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第66話 大浜屋藤右衛門

大浜屋藤右衛門。


 その名は、ここ数日の帳面に何度も出ていた。


 最初は岡崎近くの商い筋として。


 次に、作兵衛が戻った先として。


 それから、熱田の小荷に混じった小瓶の預け主として。


 さらに、眠り粉を受け取るはずだった男の背後として。


 商人の名は、槍より厄介だ。


 槍を持つ者なら、敵か味方かはまだ見やすい。


 だが商人は違う。


 尾張へ売る。


 三河へ売る。


 今川へ売る。


 寺へ納める。


 城へ入れる。


 村へ流す。


 商いとは、道そのものだ。


 そこに敵も味方もない、と言えば聞こえはいい。


 だが、道を持つ者は、火も運べる。


 飯も運べる。


 薬も運べる。


 そして、嘘も運べる。


「若様」


 熱田から戻った翌朝、久右衛門が来た。


 顔が渋い。


 商人が本気で渋い顔をすると、武士より怖い時がある。


「大浜屋藤右衛門ですが、ただの三河商人ではありません」


「だろうな」


「岡崎の松平筋にも顔があり、今川方の問屋にも顔があります。塩、薬草、馬具、小瓶、古布。扱いは広い。ただし、どれも一番大きな荷ではなく、間をつなぐ荷です」


「間か」


「はい。大荷の主ではなく、小荷の道を押さえる商人です」


 それが一番厄介だ。


 大荷の主なら目立つ。


 小荷の道を押さえる者は、どこにでもいるようで、いないと困る。


 薬草の束を一本、布を一包み、小瓶を十、松脂を少し。


 そういうものを、必要な場所へ動かす。


 戦の前触れは、そういう小さな荷に出る。


「藤右衛門本人はどこにいる」


「岡崎近くです。ただ、手代が熱田へ入っています」


「名は」


「藤助。年は三十前後。商人としては若いですが、目が利くと評判です」


「眠り粉の小荷にも?」


「直接の名は出ていません。ですが、捕らえた三吉は大浜屋の手代へ渡す予定だったと申しております」


 長秀が帳面をめくる。


「藤助は、熱田の湊で二度確認されています。一度目は小瓶の荷。二度目は薬草。三度目は、眠り粉の受け取り役と見られる者と同じ宿に」


「本人を押さえるか」


 柴田が言った。


 今回は、それも考えた。


 藤助を押さえれば、大浜屋の熱田筋は一度止まる。


 だが、押さえる理由が弱い。


 小瓶を扱った。


 薬草を扱った。


 怪しい者と同宿した。


 それだけでは、商人全体が怯える。


 大浜屋を今川の影だと決めつければ、三河筋の商人は一斉に口を閉じる。


 口を閉じられると、岡崎の動きが見えなくなる。


「押さえない」


 俺は言った。


「呼ぶ」


「熱田へですか」


 久右衛門が聞く。


「いや、那古野へ」


 場が少し静まった。


「若様、それは」


 佐久間が慎重に言う。


「大浜屋を正式な商い相手として扱うことになります」


「そうだ」


「危ういかと」


「危うい」


 俺は頷いた。


「だから呼ぶ。隠れて小荷を動かされるより、表へ出させる」


 帰蝶が静かに言った。


「表へ出した商人は、言葉に責を負います」


「ああ」


「ただし、こちらが怒りすぎれば、商人は被害者の顔をします」


「分かっている」


 藤右衛門本人は来ないだろう。


 来るとしても、まず手代の藤助。


 それでいい。


 手代は主人の口でもあり、主人の逃げ道でもある。


 その逃げ道をどう使うかを見る。


 昼過ぎ、熱田の宗次を通じて、大浜屋藤助へ呼び出しをかけた。


 名目は、小荷札の説明と薬草相場の確認。


 責めではない。


 商いの場だ。


 だが、三吉の証言と眠り粉の箱、偽の赤札は手元に置く。


 見せるかどうかは、相手次第だ。


 藤助が那古野へ来たのは、翌日の朝だった。


 逃げなかった。


 それだけで、相手がただの小悪党ではないことが分かる。


 藤助は、細身の男だった。


 商人らしく腰は低い。


 だが、目は下がっていない。


 部屋へ入ると、深く頭を下げた。


「大浜屋藤右衛門が手代、藤助にございます。若君様、信勝様にお目通り叶い、恐れ入ります」


 信勝の名も先に出した。


 知っている。


 こちらが兄弟で名を並べていることを、知っている。


「遠いところを来たな」


 俺が言うと、藤助は顔を上げた。


「商いに道はつきものでございます」


「道には影もつく」


 藤助の表情は動かなかった。


「影がつかぬ道は、昼のうちだけでございましょう」


 うまい返しだ。


 嫌な男だ。


「大浜屋は、小荷をよく扱うそうだな」


「はい。薬草、小瓶、古布、馬具の金具、油紙など。大荷の隙間を埋める商いをしております」


「隙間か」


「大きな商いほど、隙間の荷が要ります。傷薬を入れる小瓶、馬具を直す金具、雨を防ぐ油紙。どれも目立ちませぬが、なければ困ります」


「なければ困るものは、悪用もしやすい」


 藤助は、少しだけ目を伏せた。


「否定はいたしませぬ」


 長秀の筆が動く。


「熱田で、眠り粉の入った小荷が見つかった」


 俺は言った。


「受け取り役は、大浜屋の手代へ渡す予定だったと申している」


 藤助は、すぐには答えなかった。


 商人の沈黙だ。


 言い訳を選んでいる。


「大浜屋の名を騙られた可能性もございます」


「その可能性はある」


「では」


「だから呼んだ。名を騙られたと言うなら、大浜屋は自分の名を守る必要がある」


 藤助の目が、少しだけ鋭くなった。


「名を守る」


「そうだ。こちらでは、名を勝手に使う者が続いた。信勝の名、俺の名、帰蝶の名、柴田の名。今度は大浜屋の名だ」


 信勝が静かに続けた。


「名を騙られた時、黙っていれば、その名は影の中で使われ続けます」


 藤助は信勝を見た。


 信勝の言葉は、こういう時に効く。


 自分の名を使われた者の言葉だからだ。


「信勝様のお言葉、重く受け止めます」


「では、大浜屋の名で受ける荷には、大浜屋の札をつけてください」


 信勝が言った。


「名のない小荷を、大浜屋の名で受けることはしない、と」


 藤助は、すぐに返事をしなかった。


「それは、なかなか厳しいお話でございます」


「なぜ」


「小荷の商いは、急ぎが多い。名を伏せたい客もおります。客の名をすべて明かせと言われれば、商いは細ります」


「全部明かせとは言っていない」


 俺は言った。


「大浜屋が受けるなら、大浜屋が責を持つ。客の名を伏せるなら、お前たちが名を預かれ」


「名を預かる」


「名を隠すのと、名を預かるのは違う」


 藤助は黙った。


 この違いが分からぬ男ではない。


 むしろ、よく分かるから黙っている。


「名を隠す荷は、影になる。名を預かった荷は、いざという時に戻れる道がある」


 長秀が補った。


「戻れる道がない小荷は、熱田では止めます」


 藤助は長秀を見た。


「丹羽様のお言葉は、商人には重く響きますな」


「重くしたいので」


 長秀も言うようになった。


 少し頼もしい。


 少し怖い。


「では、若君様」


 藤助は俺へ向き直った。


「大浜屋が名を預かる荷には、大浜屋の札をつける。その代わり、熱田では通しやすくしていただける。そういうことでしょうか」


「そうだ」


「ただし、眠り粉、松脂、薬草、小瓶などは中身を見る」


「見る」


「商いの秘密は?」


「命と火に関わるものは、秘密だけでは通さぬ」


 藤助は、しばらく黙った。


 その沈黙の奥で、算盤を弾いているのだろう。


 大浜屋にとって、これは損だけではない。


 小荷札が通れば、大浜屋の名は熱田で強くなる。


 名を預かれる商人として扱われる。


 だが、その分、影に使われにくくなる。


 いや、使われる時には責を負う。


 商人にとっては、重いが悪くない話のはずだ。


「若君様は、商人を縛るのではなく、商人に責を売ろうとしておられる」


 藤助が言った。


「責は売らぬ。置かせる」


「似たようなものでございます」


「違う」


 藤助は少し笑った。


「承知しました。大浜屋として、熱田の小荷札に従います。ただし、こちらからもお願いがございます」


「言え」


「薬草の相場を、尾張だけで勝手に決めないでいただきたい」


 玄斎が顔を上げた。


 つねも目を細める。


 藤助は続ける。


「止血草が上がっているのは事実です。しかし、山から取る者、干す者、運ぶ者、船に積む者、それぞれに値があります。尾張が『嘘の値を削る』と言って安く買い叩けば、薬草は別の道へ流れます」


 正しい。


 腹立たしいが、正しい。


 値を見えるようにすることと、安く押さえることは違う。


 ここを間違えれば、商人は逃げる。


 そして、薬草は影の道へ戻る。


「つね」


 俺は婆を見る。


「藤助の言うことは?」


「筋は通っております」


 つねはあっさり言った。


「正しい値は、安い値ではございません」


 藤助が、少し意外そうに見た。


 玄斎が苦笑する。


「つね婆様は、商人にも厳しいが、買う側にも厳しい」


「薬草は山が育てる。人が勝手に安くできるものではないよ」


 つねは俺を見た。


「若様、値が見えるとは、値を下げることではございません。嘘を減らすことです」


「ああ」


 また教えられた。


 学ぶことばかりだ。


「では、こうする」


 俺は言った。


「薬草の値は、つね、玄斎、熱田の薬草商、大浜屋の手代で見せ合う。高い理由を言え。安すぎる理由も言え。嘘の値を削るが、正しい手間は削らない」


 藤助は深く頭を下げた。


「それなら、大浜屋も表で商えます」


「裏では?」


「若君様の前で、裏の話はしにくうございます」


「するな」


 藤助は笑った。


 油断ならない男だ。


 だが、表へ出した意味はある。


 その時、仁助が廊下から顔を出した。


 相変わらず、必要な時に出てくる。


「若様」


「何だ」


「熱田から急ぎです。昨夜、小荷札を避けて、川沿いの小舟で荷を動かそうとした者がいます」


「何の荷だ」


「布と小瓶。それから、紙束」


 藤助の顔が、ほんの少し動いた。


 俺は見逃さなかった。


「大浜屋か」


「……大浜屋の正式な荷ではありません」


「正式ではない荷を、誰が大浜屋の名で動かす」


 藤助は黙った。


「知っているな」


「若君様」


 藤助は慎重に言った。


「大浜屋の中にも、すべての手代が同じ顔を見ているわけではございません」


「つまり、内にも影がいる」


「……その可能性がございます」


 ようやく出た。


 大浜屋も一枚岩ではない。


 手代、下働き、預かり荷、名を騙る者。


 大浜屋の名を使って、小荷を動かしている者がいる。


「名は」


 俺が聞くと、藤助は目を伏せた。


「彦十」


「手代か」


「はい。藤右衛門の遠縁にあたり、三河と熱田を行き来しております」


「そいつが、眠り粉にも?」


「確証はございません」


「だが疑っている」


「はい」


 藤助は、ここで初めて商人の仮面を少し外した。


「彦十は、岡崎の商いよりも、駿河筋の顔色を見すぎる」


 駿河筋。


 今川だ。


 岡崎ではなく、今川の方を見ている手代。


 大浜屋の中の割れ目。


 尾張だけではない。


 三河の商人の中にも、岡崎を見る者と駿河を見る者がいる。


 それが小荷の道へ出ている。


「藤助」


「はい」


「彦十を差し出せ」


「それは、商家の内の」


「大浜屋の名を守ると言ったな」


 藤助は黙った。


「名を守るなら、影に使わせるな」


 信勝が静かに言った。


「私の名も、そうでした。名を守るには、時に自分の近くにいる者を見なければなりません」


 藤助は信勝を見た。


 逃げ道を失った顔だった。


「……彦十を、熱田へ呼びます」


「逃がすな」


「逃がしません」


「大浜屋が自分で連れてくるなら、大浜屋の名は少し守られる。こちらが捕らえに行けば、傷は深くなる」


 藤助は深く頭を下げた。


「承知しました」


 こうして、大浜屋藤右衛門の手代・藤助は、表の商いへ引き出された。


 同時に、大浜屋の内にいる彦十という影が浮いた。


 岡崎と駿河。


 商いと軍。


 小荷と眠り粉。


 すべてが一本ではなく、複数の細い糸で絡んでいる。


 夜、俺は地図に大浜屋の名を書いた。


 その下に、二つの線を引く。


 岡崎。


 駿河。


 大浜屋は、その間にいる。


 藤助は岡崎を見ている。


 彦十は駿河を見ている。


 藤右衛門本人は、どこを見ているのか。


 まだ分からない。


 だが、次に見るべきものははっきりした。


 大浜屋の内の割れ目。


 商人の家の中にも、戦の前触れはある。


「兄上」


 信勝が隣で地図を見ていた。


「尾張だけでなく、三河の商人も割れているのですね」


「ああ」


「岡崎は見ている。駿河は動かそうとしている。商人は、その間で荷を動かす」


「そうだ」


「なら、荷を見ることは、人の向いている方角を見ることでもある」


 よい。


 本当によい。


「使う」


 俺が言うと、信勝は苦笑した。


「そろそろ、私の言葉にも札が必要ですね」


「何を守る言葉だ」


「兄上の考えすぎを少し楽にする言葉です」


「それは貴重だな」


 少し笑った。


 笑ったが、地図の線は重い。


 大浜屋藤右衛門。


 まだ本人は出ていない。


 だが、その名はもう尾張の火と薬と小荷の道に深く食い込んでいる。


 次は、彦十だ。


 大浜屋の影が、どこまで駿河を見ているのか。


 そこを見なければならない。

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