1-5 赤いMOONCHILD (崩壊)
「MOONCHILD」発見から5年ほど経ったある冬。
杏は8歳になった。誕生日だ。
小学2年生に上がった事でさまざまな事が襲いかかってくる。
難しくなった宿題、新しい友人関係。
冬になるとこの課題にも慣れてきていた。
それは自分の努力の末…と言いたいところだが、優しい両親の協力があってこそだった。
この誕生日はもう一つ杏にとって嬉しいことがあった。
それは単身赴任していた父が帰ってくる事。
杏からしたらそっちの方が嬉しかった。
誕生日兼単身赴任終了のお祝い。
母と杏はその準備に勤しんでいた。
身長も低くまだ幼いという事で、料理などは出来なかった。…が部屋の飾り付けや椅子のセッティング…出来ることはなんでもした。
準備が終わるといつもの母の真似として、玄関で正座をする。母はそれを見て笑う。
父が帰ってくる時はいつもこの様にして出迎える。
十分…二十分…時計の針が進む音が鳴る。
だがインターホンはなかなか鳴らない。
時刻は20:30を回っていた。
予定の時刻の30分オーバー。
母は心配になり父の上司に電話を掛けるが「知らない」の一点張り。
諦めて電話を切ると杏の肩を叩く。
「お腹減った?」
「うん!」
「じゃあ先に食べてよっか」
「やったー!」
無邪気な返事に母は小さく微笑む。
母の料理はどれも絶品だった。
ベストな味付けに量。
母の料理を食べた父はいつも「美味しい」と言って顔を合わせていた事を思い出す。
杏もそれを真似する。
「ママ!おいしいよ!」
「そう良かった〜」
優しい母はそれを見て頭を撫でる。
そして食事も終わりに向かっていた21:00。
その時の事は今でも鮮明に覚えている。
いや忘れられない…。
--ドンッッ--
鈍い音と共に家が揺れた。
これは誇張でもなんでもない。
ただの地震だと思っていたが、点けていたテレビもその揺れの事の説明は無い。
ジーっ…ジーっ…と何かを引きずる音が廊下から聞こえる。
鼻が捻じ曲がる様な激臭が充満する。
明らかにこれは父ではない。
「あなた…?」
「アァァァ…」
父ではない別の誰かの声。
地響きの様な唸り声に耳を塞ぐ。
すりガラスに映る奥の人物のシルエットは、ただただ大きかった。
細身で小柄な父とは似ても似つかない。
放心状態の二人の耳に風を切る音が聞こえる。
--パリンッッ!--
大きな何かを投げられてすりガラスが割れた。
…その何かは人だった。
鼻はありえない方向に曲がっていた。
顔はたこ焼きのように膨れていた。
大きな紙袋を持っている。
それを人だと認識出来たのは…
大好きな父だったから…。
「あなたぁぁっ!」
「パパ!パパっ!」
父の体を揺らすも返事は無い。
だが呼吸はまだある。微かに聞こえる。
「いい顔して泣くじャァねェか…」
無責任な声が後ろから聞こえる。
母は殺意の籠った瞳でその姿を見る…。
「ぇ…」
声にならない声が漏れる。
それからの光景は見るに耐えなかった。
鬼の様な筋肉隆々の大男に辱められる母。
母は抵抗出来ずに血の涙を流す。口の中に手を入れられ叫ぶ事もできない。
目の前で愛する人を陵辱された父。
父は自ら舌を噛み切って死んだ。人の死は実に呆気なかった。
即死では無かった。死に至るまで踠いていた。
死ぬ間際には力強く握っていた紙袋を離した。
ものの数秒での出来事だ。
目の前で家族が終わっていく。
何も出来ない無力さに絶望した。
悲しくても泣くことが出来ない。
野生の勘が大男を刺激しない様に仕向けた結果。
だから余計に悲しさは増していった。
用を済ませた大男は立ち上がる。
気絶する母の頭を踏むとニヤリと笑う。
許せない行為…だが何も出来ない…
笑顔を見て震えるだけ…。
「今日からお前ェのお父さんは俺だァ…」
「歯向かうんじャァねェぞ…」
怖い。荒々しく首を縦に振ることしか出来ない。家庭を壊した男に抵抗が出来ない。
気絶する母の手を強く握ることしか出来ない。
いつもの様に暖かく無い…むしろ冷たい。
大男はズボンを履き直すとその場を後にする。
残されたのは死骸となった父と、尊厳を失った母…そして無力な杏だけだった。
それからの日々は目は開いているのに、全てが真っ暗に見えてしまっていた。
歩いている道が合っているのか分からない。
学校にいても友達は徐々に離れていった。
笑っているのに徐々に嫌われていった。
家に帰っても救いはない。
"お父さん"になったはずの大男に日常的に泣かされている母。それを横目にただカップラーメンを食べる。
それでも"お父さん"は笑っている。
何度も逃げたいと思った…
だが逃げたら母がどうなるか大体予想がついていた。これ以上苦しめたくなかった。
学校に行くのも家に居たくない言い訳だった。
きっとこれからも…
…だが人はいずれ幸せというものを感じる。
中学2年の夏、クラスの男子に惚れた。
至って普通の顔の子。だが底知れぬ明るさを持っている。
クラスでも人気で男女問わず友人が多かった。
それとは対局に杏は暗かった。
今時の中学生は美容にも気にする事だろう。
だが杏の髪の毛はボサボサ。いつも下を向いているばかり。天井のシミよりも廊下に付いた傷の方が目に馴染んでいた。
昼休みでは図書館で一人で強敵に立ち向かうヒーローの漫画を見ていた。
絶対的な力には勝てないと分かっているからこそ、面白かった。滑稽で。
昔起きた「MOONCHILD」事件についてもそこで薄らと見ただけだ。
醜い杏にその男の子は話しかけてくれた。
太陽の笑顔で目を見つめながら…。
遠い存在だと思っていた彼が案外近くに存在している。それを知ってしまった。
遠くの存在で終わったら、ただの淡い恋で終われる。だが人は近くに居るものをもう少し近くで見たいもの…。
例に漏れずこの恋はどうしようもなくなる…。
自分の容姿を鑑みて焦りを覚えた。
他の人に取られてしまう可能性がある。
それだけで無性に腹立たしかった。
恋なんて知らず知らずに進んでいく。
近くの本屋では「モテる女の秘訣」という本を買って、"お父さん"に隠れて読む。
ボサボサだった髪の毛を変えてみたりした。
美容液を使ってみたりもした。
まずは外見から…内面は二の次だと考えた。
しばらくもしない内に見る見る内に環境が変わっていった。
「可愛い」と褒められることが多くなった。
なぜか成績も良くなった…。外見に時間を使う時間の方が多くなったのに…なぜだろう。
彼のためにやった事…その全てがプラスに働いてくれた。
映画にある様な出会いなど滅多に無い…昔聞いた曲の歌詞にあった。そんなこと分かっている。
この恋の冒頭なんて映画にしたらものの数秒で終わる。プロローグにすらならない。
エンディングのダイジェストとして紹介されるくらい。
数ヶ月もしないうちに彼との距離は近づいた。
外見を変えたことで増えたクラスでの友人たちの協力があってこそだった。
そしてその友人たちの計らいもあって…
ついに彼とデートに行くことになった。
緊張もあったが…嬉しさの方が強い。
家に帰るくらい苦じゃなかった。
彼を見るためだけに学校に通っている…と言っても過言ではなかった。
そしてついに来たデート当日。
場所は遊園地…。初デートにはピッタリだと思って選んだ場所だ。
もう秋になったと言うのに…夏の様に暑い。
だが友人に勧められた秋コーデで彼を待つ。
鏡に自分を写し前髪を整えながら待つ。
この時間が一番幸せだ。
旅行に行く前が楽しい…人っていうのはそういうように出来ているんだろう。
デート中の会話を想像するたび口角が緩む。
周りの人からは変な目で見られていた…可能性が高い説がある。
集合時間の9:30…
だが彼の姿は見えない。
代わりにバックに入れておいたスマートフォンが揺れる。恋愛マスターの武者震いかと思った。
慌ててスマートフォンを見た。
彼が遅刻してくる連絡をしてきたのか…?
だがそれは彼の名前ではなかった。
彼とも仲が良かった男子からの連絡。
見る前から嫌な予感がする…。
先ほどのは悪寒で震えていたのか…?
だがそのメッセージを見ないことには何も始まらない。
文字だというのに震えている様に見えた。
『…今どこ』
『待ち合わせの場所だけど…?』
この人物は彼とのデートの件を知っている。
なんだったらこの場所はこの人物に教えられた。
『あいつが死んだ』
『なにいってらな』
『死んだんだよ』
"死"この言葉に頭が真っ白になる。
懐かしい響き…思い出したく無い体の震え。
信じたくない。信じれない。
穴という穴から汗が吹き出す。血さえも吹き出てきそうだ。唇は徐々に青ざめていく。
その後の文字は読めなかった。
視界が波を打って読みたくても読めなかった…そう言った方が正しいだろう。
拠り所のない怒りが体を包み込む。
汗と共に流れて仕舞えばいいのに…。
彼の死だけが事実として脳みそに残され、手元には事実が記録されるスマートフォン。
無気力のまま家に帰ることしか出来ない。
彼の死を悲しむものは後を絶たなかった。
…だが遺体の損傷具合からその亡骸は誰の目にも入ることは無かった。
後から知ったが彼の死因は"自殺"…そう発表された。
電車に轢かれたことで死んだ。…らしい。
そんなもの嘘だとすぐに分かった。
なぜなら数年前の父親の死も"自殺"で片付けられたから…。
あの時は碌な捜査もされなかった。
何か隠さなければいけないことがあったのかもしれない。そう勘繰ってしまうほど捜査はあっさりしていた。
それで諦めがつくほど…薄情ではない。
本当の父のことも…彼のことも…。
どうせあの"お父さん"がやったことだ。
今回ばかりは悲しみよりも怒りが先にやってきた。もちろん涙は流れていた。感情がごちゃごちゃだ。
…がただ一つの復讐をしたいという一つの思いは悲しみと怒りの間で合致していた。
家の中では相変わらず荒い"お父さん"の息遣いと、お母さんの掠れた様な泣き声。
もう日常と化していた。
怒りに身を任せてドアノブを掴む。
もうそれはドアノブが取れてしまうのではないかと心配になるほどだった。
だがその心配はすぐに消えることとなった。
マグマの様に沸々と燃え上がる怒りと共に…。
「ガァっっ!」
獣の様な声が家中に響き渡る。
…お母さんの声だと気づいたのはすぐだ。
あんなに怒りに満ち溢れていた全身は青ざめる。今は怒りよりも恐怖が勝ってしまっている。
怖い…この扉の先には見たくない現実が待つ。
数分の時間が過ぎていく感覚がした。
…だが時計の針の音はまだ5回も聞こえない。
軽くなった扉がゆっくりと開く。
「ハァ…逝ッちまったなァ…」
「二つの意味でなァ…」
「ガッハッハァッ!」
落胆のため息をしたかと思えばすぐに不快な笑い声が響く。何を考えているのか…分からない。
何も話せない。視線すら合わせたくない。
ただ拳は行きどころなく震えるだけ…。
「チッ…」
「まだ使いもんにもなんねェガキだけ残してやがッてよォッ…」
「あのゴミ片付けとけよォ…」
「お前ェが食い頃になったらまた来るからよォ…」
ゴミとはおそらく震えすらないお母さん…。
背骨は真っ二つに折れてしまっている。
目の前の本物のゴミを…心置きなく殺したい。
お父さんや彼を殺した以上の苦しみを与えたい。
そんな願いと共に床に膝を落とす。
まだ正午にすらなっていないのに…母と好きな人を失った…。シルバーブルーメでも来たのかと思ってしまうほどの悲劇だ。
「お母さん…お母さん…」
「ごめんなさい…お母さん」
呼びかけても返事はない。体も動かない。
だがその表情は嬉しそうだった。
なぜかは明白だった…。地獄から解放された。お母さんは天国に行ったのか…地獄に行ったのか…はっきりしないがこの家に居るよりは良いところに行ったのは間違いないだろう。
母の葬式は行われず遺体だけ回収された。
もちろん母親の死因は自殺で片付けられた。
普通なら18歳以下は施設に預けられる。
…だが父も死に母も死んだ杏を引き取る施設はどこにも無かった。曰く付きの人物として親族からも忌み嫌われた。
あんなに優しかった祖父母からも一切連絡は来なかった。
…だが杏には少しだけ嬉しいことがあった。
それは完全に自由の身になったことだった。
あんなに恐れていた"お父さん"も帰ってくることはない。その代わりに本当のお父さんもお母さんも帰っては来ない。
一日一食…泣いてから寝る暮らし。
廃人の様な生活に慣れて、中1の三学期はほとんど休んでいた。
両親が死んでからの方がよほど自由はあったが何か大事なモノを忘れている気がした。
死んでいる様な暮らし…だが不思議と死にたいとは思えなかった。むしら生きたいとすら天に願った。
ある日ふと掃除をする気が起きた。
嫌な事も楽しかった事も全て片付けられる様な気がしての行動だった。
だがそれは逆効果でしか無かった。
結論を先に言えば喪失感が増しただけだった。
異臭のするお父さんとお母さんの部屋。
埃を被った机の上には大きな紙袋と折り畳まれた便箋。中途半端に使われた鉛筆。
3つ折りにされた便箋を開く。
見出しにははっきりと濃く「大好きな杏へ」とか書かれていて、それだけで目が潤む。
鉛筆の濃さも薄い日や濃い日…そしてヨレヨレな字がほとんどだ。
"お父さん"がいない時間を縫って書いていたのであろう、たまに文字が書ききれていないところがある。
[汚いところを見せてごめん]
[いつも弱い私でごめん]
謝罪の言葉が無数に並べられている。
思ってもないことがほとんどなのに…。
悲しいことにそれを本人にはもう伝えられない。
[杏が頑張ってるの知っているよ]
[杏ならきっと付き合えるよ]
おそらく彼のために頑張っていた時期に書いた文章なのだろう。
この頃は自分のことばかりでお母さんの事など気にかけることは無かったのに…。
あんなに辛いを思いをしていたのに…ずっと見ていてくれた。やはり母は偉大だ。
母の存在を思い出すだけで視界が波を打つ。
[杏には自由に生きてほしいな]
[杏には優しい子でいてほしいな]
[杏には強い子でいてほしいな]
沢山の願いが綴られている。
この中で守られているのは自由だけだろう。
しかも最低で低俗な自由…。お母さんが見たら悲しむだろう…なぁ。
自分が大事で…一番近くで傷つけられているお母さんにすら声をかけれない。最後に話したのは数年前…。
お母さんは散々使われた挙句料理を作ってくれた…。その時の
「美味しい…」
「うん…」
あんなに優しい母は笑わなかった。
会話と言っていいのか分からない。
だけど母親の泣いていない声を聞いたのもこれが最後だったことは覚えている。
最後になると字も薄まっていてほとんど読める状態では無かった。
だが1番の要因は涙で文字が見えないからだろう…0。
怒りや憎しみを感じているのに何もできない。
ただその場しのぎで泣いて収めようとする自分にも怒りが徐々に湧いてきていた。
だが現実はどうこうできる訳がない。
また"お父さん"が来たら現在確かにある「怒り」すら「恐怖」に変わってしまう。
情けない自分に言葉がでない。渇いた声が溢れそうにもなる。
手紙…いや遺言を読み終えてから数十分近く悲しみの余韻に浸る。
左手の大きな紙袋が置かれていて静かに佇む。
もう誰のものでもなくなったその紙袋。
それを音が鳴らない様に静かに開く。
お父さんやお母さんの私物だったら怒られてしまうかもしれない…。いらない心配…だがクセになってしまっていた。
中には埃の被っている人形が入っていた。
…確かこの人形は小学2年生の頃に同世代の中で流行っていた。
その当時この人形を持っている者は特別視されていた。懐かしい…。
お父さんがあの日…。ずっと握りしめていた大きな紙袋の正体はこれだったのだ。誕生日だったから…。買ってくれていたんだろう…。
数年の間で忘れてしまっていた…。いや蓋をしてしまっていた。
これ以上恥ずべきことはない。お父さんの優しさとお母さんの優しさ両方を受け継いでいるはずなのに、そのどちらの優しさも使えない。
宝の持ち腐れとは自分のことを言うのだろう。
頬からは静かに涙がこぼれ落ちる。
「お父さんお母さん…」
「あいつには勝てる訳ないけど…」
「こ…怖いけど…頑張りたい…」
「見守っててほしい…ウチ…頑張るから…」
…空が光ったような気がしたのは、気のせいではない気がした。




