません」


「それも分かる」


リゼットは書類箱を抱え直し、そのまま奥へ入った。


「誰が入っていいと言った」


「扉は開いていました」


「今、君が開けた」


「細かいことを気にするんですね」


書類箱が、机の上へ置かれる。


積まれていた未処理の請求書が崩れた。


「家出か」


「退職しました」


グレイの眉がわずかに動く。


「ホテルを?」


「昨日付で」


リゼットは箱から契約書を取り出した。


「境界設備の外部顧問契約は残しました。レムナ由来の設備を扱える人間を、ホテルも手放したくないようです」


「なら、そちらに専念しろ」


「こちらでも働きます」


「聞いていない」


「今、言いました」


リゼットは机の上を見回した。


期限を過ぎた請求書。


未開封の行政通知。


空になったコーヒー容器。


事件の日に渡された、金額欄が空白の請求書。


机の端には、各界政府から届いた封書も積まれていた。


竜界軍からの顧問要請。


機界保安局からの協力依頼。


人界境界管理庁からの特別顧問就任要請。


すべて未開封だった。


「返事をしなくていいんですか」


「捨てておけ」


「全部ですか」


「依頼人の名前が書いていない」


リゼットは一度だけ封書を見たあと、未処理箱へ移した。


「では、今日から私が管理します」


「採用した覚えはない」


「採用手続きは準備しました」


「給料は出ないぞ」


「ホテルの顧問料がありますから、当面は困りません」


「ただ働きか」


「事務所が黒字になったら、未払い分もまとめて請求します」


「黒字になる保証はない」


「私が管理すればなります」


グレイは返事をしなかった。


リゼットは部屋の隅にあった椅子から、古いコートを持ち上げる。


その下には、空の書類棚があった。


「ここを使います」


「客用だ」


「客が座った形跡がありません」


「観察が細かいな」


「境界探偵の助手ですから」


「まだ決まっていない」


リゼットは書類箱から、携帯式の表示札プリンターを取り出した。


端末で短く文字を入力すると、細長い粘着札が音を立てて吐き出される。


「それは何だ」


「事務所に必要な表示です」


リゼットは印字面をグレイから隠すように持ち、入口へ向かった。


「勝手に貼るな」


「もう印刷しました」


「印刷と掲示は別だ」


リゼットは台紙を剥がし、古い看板の下へ札を押しつけた。


グレイが椅子から立ち上がろうとした、その時だった。


事務所の呼び鈴が鳴った。


扉の前には、四十代ほどの女性が立っていた。


手には、市警と境界管理局の紹介票がある。


「夫を探していただけますか」


グレイは依頼人の前へ出た。


右肩をかばう動きが、まだわずかに残っている。


それでも、疲労を感じさせない落ち着いた顔になっていた。


「市警には?」


「三日前に届けました」


女性は調査資料を差し出した。


「普通の失踪ではない可能性があるから、境界探偵へ相談するように言われました」


アーク中央駅の映像には、最終列車へ乗り込む夫の姿が残っていた。


だが、その後、どの駅のホームにも改札にも映っていない。


列車が車庫へ入った時、車内にもいなかった。


扉の開閉記録に異常はない。


ただ一つ。


二つの駅の間を走行中、車内映像が二秒間だけ白く途切れていた。


同じ時刻、列車の境界記録器には、不明な反応が残されている。


――臨時接続地点・白夜終端。


「鉄道会社にも、市警にも、そんな駅は存在しないと言われました」


リゼットは記録を端末へ読み込んだ。


現在の路線。


廃止された駅。


五界の門座標。


どこにも該当しない。


「停車した記録ではありません」


リゼットは表示を拡大した。


「列車そのものが、二秒間だけ別の境界へ接続しています」


女性の顔から血の気が引く。


グレイは記録をしばらく見た。


それから手帳を開く。


「夫の名前は」


女性が答える。


グレイは、最初の行にその名を書いた。


国でもない。


事件番号でもない。


消えた一人の名前だった。


「調べる」


「見つかるでしょうか」


グレイは古いコートを羽織り、依頼人から受け取った資料を内ポケットへ入れた。


「それを確かめるのが仕事だ」


リゼットも端末と鞄を持ち、その背中を追う。


扉の横では、古い看板の下に、新しい札が揺れていた。


――灰色の悪魔と美人助手が在籍。まず、お名前を。


グレイが足を止めた。


「剥がせ」


「事件から戻ったら考えます」


「今剥がせ」


リゼットは聞こえないふりをして、先に階段を下りた。


グレイは小さく息を吐く。


胸ポケットからペンを抜き、札の文字を黒く塗りつぶした。


それから、リゼットの背中を追って階段を下りていく。


扉の看板が、風に小さく揺れた。


――グレイ境界探偵事務所。


――失踪・身元・異界事件。


――■■■■■■美人助手が在籍。まず、お名前を。

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