表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/22

第5話 弟は、俺より美しく座る

 町は、父上の死をもう知っていた。


 城の中では、まだ香の匂いが残っている。


 廊下には喪の気配が沈み、誰もが声を低くして歩いている。


 だが町は違う。


 町は死者に長く付き合わない。


 もちろん、父上の死を悼む者はいる。


 店先で手を合わせる老婆もいた。


 織田信秀様が亡くなられたのか、と声を詰まらせる商人もいた。


 だが、その隣では魚が売られ、米が量られ、馬が糞を落とし、子供が腹を空かせて泣いていた。


 人が一人死んでも、米は炊かねばならない。


 武士がいくら悲しみを形にしても、町の腹は待ってくれない。


 だから俺は町へ出た。


 葬儀の日に。


 平手の爺は、今にも俺の首根っこを掴んで引きずり戻しそうな顔をしていた。


 それでも最後は黙ってついてきた。


 あの男は、俺を止めたいのか、見届けたいのか、ときどき自分でも分かっていない顔をする。


「若、せめて供を増やしてください」


「喪中の嫡男が大名行列のように町を歩く方がおかしい」


「葬儀の後に町を歩いておられる時点で十分おかしいのでございます」


「では、少しのおかしさは誤差だ」


「誤差で済ませないでいただきたい」


 爺はそう言いながらも、俺の半歩後ろを離れなかった。


 町の者たちは、俺を見ると頭を下げた。


 昨日とは違う。


 昨日までの俺は、うつけの若様だった。


 今日は、父を亡くした若様だ。


 同じ俺のはずなのに、人の目が変わる。


 面白いものだ。


 いや、面白がっている場合ではない。


 目が変わったということは、町もまた次の形を探しているということだ。


 誰に従えばよいのか。


 誰に取り入ればよいのか。


 誰に逆らってはいけないのか。


 城の中だけではない。


 町も測っている。


 ならば、俺も測る。


「米の値が上がっている」


 俺は米屋の前で足を止めた。


 爺が眉をひそめる。


「昨日と比べてでございますか」


「一昨日よりもだ」


「よく覚えておられますな」


「腹に入るものの値を覚えぬ者が、どうして兵を動かす」


 米屋の主人は、俺に気づいて慌てて頭を下げた。


 顔には愛想が貼りついている。


 しかし、目の奥には怯えがある。


 父上の死が、もう商いに触れている。


「上げたな」


 俺が言うと、主人の肩が跳ねた。


「い、いえ、若様。これは、その……仕入れが」


「仕入れがどうした」


「道が少々混みまして」


「誰が止めている」


 主人は口をつぐんだ。


 分かりやすい。


 父上が死んだと知って、道で余計な銭を取る者が出たのだろう。


 誰かが勝手に名を使ったか。


 誰かが意図してやらせたか。


 あるいは、ただの小者が世の隙間に指を入れただけか。


 いずれにせよ、父上の死はもう道を詰まらせている。


「明日、同じ値なら名を聞く」


 俺はそれだけ言った。


 米屋は深く頭を下げた。


「は、はい」


 爺が横で小さく息を吐いた。


「また、敵を増やされます」


「米の値を勝手に上げる敵なら、早めに増えた方がよい」


「敵は増えぬ方がよいに決まっております」


「隠れて増えるより、顔を出して増えた方がましだ」


 爺は何か言いたげだったが、言わなかった。


 その代わり、少しだけ疲れた顔をした。


 俺は城へ戻った。


 葬儀の場へ戻ると、俺に向けられる視線は先ほどよりさらに複雑になっていた。


 抹香を投げたうつけ。


 葬儀の途中で町へ出た嫡男。


 そして、米の値を見に行った若君。


 噂はもう城の中を走っているだろう。


 俺が何をしても、人は語る。


 ならば語らせておけばよい。


 ただし、語られる中身の一つくらいは、こちらで混ぜる。


 葬儀が終わった後、俺は自室へ戻らず、広間へ向かった。


 そこに勘十郎がいた。


 あいつは一人で座っていた。


 いや、正確には一人ではない。


 少し離れたところに家臣が控えていた。


 だが、その場の中心にいるのは勘十郎だった。


 背筋を伸ばし、喪の衣を乱さず、静かに座っている。


 父を亡くした弟。


 織田家の若君。


 そういう姿として、あまりにきれいだった。


 俺はその入口で少し立ち止まった。


 弟は俺に気づき、すぐに頭を下げた。


「兄上」


「まだいたのか」


「父上の御用の品を、整理しておりました」


 見ると、文箱や筆、父上が使っていた小さな道具が並べられている。


 勘十郎は、それを丁寧に分けていたらしい。


 俺ならたぶん、あとでまとめて見ればよいと言って放っておく。


 だが、勘十郎は違う。


 こういう時に、こういうことができる。


 そして、それを見た家臣は安心する。


 父上のものを大事にする弟。


 父の葬儀で抹香を投げた兄。


 比べるなと言う方が無理だ。


「ご一緒に確認されますか」


 勘十郎が言った。


 責める声ではなかった。


 むしろ自然だった。


 俺は勘十郎の向かいに座った。


 畳の感触が妙に硬い。


「お前は昔から、物をきれいに並べる」


「兄上は昔から、並べたものを崩されました」


「崩した方が、どこに何があるか分かることもある」


「普通は、分からなくなります」


「そうか」


「そうです」


 勘十郎は少しだけ笑った。


 それは幼い頃の顔だった。


 俺たちは、最初から敵だったわけではない。


 そんなはずがない。


 同じ父の子として、同じ城で育った。


 喧嘩もした。


 馬を競った。


 弓で負けた時、勘十郎は悔しそうに唇を噛んだ。


 俺が木から落ちた時、あいつは泣きそうな顔で人を呼びに走った。


 そういう時代があった。


 けれど今、俺たちの間には父上の死が置かれている。


 いや、父上の死だけではない。


 織田家という、割れかけた器が置かれている。


「兄上」


 勘十郎は文箱の蓋を閉じた。


「今日のことを、お尋ねしてもよろしいですか」


「抹香のことか」


「はい」


 ごまかさない。


 そこは、弟のよいところだ。


 遠回しに探ることもできるだろうに、あいつはまだそれをしない。


「なぜ、あのようなことをなさったのです」


「聞いたところで、納得はせぬぞ」


「納得したいのではありません」


「では何だ」


「知りたいのです」


 俺は勘十郎を見た。


 あいつの目はまっすぐだった。


 そのまっすぐさが、少し眩しい。


「父上を侮辱されたのですか」


「違う」


 即答した。


 そこだけは迷わなかった。


「では、家中を試されたのですか」


「半分はそうだ」


 勘十郎の眉が寄る。


「半分?」


「残り半分は、俺にも分からぬ」


「分からぬまま、あのようなことを?」


「人は、己のすることすべてを分かってから動くわけではない」


「それでは困ります」


「俺も困っている」


「兄上」


 勘十郎の声が少し強くなった。


 だが怒鳴らない。


 こいつは、怒る時でさえ形を崩さない。


「家中が揺れております」


「知っている」


「父上が亡くなられたばかりです。皆、不安なのです」


「知っている」


「ならば、兄上がさらに不安にさせてどうするのですか」


「不安にならぬ家中など、もう死んでいる」


 勘十郎が黙った。


 俺は続けた。


「父上が死んだ。外には今川がいる。美濃も落ち着かぬ。尾張の内にも火種はいくらでもある。こんな時に不安にならぬ者がいるなら、そいつは何も見ておらぬ」


「不安で動けなくなっては意味がありません」


「そうだ。だから不安を見る」


「見る?」


「どこから不安が出ているか。誰が不安を煽っているか。誰がその不安を使おうとしているか。見ねばならぬ」


「そのために、父上の葬儀を」


「葬儀だから見えた」


 勘十郎の顔が、はっきりと痛んだ。


 俺は胸の奥が少し沈むのを感じた。


 こいつは、父上の葬儀を父上の葬儀として守りたかったのだ。


 俺がそれを壊した。


 そのことは分かっている。


 分かっていて、俺は自分の言葉を引っ込められない。


「兄上は、父上を悲しんでおられるのですか」


 勘十郎の問いは静かだった。


 静かすぎて、刃のようだった。


 俺はすぐには答えられなかった。


 悲しんでいる。


 そう言えば簡単だ。


 だが、その言葉を口にした途端、何かが安くなる気がした。


「悲しい」


 それでも、俺は言った。


「だが、悲しいだけでは済まぬ」


「誰も、悲しいだけでいろとは言っておりません」


「言っている」


「誰が」


「場がだ」


 勘十郎は分からないという顔をした。


 俺は文箱の上に置かれた父上の筆を見た。


 古い筆だ。


 父上は物持ちがよかった。


 必要なものは大事にする男だった。


「葬儀の場は、人に役を与える。泣く息子。立派な嫡男。静かな弟。忠義の家臣。悲しむ家中。皆、その役に入る」


「それが礼というものです」


「礼は大事だ」


「ならば」


「だが、礼の中に入れば、人は本音を隠す」


「本音をむき出しにすれば、家は乱れます」


「隠した本音が腐れば、もっと乱れる」


 勘十郎は口を閉じた。


 俺たちは、同じものを見ているようで見ていない。


 父上の死。


 家中の不安。


 織田家の行く末。


 同じ言葉を使っていても、見えている形が違う。


 勘十郎は、家を一つに保とうとしている。


 俺は、すでに割れている家を、割れたまま握ろうとしている。


 どちらが正しいかなど、今は分からぬ。


 ただ、一つだけ分かる。


 この違いはいずれ、俺たちを近づけるか、遠ざける。


「兄上は、織田を変えるおつもりですか」


 勘十郎が聞いた。


「変えねば残らぬなら、変える」


「父上の築かれたものを?」


「父上の築いたものを残すためにだ」


「残すために壊すのですか」


「腐った梁を残せば、家ごと潰れる」


「どれが腐っていると、兄上に分かるのです」


 鋭い問いだった。


 俺は弟を見直した。


 勘十郎は、ただ整って座っているだけの男ではない。


 そうだ。


 こいつも父上の子だ。


「分からぬ」


 俺は答えた。


 勘十郎の顔が曇る。


「分からぬのに、変えると」


「だから見る」


「また、それですか」


「そうだ」


 俺は少し笑った。


 弟は笑わなかった。


「町を見た。道を見た。米を見た。父上が死んだだけで、もう米の値が上がる。道で余計な銭を取る者が出る。城の中で家臣が喪の顔をしている間に、外では次の損得が始まっている」


「それは、取り締まればよいことです」


「誰が取り締まる」


「織田家が」


「織田家とは誰だ」


 勘十郎は言葉を止めた。


 さきほどと同じ問いだ。


 だが、これはただの禅問答ではない。


 父上がいた頃なら、織田家とは父上のことだった。


 父上の名で動き、父上の力で止まり、父上の恐れで従った。


 だが今は違う。


 父上はいない。


 ならば、織田家とは誰だ。


 俺か。


 勘十郎か。


 家臣たちか。


 名だけか。


 血か。


 城か。


 その答えが定まらぬうちは、取り締まる力も定まらない。


「兄上が、お継ぎになるのでしょう」


 勘十郎は言った。


 声は静かだった。


 だが、奥に何かがあった。


「嫡男ですから」


「そうだな」


「ならば、兄上が織田家です」


「お前はそう思うか」


「思わねば、家中が乱れます」


「思っているかどうかを聞いた」


 勘十郎は答えなかった。


 少しの沈黙。


 それで十分だった。


 俺は笑わなかった。


 責める気にもならなかった。


 こいつは嘘をつけなかったのだ。


 俺が織田家である。


 そう言うことはできる。


 だが心からそう思っているかと問われれば、まだ頷けない。


 それは当然だ。


 俺自身もまだそう思えていない。


「正直だな」


「兄上が答えにくいことを聞くからです」


「答えにくいところに本音がある」


「人の本音ばかり覗いていたら、嫌われます」


「もう嫌われている」


「開き直らないでください」


 勘十郎の声に、少しだけ兄弟らしい響きが戻った。


 だがそれも一瞬だった。


「兄上」


「何だ」


「私は、父上の築いた織田を守りたい」


「知っている」


「家臣が安心して仕えられる家にしたい。母上が嘆かずに済む家にしたい。父上の名を汚さぬ家にしたい」


「よいことだ」


「兄上は、それを古いと言うのですか」


 俺は勘十郎を見た。


 この問いに、軽く答えてはいけないと思った。


「古いとは言わぬ」


 俺はゆっくり言った。


「それは、大事なものだ」


 勘十郎の表情が少し緩んだ。


 だが俺は続けた。


「だが、大事なものだけを抱いていると、手が塞がる」


「手が塞がる?」


「目の前に火が出た時、大事なものを抱えている者は消しに行けぬ」


「大事なものを置いて火を消しに行けば、誰かに奪われます」


「だから迷う」


「迷っている間に、燃え広がります」


「そうだ」


 俺たちは、しばらく黙った。


 不思議なものだ。


 言い争っているはずなのに、同じ危機を別の側から触っているような気がした。


 勘十郎は間違っていない。


 家の形は大事だ。


 人は形に従う。


 礼があり、席があり、順があり、言葉があるから、余計な争いが抑えられる。


 それを壊せば混乱する。


 だが、形が古くなりすぎれば、中身が腐る。


 誰もが礼を守りながら、裏で米を止め、銭を抜き、人を担ぐ。


 それもまた家を壊す。


「兄上は、私をどう見ておられますか」


 勘十郎が不意に言った。


「弟だ」


「それだけですか」


「父上の子だ」


「それだけですか」


「俺より美しく座る男だ」


 勘十郎は困ったように笑った。


「それは褒めておられるのですか」


「かなり褒めている」


「兄上は、褒め方が下手です」


「よく言われる」


「誰にです」


「爺に」


「平手殿のご苦労が分かります」


 そこで少しだけ、空気が緩んだ。


 だが緩みきらない。


 俺も勘十郎も、分かっていた。


 この会話は、ただの兄弟話ではない。


 織田家の割れ目の上で交わしている言葉だ。


「お前は、家臣に好かれる」


 俺は言った。


 勘十郎は黙って聞いている。


「礼を知っている。言葉を選ぶ。父上の名を大事にする。家中の不安を受け止めようとする。お前の側にいた方が安心する者は多い」


「それは、兄上を否定することにはなりません」


「なると思う者もいる」


「私は、そのようなつもりは」


「お前のつもりだけで人は動かぬ」


 勘十郎の顔がわずかにこわばった。


 きつい言い方だった。


 だが言わねばならぬ。


「お前が何も言わなくても、お前の周りに人は集まる。兄より弟がふさわしいと思う者も出る。父上のやり方を守りたい者ほど、お前を見たくなる」


「兄上は、私を疑っておられるのですか」


「今は疑っていない」


「今は?」


「この先は分からぬ」


 勘十郎が傷ついた顔をした。


 まただ。


 俺は弟を傷つけている。


 それが分かっているのに、言葉が止まらない。


 なぜなら、優しい嘘をつけば、いつかもっと深く傷つける気がするからだ。


「勘十郎」


 俺は声を落とした。


「お前は間違っていない」


 弟は目を上げた。


「お前が父上の名を守りたいと思うこと。家中を安心させたいと思うこと。俺のやり方を危ういと思うこと。どれも間違っていない」


「ならば、なぜ」


「俺も、俺が間違っているとは思っていないからだ」


 勘十郎は何も言わなかった。


「俺は尾張を残したい。父上の名だけでなく、父上が握っていたものを残したい。そのためには、父上と同じ形では足りぬと思っている」


「兄上は、遠くを見すぎている」


「お前は、近くを守りすぎている」


 その言葉の後、広間は静まり返った。


 庭から鳥の声が聞こえた。


 場違いなほど明るい声だった。


「私たちは、いずれ争うのでしょうか」


 勘十郎が言った。


 俺は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 答えたくない問いだった。


 だが、逃げれば弟に見透かされる。


「争わずに済むようにはしたい」


「それは、争うかもしれないという意味です」


「そうだ」


 勘十郎は目を伏せた。


 長い睫毛が影を落とす。


 弟は美しく座る。


 本当に。


 こういう時でさえ、崩れない。


 俺とは違う。


「私は、兄上を憎みたくありません」


「俺もだ」


「では、私を信じてください」


「信じたい」


「信じる、ではないのですね」


「主になる者が、信じたいだけで人を置けば国が傾く」


 勘十郎は顔を上げた。


 今度は、怒っていた。


 静かな怒りだった。


「兄上は、寂しい方ですね」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 俺は何も返せなかった。


 勘十郎は続けた。


「人を見て、測って、疑って、流れを読んで。兄上はいつもそうです。けれど、そうしているうちに、誰も兄上のそばにいなくなります」


「それでも国は見ねばならぬ」


「国の前に、人がいます」


「人を見るから疑う」


「人を疑うから、見えなくなるものもあります」


 今度は俺が黙る番だった。


 弟の言葉は甘いだけではない。


 こいつはこいつで、俺の見えないものを見ている。


 人が安心する姿。


 人が従いたくなる形。


 人が傷つく瞬間。


 俺は人の損得を見る。


 勘十郎は人の心の形を見る。


 だから家臣は、この弟を好むのだ。


「よいことを言う」


 俺が言うと、勘十郎は悲しそうに笑った。


「兄上にそう言われても、少しも嬉しくありません」


「なぜだ」


「まるで、使える道具を見つけた時の顔だからです」


 俺は目を瞬かせた。


 そんな顔をしていたか。


 していたのだろう。


 この弟は、俺が思うより俺を見ている。


「悪かった」


 言うと、勘十郎は驚いた顔をした。


「兄上が謝った」


「俺も謝ることはある」


「明日は雪でしょうか」


「季節を考えろ」


 勘十郎が少しだけ笑った。


 今度の笑いは、本物に近かった。


 それだけで、俺は少し救われた気がした。


 だが、救われた気がしただけだ。


 現実は何も変わっていない。


 父上は死に、家中は割れ、俺と勘十郎は違うものを見ている。


「勘十郎」


「はい」


「しばらくは、母上の側にいてやれ」


「兄上は?」


「俺は、外を見る」


「また町ですか」


「町だけではない。清洲、末森、那古野、道、蔵、家臣の顔。見るものが多い」


「休まれないのですか」


「休むには、早い」


「悲しむには?」


 また鋭いことを言う。


 俺は答えに詰まりかけた。


「それも、早い」


「遅くなりすぎませぬよう」


 勘十郎はそう言って、父上の文箱を俺の方へ差し出した。


「これは、兄上がお持ちください」


「お前が整理していたのではないのか」


「整理したから、お渡しするのです」


「俺が持っていても、なくすぞ」


「だから、なくさないでください」


 文箱は軽かった。


 だが、手に乗せると重かった。


 中には父上の筆、短い書付、印が入っている。


 ただの物ではない。


 父上が父上であった証の欠片だ。


「よいのか」


「嫡男は兄上です」


 勘十郎はまっすぐ言った。


 今度は、逃げなかった。


「私は、それを否定しません」


 その言葉を、どこまで信じればよいのか。


 俺は一瞬考えた。


 そして、考えた自分が嫌になった。


 弟が差し出した文箱を受け取りながら、俺はなお、その手の奥にあるものを測ろうとしている。


 勘十郎の言う通り、俺は寂しいのかもしれない。


「受け取る」


「はい」


「だが、お前も覚えておけ」


「何をですか」


「嫡男が誰かを否定しないだけでは、織田はまとまらぬ」


 勘十郎の表情が硬くなる。


「お前の周りに集まる者たちを、よく見ろ」


「私が兄上に背くと?」


「お前が背かなくても、周りが背かせることはある」


 勘十郎は何も言わなかった。


 今度は傷ついた顔ではない。


 考える顔だった。


 よい。


 傷つくだけで終わらぬなら、それでよい。


「兄上」


「何だ」


「私も、一つ申し上げてよろしいですか」


「言え」


「兄上の周りにいる者たちも、よく見てください」


「見ている」


「そうではありません」


 勘十郎は静かに首を振った。


「疑うためではなく、受け取るために見てください」


 俺は黙った。


 その言葉は、今日聞いたどの小言よりも厄介だった。


 疑うためではなく、受け取るために見る。


 そんな器用なことができるなら、俺はもう少しまともな嫡男になっていただろう。


「考えておく」


「兄上の考えておくは、たいてい忘れる時の言葉です」


「覚えておく」


「それなら少しは」


「たぶんな」


「兄上」


 勘十郎が呆れた。


 その顔に、また少し昔が戻った。


 俺たちは短い間、兄弟だった。


 主と弟ではなく。


 担がれる者と警戒する者でもなく。


 ただ、父を亡くした兄弟だった。


 けれど、その時間は長く続かない。


 廊下の向こうから足音が近づいてきた。


 家臣が現れ、頭を下げる。


「若君。林佐渡守様、佐久間殿、柴田殿がお目通りを願っております」


 来たか。


 父上が死ねば、皆動く。


 早い。


 いや、遅いくらいか。


 勘十郎も、その意味を察したのだろう。


 顔を整えた。


 美しく、静かな顔に。


「兄上」


「何だ」


「私は、父上のものを母上のところへ運びます」


「そうか」


「家臣の方々には、兄上がお会いください」


「お前は同席せぬのか」


「同席した方がよろしいのですか」


 弟は静かに聞いた。


 その問いには、いくつもの意味があった。


 同席すれば、家臣たちは俺と勘十郎を見比べる。


 同席しなければ、俺が一人で家臣と向き合うことになる。


 どちらがよいか。


 俺は少し考えた。


「今日はよい」


「分かりました」


「ただし、呼べば来い」


「はい」


 勘十郎は立ち上がった。


 所作が美しい。


 俺よりずっと。


 その背を見ながら、俺は思った。


 お前は間違っていない。


 本当に。


 だから厄介なのだ。


 間違っている者なら斬ればよい。


 愚かな者なら退ければよい。


 だが、正しい者同士が違うものを見た時、人はどうすればよい。


 答えは、まだない。


 勘十郎が去った後、俺は父上の文箱を膝に置いた。


 軽い箱だ。


 中身も多くはない。


 それでも、膝が沈むように重かった。


 俺は家臣を呼び入れるよう命じた。


 襖の向こうで、複数の足音が止まる。


 父上の家臣たちが来る。


 俺を測るために。


 俺は文箱の上に手を置いた。


 父上。


 俺はまだ、父上の城にいます。


 そして父上の家臣たちは、まだ俺の家臣ではありません。


 だが、今日から少しずつ変えます。


 いや。


 変えるのではない。


 握るのだ。


 割れたものを、割れたまま。


 血を流しながら。


 襖が開いた。


 林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家が入ってくる。


 それぞれが深く頭を下げた。


 頭の下げ方が違う。


 林は測っている。


 佐久間は様子を見ている。


 柴田は怒りを隠している。


 よく見える。


 俺は静かに言った。


「入れ」


 父の城で、父ではない俺の最初の家中との戦が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ