一-3
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ふわふわと車輪が沈む絨毯の敷かれたホール。体に伝わる柔らかな感触。ざわめく空間。父の背中のあとを着いていって人々の列の端に並び、ホールの前のほうを見上げると、開拓者たちを見守る大天使が描かれた大きな絵があった。その絵があるということは、ここは国会議事堂の隣に建つ迎賓館だ。大天使を見上げる自分の目線がとても低くて、違和感を覚える。車輪を止めてもどことなく感覚がふわふわしていておぼつかない。大天使の絵の絵の両側に、二つの国旗が掲示されてあるのだけはくっきりと見えた。一つは北コロニアの、そしてもう一つは……。
その国旗を自分はたぶん、見たことがある。
いや、いまこのとき、見たのだ。
『どなたがいらっしゃるの、とうさま』
と、セアンは言った。幼く舌ったらずな言い回しで。
『魔法使いさ』
かたわらの父が答える。
『悪い魔法使いなの?』
『さあね、セアンはどういうのが悪い魔法使いだと思う? どうやって、善いか悪いかを見抜いたらいいんだろうね』
しばらく世界がまたふわふわと不安定になった。
霞がぱっと晴れたとき、セアンの口から答えが飛び出す。
『嘘をついたら悪い魔法使いよ』
父の笑い声。
『そうだね。簡単なことだね。ただしその基準でいくと、ここにいるみんな悪い非魔法使いってことになるがね』
『わたしも悪い子?』
『セアンは違うよ。何を言っても許される、子供だからね。セアンはただひとり、善い人間の代表としてここにいるんだよ。魔法使いどのの心証をよくするためにね』
『とうさまだって正直者よ』
『善い人間の前ならば、だよ。朱に交われば赤くならざるをえないのさ、逆もまたしかり』
大ホールが水を打った静けさに満たされて、その不気味さが強烈に胸に迫った。人々の緊張が伝染する。扉がひらく。中央を歩いてくる集団の中に、大統領がいた。大統領ってあんなにしわくちゃのお爺ちゃんみたいな顔をしていたかしらとセアンはいぶかしんだ。その見慣れぬ大統領にエスコートされて大天使の絵の前に立とうとする人物が誰であるかは、考える間もなくふっと心に落ちてくる。ヤーヘル王国の国王、シンアック・ヘルム・マーデル2世――魔法圏諸国家の盟主とも言っていい、最初の魔法契約国ヤーヘルの元首だ。
『魔法使いどもの親玉だ』
周りから意地の悪い声がひそひそと聞こえてくる。
相手には絶対に届かない距離だとわかっていて、いろんな陰口が交わされていた。
『魔法で聞いてるかも』
とセアンは呟いた。
でも、そう思ったセアンは知らないけれどここでは王様は魔法を使えない。非魔法圏では魔法が禁じられているから。シンアック王は魔法圏と非魔法圏が互いに友好を結べる相手であることを示しに北コロニアを訪れていて、友好のため大事なのは、信頼を築くことだ。
魔法圏製品の禁輸排斥運動が高まる非魔法圏へとわざわざ赴いた王の行動は、歴史に記されるべき勇敢な行動だったが、諸刃のつるぎともなりえた。
同じ人間であることよりも魔法の気配を強く見せれば、非魔法圏の世論は硬化して戻らなくなるだろう。非魔法圏の人々は、過去に否定した力によって支配されることを恐れている。
繊細なガラスの杯を手に、人々は乾杯した。
大天使の絵に近いほうから順に、列を巡って魔法使いの王様がセアンのほうへ近づいてくる。
王様は魔法使いらしいマントもローブも羽織ってやしない。黒と白の礼服揃えに金細工のベルトを斜めがけした王様は、プラチナブロンドが照明に映えてきれいな、痩せた人だ。間近に近づくと王様の目許には小さなしわが見えた。知的なまなざしをしていた。明るくは笑わないけれど、穏やかに湛えた微笑に揺るぎない意志がある。前向きにひらかれた意志が。
青灰色の瞳がセアンをみとめて、紹介がなされる。
政府高官の父を交えた三人のあいだに、二、三の言葉が交わされたが、いくつかはあとに残らない。
いくつかは鮮明に響いた。
『チャリティー・クイーンか、愛の女王だね』
『私は税は徴収しないけれど、代わりに愛をお金に変えさせてあつめるんですの』
初めて王様が愉快げな笑顔を見せた。
『素晴らしい。セアン嬢、あなたは生まれながらに女王だったのだろう』
『ええ、人はみんな生まれながらに役割があります。だって、生まれながらに私の脚はこうでしたし』
セアンは冗談を言ったのだが、王様の表情は現実に戻されるように引き締まった。
そして一つの呼吸をおいたあと、王様は心から、とても残念そうに言ったのだ。
『ダイモーンと契約すれば、君の脚は不自由なく動くようになるよ』
「……シンアック王って」
掛布団の中でセアンは暗闇に目をひらき、過去に向かってひとりごちる。
「ずいぶんデリカシーのない人ね」
夢が見せた過去?
まだ華やかな世界にいたころの、記憶。
それは今の今までずっと心の奥底へ沈んでいた。
冷たい月の光が窓から絹のドレスの袖のように入って、枕元を覆っていた。崖の上の家は静かすぎて怖いほどの夜があり、潮騒と月光をふさがないようにセアンの寝室はいつもカーテンを閉めていない。家族の寝室はぜんぶ二階にあるのだけれど、セアンの部屋だけは、一階にある。
セアンは、ヤーヘル国王に会ったことがあるのだ。克明な残像が掘り起こされてみれば、徐々に細かなことまで思い出していた。ぜんぜん、まったく、意識のうわべには留どめていられなかったくらいの大昔のことだ。六、七才の時分だろうか。
(伯父様の前の前の大統領は確かにしわくちゃのおじいさん顔だったわ)
急にどうして、夢で思い出したのだろう。
最近の不愉快なやりとりが引き金になったということだろうか。
「デリカシーのない人間が侵入してきているせいかしら」
ヤーヘル国王のあの言葉は周囲の北コロニア人の表情を凍りつかせたが、もちろんその一言のせいで戦争が避けられなくなった、などというわけではない。
当時の大統領以下、国王を招待した人々は対立の果てに避けられなくなるだろう戦争を望まない人たちだった。
結局は、国王の訪問も歴史的な対立の前では焼け石に水だったのだ。
だいたい、無遠慮の余計なお世話にいちいち腹を立てて戦争を仕掛けていたら、セアンなど大変なことになっている。どこどこに伝わる治療法だの、どんな病気も祈りで治してしまう新宗派だの、親切でお節介な紹介者たちなら途切れることなくセアンの前にあらわれてきたものだ。
シンアック王の言葉だけを見れば、それらとあまり変わらない、
違うのは、魔法圏において魔法は、非魔法圏の科学ほどに確立された方法だということ。
だからこそ、あの状況では問題のある発言だった。
だからこそ、あれは嘘のない人間の言葉だった。
掛布団を引き上げてセアンはまぶたを閉じなおす。
壁と廊下を隔てた奥の部屋から、引き攣れるような悲鳴が聴こえる。
今夜も聴こえる。
それが、体のものではない痛みにさいなまれた人間がふりしぼる叫びだということに、セアンはもう気づいていた。
安息日の日曜は働くことを禁じられている。純教徒たちは特に神の戒律を大事に守る。大海のこちらがわの文化だ。
あれから三本の失敗作を転がしつつ、雨の金曜も、雷のひどかった土曜も(スーの言いつけ仕事を含めて)外で働きづめだったサギ男にも、残念ながら居間でおとなしくしていなければならない日曜日が来た。
日曜日には決まってあれが来る。
「昨日おとといの嵐は心配したよ、ミス・セアン」
「そりゃあ、あなたの目論みごと崖崩れにでも飲まれて消えてしまったら、ほぞを噛むしかないものね、トニー」
「どういう意味だい?」
「自分の胸に聞いてみて。あら素敵だわ、その胸の紫のハンカチーフ」
「紫は高貴な真心を表すって新聞の色彩心理学欄に載っていたからさ」
「神聖占星術欄にそんなことが書いてあった気がするけれど?」
「そ、そうだったかな?」
部屋の隅で誰かが吹き出す気配がした。
セアンとトニーがそろってそちらを向くと、何もなかったように真面目な顔で読書に没頭する青年の姿がある。
戸棚と窓に挟まれた壁ぎわの床に嵌まり込むように座って、膝に抱えた書名は、『配管仕事の心得』。
「そんなに面白い本なのかい?」
眉をひそめたトニーに声をかけられて、サギ男は本から顔を上げると、
「いや、どうぞつづけて」
と言った。
存在ごと忘れてくれ、という顔で。
調子を狂わされたようにトニーが落ち着きなく座りなおした。
「使用人は使用人部屋で過ごさせたほうがいいんじゃないのかな、ミス・セアン」
「それがね、あの人を部屋に閉じ込めておくとポイがうるさく吠えるのよ。出てこい出てこいというようにね。うるさくてかなわないから、ポイのねじろの居間で一緒にいさせているの」
これは本当のことで、サギ男が運び込まれた夜のポイは低く唸ったり扉を掻いたり、それはそれで番犬としては普通の反応だと思われていたが、日に日に慣れるどころかだんだんポイのサギ男への警戒は強くなった。警戒というか、激しい興味と言ったほうが正しいだろうか。目の届くところにサギ男がいる限りは、ポイは普段どおりだ。むしろ懐いているようにも見える。けれど一定の距離感は保たれているから、もしかしたらポイはサギ男を新しいおもちゃか何かのように思っているのかも。
「へえ。見た目はしょぼいけど、いい番犬だな」
ストーブの前で寝そべっているポイの垂れた耳が、敏感に動いた。
けれど、それだけだ。
「ええ、ポイは人間についてとても鼻が利くのよ。つまらないものには反応しないで、放っておくの」
「利口だなあ。さすがミス・セアンの犬だね」
今度こそ吹き出しただけでなく、抑えられずに喉から笑う声がつづいた。
サギ男は訝しげなトニーの視線から逃げられなくなった。
口の端を噛んでむりやり真面目な顔をとりもどすと、サギ男は片手を差し出すような身振りをした。どうぞ二人でつづけてくれ、と。
「ポイじゃないけど、本当に彼の身元は確かなのかい。なんだか目付きが暗いじゃないか。銀行に勤めていると、後ろ暗いところのある奴は一目でわかるようになっちゃうんだよなあ」
「銀行って素敵なところね」
「そうだろう、ミス・セアン」
だから僕も素敵だろう、と言わんばかりにハシバミ色の瞳をきらめかせるトニー。
「だからさ……」
トニーが身を乗り出した。
「スー、ねえスー、いないの?」
「スーザンはさっきマクビーじいさんのところへマトンスープの作りおきを届けにいったじゃないか。この家ではまだ日曜日は冷えたスープを食べてるのかい?」
安息日には火をおこしてもいけない、というのが厳格な宗派の生活様式で、スタチェット家が守る伝統だった。
「もちろんよ」
「冷えてかたまったスープの油の膜だって、君と囲む食卓ならば、ごちそうだろうねえ」
「スー、ねえまだ帰ってないの?」
セアンはそぞろに逃げ道をうかがう。トニーの口ぶりに、嫌な予感がした。
「ねえミス・セアン。いや、セアン。今日は受け取ってほしいものがあるんだよ」
トニーはもったいぶって青い背広の内ポケットへ手を入れた。
「実は、昇進が決まったんだ。来月から僕は、出納係長になるんだよ。これは一応、出世コースと言われていてね。だからね、これを機に、いよいよ思いきって――」
セアンの顔から血の気が引いてゆく。
「ちょ、ちょっと、もうスーザンったら!」
革張りの小さな小箱がティーテーブルに置かれた。
血の気が引いていったと思ったのに、セアンは真っ赤になって招かれざる最後通牒の箱を凝視した。
金色の留めがねを外して小箱の蓋をあけるトニーのわざとらしく恭しい手つきといったら。
「セアン、どうか僕の」
ガタン!
勢いよく引かれた椅子の跳ねる大きな音が、そこに割り込んだ。
はっと驚いてセアンとトニーが顔を上げる。
「あなた、銀行にお勤めなんですか? それはちょうどよかった。僕はいま、金を貯めたいと思っているんです。口座をひらきたいんですが、小口預金はいくらから預けられますか? 利子はどれくらい? どうか相談にのっていただけませんか?」
引きよせた椅子に座りながら本をティーテーブルに投げ出して、トニーへ詰め寄るようにサギ男がまくしたてた。
「な――」
呆気に取られて固まっていたトニーが、バネのついた小箱の蓋に指の皮を挟まれて、あわてて小箱ごと手を引っ込める。サギ男は素直な期待にみちた表情でじいーっとトニーの顔を仰ぎながらアドバイスを待っていた。
トニーはちらりとセアンを見た。何故だか、すまなそうに肩をすくめてみせる。トニーはそれから格好をつけなおすような気取った咳払いとともにサギ男と向き合った。
「とりあえず、預けられる金額はどれくらいだね?」
「月に十二……いや、十ゲール。今のところ三十ゲール貯まっていて」
「まるっきり子供の小遣い程度だな。しかし心構えとしては立派なものだよ、貯蓄は男子の甲斐性を証明するからね。利子は低いが諸費用が五十テニーですむ簡易口座をおすすめしよう。正規口座は開設金を五十ゲールとるから無理だろう」
「ついでに今日、預かっていってもらえますか?」
「ああ、勿論、お安い御用だね。手続きは明日になるが。名前を聞いておこうか」
「フラウド・スウィンドラー」
「詐欺・詐欺師……?」
ぎょっとしたようにトニーがくりかえした。
「いいや、フラッド・シンドラー、です。よく聞き間違えられるんだ。ええと、僕の持ち金はセアンお嬢様に預けてあるので」
今度はセアンが寝耳に水を浴びせられる。
とっさの回転でその言葉に乗り、マントルピースの上を指差した。
三十ゲールくらいのお金は、スーが持って出かける〈お使い用〉の財布にいつも入っている。
「そこから出して持っていってちょうだい。いま、家の金庫を開けにいくのは面倒だから」
本当は、金庫の場所をスー以外に知られたくないのだ。
「故郷で許婚が僕を待ってるんです。出稼ぎで五千ゲール貯めたら帰るって言ってある」
「錦を飾るだとか下手なことは考えずに、五分の一程度で妥協したまえ。早めに故郷で足場を固めてしまったほうが、人生設計としては有利だよ」
自ら暖炉へ歩いていって三十ゲールの硬貨を預かりながら、トニーはもっともらしく諭してみせた。
一世一代の勝負を邪魔されて、それでも余裕のふるまいを見せるのは、さすが〈気取り屋トニー〉の真骨頂だ。
『私の前でみすみす醜態をさらしたくないからね』――セアンはそう思った。
醜態は次の機会にひびく。
冷静な判断だ……。
「人の金を預かってのんびり長居はできないな。今日はいったん、帰らせてもらうよ。セアン、大事な話が途中になってしまったのだけど、晴れの記念日はいくら延びたって逃げてくわけじゃあないよ。どうせ幸福な一本道なのだからね」
妙にうわずったままの場の雰囲気が元に戻らないうちに、トニーは出直しをはかった。
どこか消沈したような玄関ドアのぱたんと閉まる音を聞き送ったあと、居間に残された預金者と、求婚しかけられの少女とは、えもいわれぬ沈黙を食いつぶす。
嵐の名残りの強い風が、窓ガラスをがたがたと揺さぶっていた。
「…………お礼でも待ってるんだったら考え違いよ」
しばらくしてセアンはやっと言った。
「一人だって切り抜けられたわ、だって――」
「それこそあなたの考え違いですよ、セアンさん」
トニーの空の椅子のほうを向いて黙っていたサギ男が、座ったままでセアンをふりかえり、遮るように言った。
「……え?」
「僕が割って入ったのは、あなたを助けるためじゃない。あのままあなたは彼の求婚を断ってしまうと思ったからです」
「もちろんよ。断ったわ。断れば済んだのよ。そうよ、別に逃げる必要なんかなかった。だからあなたにお礼しないわ」
とつぜんサギ男が立ち上がり、その拍子に椅子がふたたび大きな音をたてて跳ねたから、後ろでセアンはびくりとした。
「ぜんぜんわかってないな。どうしてそう人を見る目がないんだろう!」
青年の声は、張り上げたわけでもないのに充分に大きくて、セアンの息を詰まらせた。
けれど怯える必要もないと思うから、セアンは肩をいからせて言い返した。
「私のことを言ってるの? 勘弁してちょうだいね、スウィンドラーさん。いいえフラウドマンさん。命と自由の恩人に誹謗中傷でむくいるなんて、私も自分のした善行が情けなく思えてくるわ」
「本当ですよ。僕なんか助けなければよかったんですよ。僕みたいのがあなたのケチんぼな善意にありついて、彼みたいな善い奴が虚仮にされるなんて、ひどいよじれだ。あんまりな間違いだ。あなたのひねくれた心がその目をただの節穴にしてるんだ」
きつく握られて震えるこぶしを眺めて、セアンは眉間を険しくする。
「きみが世間の何を見ているつもりになってるんだかしらないよ。だけど何もかもとんでもなく間違ってるのだけはわかる」
一方的な非難に、腹がたった。
動悸も激しくなったが、こちらに顔を見せないサギ男の憤りは、八つ当たりが混じっているようにも感じられた。だからセアンは、返す言葉を探しあぐねた。
サギ男がどういう筋道で怒っているのか理解できず、脇道へおいてけぼりにされた気分がする。
「何も見ようとせずに、心を狭く生きていたいなら、あのときはどうして僕を放っておいてくれなかったんです。瀕死のまま、海に投げ返しておいてくれればよかったんだ……」
震える二つのこぶしでこめかみを挟み、サギ男は声をかすれさせて頭を抱えた。
「いいかげんで気まぐれな神の手のせいで死ぬべき人間が死ねなかった。馬鹿げた話だ」
サギ男はそのまま立ち尽くした。
自分の言葉にとらわれたように呆然として。
「おせっかいの次には、逆恨みなの?」
激しく頭を振って、サギ男はうわ言みたいに呟いた。
「逆恨みなんかじゃない。彼らのは逆恨みなんかじゃない。俺は呪い殺されても文句は言えない……」
恐怖の滲んだ声だった。
セアンは引きずり込まれるような不安を覚えた。
暗くて深い底へ。
すり替えられた話の中身が、セアンには見通せない。
夜中に聴こえてくるものと同じ、心の苦痛からふりしぼられる呻き声が居間に響いた。
「どうしてだ……皆も、彼らも、俺のせいで、俺が……、――したのに」
見開いたまま彼は目を閉じることを忘れている。
その目が深い深い底を見据えている。
もう彼はセアンに問うているのではなかった。彼は海の底に問うているのかも知れなかった。窓が閉まっていても、沈黙の落ちた家の中には潮騒が間断なくとどく。その身にまとわりつく海を振りはらえもせず、彼は海の底に沈んだ自分の心を問いただそうとしているのかも知れなかった。
「そんなにも自分を憎んでいる、あなたはいったい何者なの?」
だいぶ時間が経ったように思う。
互いの真実を何ひとつ知っているわけじゃない二人のあいだに流れるにしては長い時間が。
セアンはスーが帰ってくる前に終わらせなければならないと感じて、静かに口をひらいた。
その問いに意味はない。
聞いたって、セアンには関係ないことだからだ。
サギ男はずっと立ったままで震えていたが、かけられた声にのろのろと腕をおろして、テーブルの端に手をかけた。
そこに置かれた本を手探りでたぐりよせると、片手に抱えた。
彼は深呼吸をした。
そして彼は、ごくわずかにセアンをふりかえり、答えた。
「僕は、詐欺師ですよ。今さっきそれが真実になったでしょう。あなたから三十ゲール巻き上げました」
その横顔には、最初の晩に隠したものと同じ、かすかにゆがんだ微笑が浮かんでいた。




