二-1
二
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週に一度、火曜日に街の雑貨屋で買ってくるカラフルなねじり飴と板チョコレートが、スーとセアンの共通のお楽しみだ。
買い出しから帰ってきて台所の各所に食材を仕分け、最後にお楽しみの小さな袋を手にとったスーは、居間へ足を向けようとしてふと、窓の外へ目をやった。
「あんれ、まあ」
眼下の波打ちぎわに、二つの人影が肩を並べてすわっていた。
スーの出掛けていたあいだに起きたこととは、こうである。
朝から図書室でいつもの時間を過ごしていたセアンは、ポイの吠え声で読書の集中を切らした。顔を上げて意識のを外へ向ければ、ポイの声と入れ替わるようにトンテンカンの騒音が消えている。車椅子を動かして窓辺から見下ろすと、さっきまでいたはずの水栓のところにサギ男の姿はなかった。ポイの声を追って視線は前方へいった。崖の下の浜辺に、海へ向かって歩いていく青年がいた。ここからとても遠い。
セアンは上体を傾がせて車椅子を返した。ハンドルをこぎ、廊下へ出て、居間へ入っていって、ガラス戸を引いて外に出る。外は深まっていく秋の途中にしては日差しが温かく、いつもより潮の匂いがつよく香った。
潮騒もまた力強い。
その波が、青年をさらっていってしまうのでは。
そんな懸念がよぎるほど、彼は真っすぐ海の中へ進んで、よせてかえす波に揺らぎながら腰までをすでに浸していた。
テラスの突端から固唾をのんで見つめるセアンの視線を知らず、青年はあるところであっさりと体を返した。互いの表情が見える距離まで戻ってきて初めて、サギ男はテラスにいるセアンを見いだして驚く顔をした。
「これを」
横の階段を駆け上がってきてサギ男が手のひらを差し出した。
大ぶりの真っ白な巻貝がのせられていた。
「あげます」
「私はそういうものは嫌いよ」
セアンは高い太陽を真後ろにしょったサギ男の顔を睨みつけた。
あらぬ誤解をして、体力まで使って損した。
そんな腹立ちから本気の嫌な顔をして言ったので、サギ男が小さく傷ついたように――他愛ないが無視できない痛みを与える虫に刺されたみたいに、眉をひそめて困っている。
どう思われようと嫌いだ。
自分の足で入っていけない場所にあるものなんて。
自分には一生かけても掴みとれない場所に生っている黄金の実をいとも簡単に獲ってくる者がいたら、誰でもきっとその者と黄金の実の両方を憎むだろう。
「私は本でじゅうぶんなの」
何千回分もの様々な人生を体験できる本たちがあれば、じゅうぶんだ。
〈本当のこと〉には縁がなかったけれど、そのかわり、セアンは平穏のすばらしさを知っている。
「あなたのかまけている水栓、ちゃんと水も出るし、倒れないようになったんだから、もうあのくらいで終わりにしたらどう。不格好で耐久性もないかもしれないけど、どうせ誰も使わないんだから」
完全に逆光に入ったサギ男の顔が見えないまま、セアンは雇い主としてそろそろ修繕作業の切り上げを提案した。壊した設備。そんなものに責任を感じて出て行けないでいるなら。
それとも本当は出て行く気なんかなくて、ずっと迷惑をかけつづける気なのかもしれない。世界を面倒にしているこの戦争が終わるまで。戦争が終わったら……。
影が躍る。
欄干を超えて浜のかなたへと、黄金色の太陽の光に輝いた物体が、放物線を描いて飛んでいった。
それは投げ捨てられた巻貝だった。
(何を――)
「いやっ!」
貝のゆくえに気を取られていたら突然むりやりに、膝と背中へ腕をまわされてセアンは悲鳴を上げた。
「なにするのっ。いやだ、なにをするのよ!」
軽々と宙に浮いてしまう身体に、自分で自分が悲しくなる。嫌だ。嫌だ。乱暴に遭っても抵抗する力がない。ただの少しさえ、ない。暴れたくても動かない脚。脚が動かないから力の入らない上半身も、何もかも嫌だ。
「おろして!!」
「首に掴まらないと頭でっかちな頭から落ちるかもしれない」
真上の太陽がちらついて表情がよく見えないサギ男が、取り合おうとしない声で言った。
セアンを掬いあげるように抱えてさっさとサギ男は歩きだした。遠のく車椅子にセアンの不安が高まる。強引で不安定なやり方に息を詰まらせながらセアンは、落ちたくない一心でサギ男の首にすがった。
至近距離からみたサギ男の顔は無表情だった。
いいや、無表情の下では怒っているようにもみえた。
「どうしようっていうの。どこへ……!」
「海」
「いやよ! 海は優しくないって言ったじゃないっ」
「君とは気が合うんじゃないか。優しくない同士でさ」
「サ、ギ男……」
「だけど海は君みたいに偏屈じゃないな。人をいちいち疑ったりはしないし、腹の中から何を持っていかれても気にしない。海は大らかだ」
「サギ男!」
「人におかしな名前も付けないしさ」
気にしていたのか。そんなに不満だったのか、“サギ男”が。
「後悔しなさい、“カメ男”に変えてやるわ」
「詐欺師よりずっと誇らしいよ。ウミガメは優雅だし、逃げ足だって最高なんだ。理想の生き物さ」
セアンはひょうひょうと返すサギ男の胸をこぶしで叩いた。恐怖は怒りに変わって、いっそうセアンを高ぶらせた。
「本性を現したわね――」
「君のテリトリーから出たからさ」
崖の下の砂浜を歩いていた。
海へ向かって――。
セアンの抵抗を受けつけなかった力強い腕にしっかりと抱えられていても、下はさくさくとした砂で、でこぼこな地形に足を取られるから歩調が一定ではなくて怖かった。
何よりも、視界に迫ってくる巨大な青い水が怖かった。
サギ男はさっきテラスから見たときと同じように、迷わずに波を蹴散らし進んでいった。宙に浮くセアンが方向感覚を失った身体をこわばらせてじっとしているうちに、進んだり、下がったり、浜辺と平行に歩いたりしたようだった。
「夏だったらこのへんに放り込むんだけどな」
海の真ん中で――セアンにはそうとしか感じられない――おどかすように言って、けれど結局彼がセアンを降ろしたのは、色濃く濡れた砂と乾いた砂との境目のあたりの浜だった。
寄せてくる波が、投げ出されたセアンの足の先を浸し、去っていく。
室内履きと靴下とは、サギ男の手で頭の後ろへ投げ捨てられてしまった。
「お嫁にいけなくなったわ」
恋人でもない男に素足にされるなんて、あまりの屈辱だ。
「行くつもりなんかないくせに。貰い手もいないだろうな、その性格じゃ」
とっさに投げつけた砂はよじった背中にはばまれた。サギ男はセアンの隣で寝転んだ。組んだ腕を枕にして目をつむる。荒っぽいことばかりしているのに、その顔は優しすぎた。
「性格は後付けだわ!」
「自由に歩けるからって性格のいい君なんて、想像できないよ。もしもの君は、首都の社交界で、高慢ちきな高嶺の花になってふんぞりかえってるに決まってる。ときどき紛れ込んでくる田舎者の洗練されてない様子を見て取り巻きたちと笑って楽しむんだ。いつかの俺がそうだったみたいに」
日曜日のことを言っているのか、それとももっと昔の思い出を語っているのか――セアンは判じかねた。
「類は友を見分けるってわけなの? ずいぶん厚手の猫を被っていたものね。さぞかし大変だったでしょうね。隠し切れてもいなかったけれど」
「本当の自分はなかなか消え去ってくれない」
軽い衝撃がセアンの瞳をひらかせる。
本当、という言葉のせいで。
「やたら厳しい集団生活をはじめたときもそう思った。一六になったからってそれを境にひょいと大人になって分別を持てるわけじゃない。喧嘩ばかり、悪戯ばかり、懲罰ばかりの毎日だった。だけど、だからって、いつまでも子供のままでいられるわけでもなかった。戦争が――」
ふいに瞼がひらいて言葉をやめてしまう。
気の迷いを振り切るみたいにサギ男は起き上がって、怪訝そうな顔でセアンを見返した。
「それにしたってさっきの恐慌状態は酷かったな。まさか砂を触るのも初めてだなんて言わないよな?」
「……。……初めてよ」
呆れた顔をされた。
「ここへ海を見にきたことさえないのか? プライベートビーチだろ」
「子供のころならあるわよ……」
周りの砂を撫でて、セアンはうつむく。
手のひらいちめんに砂がくっついて、握り潰すとさらさらと剥がれていく。
地表は太陽の熱を吸ってあたたかい。
ひややかな水が足の先をきまぐれに洗う。
「本の黴みたいに生きているのが楽しいのか?」
もういちど、砂をひっかけてやった。
サギ男は今度はよけなかった。
「あまり疑心暗鬼なのはどうかと思うよ。脚のことを引け目に感じすぎるのも」
時が止まったように感じた。
それは心に踏み込まれて覚える怒りのせいなのか。
それとも、息まで止まってしまったのは――。
「人と人は、助け合って生きてくものだよ」
あまりにも、真剣な顔で言うから。
セアンは無理やり息を吸って、心の周りにめぐらせた殻を強化した。
「あなたに関係ないわ。こんなお節介をされたって、私の人生は変わらないし、あなたには変える権利もない。あなたなんかに変えられたくない」
サギ男はだまった。
顔色を青ざめさせながら、深いところを打たれたように目を伏せる。
セアンの言葉のどれかが、彼の心の底の砂をかきまぜた。
「そうだよな」
さっきの怯えていたセアンよりもこわばった声で呟いた。
伏せた目の睫毛にセアンがぶつけた白砂がからんでいる。罪悪感とともにセアンはそれをじっと眺める。そっと手をのばしていた。ためらいの一瞬に目と目が合った。けれど、サギ男はよけなかった。セアンの指先がそっと砂を払う。
すぐに手を引っ込めたセアンは、ふたたび臨戦態勢で砂を握った。
「入水自殺するのかと思ったわよ」
図書室の窓から海へ入っていく青年の姿をみたとき――。
「しろと言うならしますよ」
ひょうひょうとした口ぶりに戻ってサギ男が言う。
海の色を映したような碧色の目が、本当の本心を行方不明にしてセアンを見下ろす。
「僕の命を拾い上げた、君がここでは神様なんだから」
「馬鹿なことを言わないで。あなたなんかと私は無関係よ。関わりたくないって言ってるでしょう」
セアンはそっぽを向いた。
苦笑まじりのため息が聞こえる。自嘲も入っている。
「っ」
サギ男の気配が急に変わった。
ふりむくあいだにサギ男が砂を蹴散らして立ち上がった。
「どうかしたの?」
見上げて訊いたセアンの耳が、異変に気づく。
あたりに満ちていた波音が消えたのだ。
浜を渡っていた風がやんだ。
(なに……?)
サギ男は正面の海の果てを睨みつけるように窺っていた。緊迫を深めてゆく彼の横顔の向こうに、信じられない光景を見てセアンは息を飲んだ。
秋の蒼い空が、割れていく。
まるで二本の大きな刷毛で塗り替えられていくように灰色の帯が、海岸線と交差する長大な一線の輝点から生まれ、反対同士の方向へのびていく。ちょうど自分たちの真上に浮かんだ光の線からは、花火のような金色のエネルギーの飛沫が散り、降った。
灰色の帯は陸より海の上を広く覆ってひろがった。視界の果てまで海の色が黒くなる。
一帯は低い灰色の空に閉じ込められた。
「やだ……」
「大丈夫。……掴まって」
振り仰いだところにあるサギ男の目が、絶対の保証を伝える。だが彼が感じている緊張した恐怖そのものは、消えていないようにみえた。
「サギ男、あれは――」
横抱きに抱えられて砂浜を後ずさりながら、遠くの海の中からすうっと生えた棒のようなものを発見してセアンは問う。
みるみるうちに棒のようなものは、こちらへ近づいてくる。
棒の根元は波を盛り上げて、波を脱ぎ捨てるように、黒々とした巨体を現した。
目を塞ぐような大きさを見せる距離感で、音もなく浮上したそれは――。
「トトラク三一型潜水艦……?」
呟いたセアンを、サギ男が驚いて見下ろす。
「図鑑で調べたもの。だけど細かいところが違うわ。改良されているんだわ。図鑑の情報は戦前のものだったから」
海上に停止した平べったい艦体は、そこに前から存在した孤島みたいだ。
間髪を入れず前部のハッチがひらいて、数珠玉のごとく人間たちを排出した。
サギ男の手に力がこもる。
二十人ちかい乗組員たちが艦上に整列し、こちらへ向かって敬礼した。
(敬礼って――)
サギ男は灰色のバリアを見上げながら、もっと後ろへ後ずさろうとした。
引きずられるセアンはいちばん最後にハッチから出てきた一人を見ていた。他の乗組員とは服装が違う。おそらく将校の制服だろう紺色の軍正装を痩身にまとった中年男性が、艦体のはしごを伝って喫水線まで降り、投げ込まれたゴムボートに単身乗り込んだ。操舵する前進装置のモーター音とともに近づき、それを乗り捨てるように上陸する。
波打ち際での敬礼。
「お迎えに上がりました、殿下」
直立不動で告げる、
「ご生存なにより。国王陛下がご帰還を心待ちにしておられます」
うんともすんとも反応のない相手に向かって、将校は言を継いだ。
「ジャミング限界時間内に、急ぎご乗艦願います」
サギ男は顔をそむけた。
口をきつく結んで足元の砂をにらんでいる。
「サリアック王子殿下」
将校は冷静を崩さないが、迅速な行動を要求する厳しい声を発した。
王子殿下と呼ばれたサギ男が首を正面へもどす。
「セロン少佐、あなたは私の上官ではないか。何故そうした態度を取られるのですか」
解せない、と問う。
「あなたは英雄です、サリアック殿下。あなたの艦の奮戦と犠牲が〈大火魔法〉の威力を実証し、我々は勝利を目前にしています。国民があなたの帰りを待っているのです」
サギ男と呼ばれていた青年は激しくかぶりを振った。
「レーダー撹乱はあと十分もちません。お急ぎを」
「帰らない」
わずかに少佐は目をひらいたが、動揺はみせず淡々と訊きかえす。
「何とおっしゃられました」
「帰らない。俺は英雄なんかじゃない。犯罪者だ」
「おわかりでしょう、殿下。このまま北コロニアにいらっしゃれば、早晩かならずあなたのご身分が複雑な事態を引きおこします。ヤーヘル王国、ひいては連合の不利益を」
青年は首を振りつづけた。
「艦の皆は……」
「残念ながら探知できたのは殿下の精霊だけでした」
わかっていた答えだったように、彼は目をとじた。
「ならばなおさらだ。俺ひとりが生き残って、おめおめと帰れるわけがない……!」
「命令だ、と言っても?」
ふたたび頑なに顔をそむけて、青年はうなずいた。
「ならば軍規違反とみなす、マーデル大尉」
口調を変え、少佐は砂浜をのぼった。右の手のひらを肩と水平に掲げ、宙に図形を描くように鋭角に振った。艦上の乗組員たちが同様に仕草をそろえた。
少佐の背後のゴムボートから、銀色の正四角形がいくつも飛び出す。鈍い光沢をもつそれは鉄板だろうか――四角い鉄板の群れはすべるようにセアンたちの頭上へやってきて、空中で停止した一瞬に、驚くべき変化をみせはじめる。
それはあかあかと朱色の熱に熔けて板同士むすびつき、一枚のドームに形状を変え、頂点から放射状に数えきれぬ亀裂を生じて、二人を包囲する檻となった。
鉄を熔かしていた熱の朱色はすぐに消え去ったが、セアンの頬を熱風がかすめたのは、それがけしてマジックではなく相応のエネルギーが消費された物理現象である証しだ。
二人は籠の鳥のようにとじこめられた。
「手錠をかけて連れていくのか?」
サギ男が見つめる少佐の手には、次の素材である鉄球が握られていた。
「麻酔を打ってでも連れて帰る、と言いたいところだ」
言って、少佐は鉄球を高く放り上げた。
空中でオレンジ色に熔けてやわらかな縄状になり、それは手袋をした少佐の手に落ちてくる。
「マーデル大尉。貴き血につらなる君の魔法力に対抗できる私たちではないのは承知だ。どうかそれを汲み取ってもらえないか」
〈魔法力……〉
聞きなれない言葉に眉をひそめたセアンの傍らで、サギ男が自由なほうの腕を正面へのばした。
おじょうさまあっ!
家のほうから涙声のスーの叫びが聞こえた。
「スー、来ちゃだめよ!」
時が巻き戻されていく――。
熔けただれた捕縛道具が少佐の手から放たれて飛来する寸前に、鳥籠がもとの鉄の壁に戻ってふたりを防御する。真っ暗な闇が二人をつつんだ。やがて辺りが灼熱に染まり、オレンジ色のカーテンがひらいてゆくように現実の海辺が戻ってくる。
ふたりの周りで無数の火球となった鉄塊が、空に舞い上がり、海の上で熔けあわさり、大きな一枚の鉄板になった。
煮えたぎる鉄の天井に、幾何学模様の亀裂が生じる。
そして爆発した。
雨あられとふる鉄屑は、じゅう、じゅう、と音と煙をたてて海水を蒸発させた。
いくつかは砂浜まで飛んできて砂を焼いた。
足元につきささった礫をおそるおそるセアンは眺めた。
それは飴細工さながらにねじれていた。
火曜日のねじり飴みたいだ、と現実感をなくしながらセアンは思った。
「少佐、北コロニアの哨戒がすぐにたどり着くぞ。早く潜ったほうがいい。勝てるというなら戦争をすぐに終わらせろ。俺は、帰らない」
徒労と失望をかみしめる顔で、少佐が背後の艦を見返った。
艦上から何か叫ぶ者があり、緊迫を感じさせた。
少佐は個人的な感情を殺した目つきで青年を一瞥したのち、無言できびすを返した。
「腕が痛いの、降ろして」
セアンの頼みに青年はわれにかえった。
目線の低いところからセアンは波間へなめらかに沈んでいく黒い艦体を見送る。
吸い込まれるように海中の生き物となっていく、それを。
「おじょうさまあ~!」
家からスーが全力で駆けてくるスー。
その両腕には勇ましくもお嬢様を守るための長銃が抱えられていた。
「かえって危ないところだわ、スー……」
だが、小さな体で駆けてくるスーのすがたに目頭が熱くなる。
砂にしずくが落ちて染みた。
点々としずくの染みが増えていく。それはセアンの涙ではない。
雨でもない。空はいつのまにか、蒼空に戻っていた。
逆光に陰る青年の顔をみてセアンは。
慟哭というものを初めて間近にした。
抑えられない感情が、青年の顔をあかく歪めていた。
泣きながら、哭いていた。
怒りにふるえ、哀しみにとらわれ、苦しんでいた。漏れる嗚咽がセアンの胸を潰す。
砂浜にいくつもささったねじくれた鉄塊が、ざざ、と音をたてて動いた。
セアンは不穏を感じた。
「だいじょぶでしたか、おじょうさま!」
「スー、止まって!」
危険を予感して、鳥肌がたつ。
ねじれた鉄塊がオレンジ色に発光しはじめる。燠火が酸素を得たように、にわかに燃え立っていく。
そして。
青年の絶叫とともに爆ぜた。
「ふああ……」とスーの悲鳴が小さく天に響いて、セアンははっと振り返る。
砂の上に放り出された銃が、その銃身をグロテスクに咲いた花のように変形させていた。
膝を着いたスーの白いエプロンが朱に染まっていく。
「スー!」
銃を抱えていた腕から鮮血をしたたらせたスーザンが、呆然とセアンを仰いでいた。
崖の上の家は静かだった。
スーはマクビーじいさんと医者へ行った。戻ってきたマクビーじいさんの報告によれば、腕の裂傷は深いものの骨折には至らず、一カ月程度で完治する怪我だということだった。縫合手術の前後に麻酔と鎮静剤を打ったので、今日一晩は医者の家で寝かせておく。
マクビーじいさんはセアンに世話が必要かと問うた。セアンは首を振った。これ以上、事態を複雑にしたくない。誰も巻き込みたくない。
マクビーじいさんを玄関に送ったあと、居間へ入っていくと、いつもより夜の灯りが少ない。必要最低限しか点いていない。慣れない者の仕事ぶりだ。
セアンの車椅子は食卓の前にやっと辿り着いたという感じで止まった。身体が重く、疲れている。
台所の灯が消えて、サギ男が出てきた。抱えた盆の上に岩みたいにごつごつしたパン。それから湯気の立つ何か――目の前に置かれて中身がわかった。オニオンスープ。
「お料理ができるの? それとも」
料理も精霊に任せた魔法?
と皮肉を口にしかけて、やめた。
いろんな意味で彼の正体を揶揄することになってしまう。
そういうつもりはなかったけれど。
「艦で覚えたから」
セアンは自分の前にだけ置かれた皿を見つめ、あまり違和感のない出来であることに気づく。玉ねぎの切り方などスーのやりかたに似ているし、スープの色も、スーの味付けぐあいと似ている。これにローストチキンが入っていれば、サギ男に最初に飲ませたスープと同じだ。
彼なりの気遣いで、スーのやりかたを真似したのだろうか。
だが食卓の真ん中に置かれたパンだけは、見慣れないものだった。
「ずいぶん不器用なパンね」
スーが夕食時に焼くのは、丸くて上品なテーブルパン。
スタチェット家の厨房直伝のものだ。
「種菌は湿気に弱いから、使わない。塩だけのパンです。パンの焼き方はそれしか知らない」
「そっけない〈いわく〉ね」
サギ男は黙って、何も用意されていない席へ着いた。
あれから彼は、必要最低限の言葉しか返さなくなった。
もともと正体を隠した人間だったが、もっと表面に近いところで、扉が閉じられてしまったように。
自省と後悔がそうさせるのか、それとも――。
食欲はなかったけれど、間がもたないこともあって、セアンはスプーンを手にする。
スープは味のうすいスタチェット家風。
ちぎって口にしたパンは、塩の味はそう強くはないけれど。
「泣き虫のパン」
セアンは意識せずに呟いた。
ごつごつしたかたちには似合わない名前だった。
打ち消すように首を振る。
スーのいる食卓の陽気さと呑気さを取り戻そうとしてみたのだが、どうやっても無理だ。
サギ男という異物を迎えて、いとも簡単に日常に取り込んでしまえたのは、スーの懐の深さがあってのことだ。セアン一人では、たとえ足が不自由じゃなくても、サギ男にいくら悪意がなくても、不可能だったろう。現にいま、セアンは青年の存在におびえていた。恐怖とはちがう。サギ男はセアンに害を加えたりしない、それはわかっている。むしろ、無害だからこそ、セアンは青年をどう扱っていいのかわからない。
スーがいなくて困ることは、もう一つ。
寝台への移動だ。他のことはたいてい座ったままでもこなせるように工夫されていた。お手洗いは、スーがいれば厠を使うが、スーが出掛けているときは病人と同じやりかたをする。
しかし車椅子から離れるとなると、自力では試したことがない。
腕の力がもたなければ床に落ちるかもしれない。
夕食後に車椅子をセアンの部屋まで押してきたサギ男が、「何か手伝うことがあるなら」と言った。
「ないわ」
セアンはとっさに返した。
枕元の灯りをつけてふりかえったサギ男は、本当だろうか、という顔でセアンを見ていた。
「なによ、まだお節介が焼きたりないの?」
「スーザンさんの腕の代わりができるなら」
「腕の代わりはできるかもね。でもあなたは、あなたは、スーにはなれないわよ」
セアンは自分で何を言っているのかよくわからなかった。
「スーザンさんは明日には帰ってきますよ。マクビーさんがそう言っていた」
「聞いていたわよ。聞いていたわよ。どうしてそんなこと――」
「スーザンさんは、今晩一晩安静に眠って、明日には帰ってきます。セアンさん、大丈夫ですか?」
「だからっ、聞いて――」
膝掛けの上に両手が置かれた。
とても近いところに、骨張ったその両手はあった。
セアンは自分が身体を折るようにして俯いていたことを知る。
「セアン」
目線を合わせたところから覗き込まれて、親身な声でささやかれて、自然とセアンの背筋が伸びる。
すくんでいた心も、どこかへさまよってしまっていた気持ちも、ちゃんと車椅子の上にある。――まだ、頼りなく縮こまったままだけれど。
ひざまずいたサギ男が不安げにセアンの瞳の奥を覗いていた。
「大丈夫そうに見えない」
「大丈夫よ」
自分に言い聞かせるためにも、強気で言い返す。
立ち上がったサギ男が左右の肘掛けをつかんで車椅子を引きよせ、寝台に横づけた。彼を見上げるセアンの両脇へ腕を通し、抱えて引き上げ、寝台の上へと移す。スーのやり方そのままに。
セアンの髪のてっぺんに、彼の顎がかぶさって、離れていく。
見よう見まねでも、お手本として完璧なスーを真似ただけのことはある。セアンの毎日の生活にすっかりサギ男がなじんでいたのだとわかる、自然な流れの介助だった。
身体を抱えたままの中途半端な姿勢で、サギ男は動きをとめた。
「何か間違えましたか?」
彼をそう動揺させるような目つきをセアンがしていたらしい。
「別に」
間違えてなどいないと保証してやったのに、サギ男はセアンと視線をからめたまま、動こうとしない。物思いにとらわれたように、時を止めてしまった。
とても静かな夜だ。
「……やたら厳しい集団生活って、軍隊のこと?」
「……正確には、士官学校がその最初だった」
やっと動作を再開したサギ男は寝台脇に膝をつくと、セアンの身体を支えながら、くったりとして力のない両脚を揃えさせる。
「士官学校に入る前はろくでもなかった。悪ガキで、学校のほかに家庭教師づくめにされたけど、まともに話を聞いてたことがない」
かろうじて笑い話にはなる程度かな、という顔でサギ男は語った。
「で、軍隊へ入れられたの?」
「進路は自分で志願した。というか、うちは長兄以外はだいたい軍人か、穀潰しにでもなるしかない。次兄は陸軍にいる。子供のころから海軍は憧れだった。とくに潜水艦部隊が好きだった」
そこからは笑い話にならない。表情に陰りを加えてサギ男はつづけた。
「任官してすぐ、戦争がはじまった」
戦争がはじまると、魔法の用途もそれ一色になる。綿々とつづいてきた魔法研究は軍事利用へ指向をかたむけ、精霊の力が兵器や艦艇の増産へ注がれるようになる。
いつの時代もそうだった。
大海のこちらがわにおける〈純科学〉だってそれは同じだ。
「やられているうちは」
恐ろしく笑えない冗談だと言いたげな怖い顔になってうつむいた。「疑問も持たない」
重たい空気が下に下に溜まってゆくような沈黙。
セアンはかぶりをふった。その気配をさとってサギ男が、目を上げた。
「……はじめから?」
問われたセアンは首をかしげた。
「何のこと」
「知っていたんだろ。俺が、敵国の軍人だってこと」
「あなたの着ていたつなぎの乗員服は、天井裏に隠してあるわ。あのエンブレムには見覚えがあったの。図書室の艦船図鑑でみたことがあった」
「生きた辞典みたいな人間はあざむけないな」
「でも、しらばっくれていたのは私だけじゃないわよ。知らないふりを通したい私のむりやりな決めつけに、上手いこと乗っかっておいて、あなたは内心で笑っていたじゃないの」
「あの乗員服には内側に名前の縫いとりもあったはずだけど――」
「あったけど、ヤーヘルの名前のつづりは読みなれなかったわ。それに、わざわざ名前なんて知りたくなかった。――でも、ねえ、あなたこそ、私のこと、セアン・スタチェットという名前、知っていたんじゃないの?」
ふと思いついて訊いたのだけれど、きょとんとした顔が返ってくる。
「そんなに君って有名人なのか」
「いいえ。いいえ、今のは忘れてちょうだい」
馬鹿な思いつきだった。
外遊先で出会った車椅子の少女のことを、王様がいちいち憶えているわけがない。ただでさえ、せわしなく過密なスケジュールの中のたったの五分くらいの出来事だ。もしかして息子に土産話が伝わっていたのじゃないかなどと一瞬でも想像した自分が可笑しい。
可笑しい、けれど。
(だって馬鹿馬鹿しいくらいおかしな本当のことってあるものよ)
「浜辺に王子殿下が打ち上がるなんてことじたい、おかしな話よ」
ああ、と青年は複雑そうな笑みを浮かべた。
「辺鄙な崖の上の家に住んでるチャリティ・クイーンだって充分おかしいよ」
そう言って呆れ顔をしてみせようとしたけれど、彼は途中で表情を消してしまって、じっとセアンを見つめた。
すごく近くにあった体をサギ男がセアンから離す。
セアンの両脚を床から持ち上げて寝台の上にのばした。
それだけやりおえて、サギ男は部屋を出るために背を向けた。
「サギ男」
戸口で足を止めた彼は、振り返らない。
セアンが次の言葉を探してためらう間に、彼が声を出す。
「ここで名前をなくして、このままぜんぶ消してしまえればいいとも思った」
何を消すの、という問いは、セアンの中にとどまった。
かろうじて笑える過去。笑い話になどならない過去。追いかけてくる罪。染みついた身分。まとわりつく勝利。終わらない戦争。
死んでいったひとたちの、悲鳴。
すべてが、青年の心を苦しめている。
「置物の猫ならよかったのにな」
感情をなくした声で言って、彼は廊下へ消えた。
この海辺の家で暮らしていた彼の中に、本当の感情などあったのだろうか。
あるとすればそれは夜毎の呻き声の中にしか、海辺での絶叫の中にしか、残っていなかったのじゃないだろうか。
彼の魔法力がなした大火魔法による大殺戮。仲間を死なせて自分一人が生き残ってしまったこと。……彼に起こった出来事をセアンは頭で考えて想像することはできる。けれどそれはセアンに起きたことではないから、あまりにも遠くにある残酷な現実だから、セアンはそれを自分の心で感じて取り扱うことはできない。
彼の心が今どうなっているのかは何もわからない。何をわかればいいのかもわからない。わかってはいけないような気がする。
だから止められなかった。
引き留められなかった。
きっとこのまま、サギ男はこの家を出ていく。
あしたの朝には、もういないだろう。
力の暴走がスーを傷つけたこと、セアンからスーを一晩でも奪ったこと、北コロニア政府に見つかって拘束されるわけにはいかないこと、記憶喪失の名無しなサギ男ではいられなくなったこと。
たったの十分の出来事のために、崖の上の家の三文芝居は幕引きになった。
どんなに白々しくてもそれは必要な芝居だったのだ。政府とつながるスタチェットの名前は、厄介事に巻き込まれるわけにはいかないから。
(伯父様に迷惑がかかるもの)
いま出て行くというなら、そのほうがいい。
そうセアンは思う。
どうせ彼の抱える心はセアンにはわからない。
それはきっと、わからなくていいのだ。
セアンには関係のないことなのだから。
夜の静かさは相変わらず怖いほどなのに、さっきよりもずいぶん自分が落ち着いていることに気づいて、セアンは膝に置かれたサギ男の手の重さを思い出した。スーがいない心細さに取り乱していたセアンをなだめて持ち直させたのはサギ男の、両手と両瞳だ。セアンがおかしくなっていたのを彼はちゃんと見ていた。自分ではわからなかったのに。
置物の猫ならよかったのに――。
枕元に畳まれてある寝間着を手にとりながら、セアンは独りきりで、その言葉の意味を考えた。
ドンドンドンッ、と、乱暴に玄関をたたく音がする。
闇の中でまぶたをあける。やむ気配のない音にセアンは身震いして枕元の灯りを点けた。詰問するような訪問者の呼びかけがくぐもって届いていた。時計をみた。深夜のとばぐちといった時間だ。常識的な客ではない。
誰かが玄関に出ていく様子はなかった。
セアンも一人ではどうしようもない。
上体をなんとか起こして、ガウンを肩から羽織った。
まもなくテラス向きのガラス戸が割られて、複数の人間が家の中へ入ってくる。耳を澄ませなくても聞こえる音は家中へ散らばり、ひとつ、ふたつがセアンの寝室のほうへやってきた。
ノックのあと、返事を待たず扉がひらく。
「セアン、無事だったかい!」
「トニー?」
警官を従えて現われたトニー・シンクルーにセアンは驚く。
ある程度の覚悟をしていたから、突然の警察沙汰には動揺していないが、そこにトニーが混ざっているのは意外だった。
戸口から身を乗り出すトニーの表情は見たことがないほど厳しくて真剣だった。
彼がそういう顔をすることがあるとは想像ができなかったくらいだ。
「どうしてあなたが」
警官が代わりに応えた。
「ミス・スタチェット、ここに身元不明の男が働いているとの情報を得ています。その男は、……どうか落ち着いて聞いていただきたいが、我が国に潜入していたヤーヘル軍人かもしれない可能性がある。男はどこでしょうか」
「潜入していた?」
「詳しいことは伏せるが、接触の痕跡をレーダーが探知したのです」
そしてその座標が付近の海岸だったというわけね、とセアンは察した。
空を塗りかえた灰色のバリアは北コロニアの沿岸警備レーダーを撹乱するためのものだろうが、現時点で北コロニアはさらに最新の技術をもって、撹乱波を探知、解析、無効化することができるのだろう。だから、マーデル大尉を迎えにきた少佐は、強引な手段をいとわなかったのだ。
「居間には彼はいなかったよ、セアン。逃げたんだ」
セアンは疑問の目つきをトニーへ向けなおした。
しかし口をひらく前に、廊下を駆けてくる足音が彼らをふりかえらせた。
若年の警官が敬礼して報告する。
「浜に足跡が。北上してつづいているようです」
「すぐに追え。じきに州からも応援があつまる。軍も来るだろう」
警官たちは最寄り町の分署ではなく街の本部から出動していて、警察犬も連れているようだ。崖の下から吠え声がしている。そういえばポイはどうしているだろうとふと思う。サギ男が出ていくときも吠えなかったようだし、この騒ぎにも反応していない。どこからも息遣いが聞こえず。爪の音もしない。――まったく、番犬にならないではないか。
「トニー、どういうこと」
「……セアン」
レーダーが侵入艦のおおよその位置まで特定したとして、人間の姿まで見えるわけじゃないのだ。
捜索にきた街の警察が、どうしてまっすぐセアンの家に見当をつけられるのだ。どうしてトニーがそこにいるの?
「あなたが密告したの? 『崖の上の家に怪しい男が住み着いてる』って?」
「セアン、僕は昼間、休憩時間にここへ来たんだよ。このまえ急いで引き取ったままだったから……」
「昼間?」
警官たちは戸口から消え、トニーは背後を気にしながら、ためらいがちに寝室へ足を踏み入れた。
「ああ。玄関の前にきたとき、急に空がおかしくなって、それで空と海のよく見えるほうにまわった。そしたら潜水艦を見たんだ。彼らの、あの男の、邪悪な魔法もね」
「だからって、トニー、あなたはとても馬鹿なことをしたわよ。こんな事件が明日になって広まったら、スタチェット家は疑惑の渦中に巻き込まれて、家名に傷がつくどころか、信用がガタ落ちよ。スタチェット家のためには、警察には黙っておいてくれたほうがよかったのよ!」
「知っていたんだね、やっぱり」
「知っていたけど、私は関係ないわ。関係ないままにしておいてほしかったわ。そのほうがあなたにとっても、よほど有利だったと思うわよ。警察なんかに言わないで私を脅せばよかったじゃない。バラされたくなかったら、指輪を受け取れ、ってね。労せず億万長者になれたのに」
まくしたてたら、トニーの顔色が変わった。
愕然とした表情で、立ち尽くす。
手に持った帽子にぎゅっと大きく皺がよった。
「それはどういう意味なのかな……」
「あなたはスタチェット家の財産を手にいれる未来をうっかり逃したってことよ」
トニーは口をひらいては空気を噛み、言葉を喉に詰まらせたようになった。
ゆらゆらとその場で重心が定まらないみたいに立つ位置を変える。右を見ても左を見ても、言葉が出てこなくて、詰まった胸のあたりを物理的にこぶしで叩いた。
すると本当につかえたものが流れ出てくる。
一気にトニーは喋った。
「セアン、君が騒ぎに巻き込まれることの心配は確かに僕もしたよ。だから夜まで迷っていたんだ。でもそれは僕のためにじゃなかったし、そもそも――。いや、そんなことはどうでもいい、僕は世間的な騒ぎより、君が、君の身が心配で、通報することにしたんだ。一日だって邪悪な魔法使いかもしれない男とひとつ屋根の下にいさせたくなくてだ」
顔を赤くして言いつのると、トニーはくるりと背中を向けた。
そしてまた立ち尽くした。
セアンは顔をそむけて黙っていた。
トニーの言い訳は、とってつけたものに決まっていた。
〈取り屋トニー〉の八方美人な話術に決まっていた。とにかくトニーの聞こえのいい言葉をそのとおり受け取れるわけがなかった。
だってセアンには、家名とそれについてくる財産を剥ぎ取ってしまえば何も残らない。
不自由な両脚と偏屈な性格をもった娘を嫁にして得することなんて何もない。
「もういいから帰って、トニー。これ以上あなたの時間を無駄にすることはないわ。その意味では良かったと思ってね」
言い終わらないうちにどこからか啜り泣きが聞こえてきて、セアンは首を巡らせた。誰が泣いてるの? しゃくりあげて泣いてる?
きょろきょろしていると、急に動いたトニーが枕元の灯りの下に何かを置きにきた。
戸口へとってかえす一瞬、くしゃくしゃの横顔に涙のすじが見えた。
(……なぜ、トニーが泣くの?)
セアンは唖然とする。
よく聞きとれない声で暇の挨拶らしきものを残し、乱れた足音をたてて廊下を去っていく。そんなトニーの一挙手一投足を不可解に思いながら、セアンはナイトテーブルをふりかえる。そこに置かれていたのは、小さな革張りの小箱だった。




