9-4 蜃気楼
化け物は足に力を入れてシマウマを狙うライオンのように、鋭い目つきで風華を睨む。
「…怖いなぁ」
「ママーァッ!」
ビュンッ!
化け物の脹脛が伸び上がるのが分かる。
バチンもバネのように打たれた足によって、化け物は瞬きの間に風華のすぐそばへ近づく。
「うわっ…!」
シュッ!
風華は地面を蹴り上げ真上の木の枝に飛び乗る。流石動物の動体視力というべきか…化け物はその間も風華の髪から視線を外さない。
上から見てみたらわかったが舞はもう既に勇の元へ辿り着いたようだ。
「ハハッ!楽シイネッ!」
裂けた様に大きな口を存分に開き、満面の笑みを見せつける化け物。歯には髪の毛が挟まっている。
「僕ガ鬼ッ!待ッテ待ッテッ!」
草を蹴り上げる音と共に手を上げて飛び上がってくる化け物。入り乱れる木の枝はその手によって折られる。
…いや折られるというより豆腐を握った時の様にバラバラと崩れていくように見えた。
それも木の枝が真っ二つに裂かれるのではなく、細く縦に複数分かれている様に見える。
「その腕…やっぱりやばそうだね…」
「待ッテッ!待ッテッ!」
「僕ノ僕ノッ!」
「SOZO…マフラー」
「キャハァァァッ!」
裏声と地声の間の奇声を上げながら風華に近づく風華。風華の手にはマフラーが握られている。
バァッンッ!
破裂する様な音…。
化け物が両手を勢い良く合わせた音だ。…その中からは真っ赤な物が溢れ出ている。
化け物は笑みを浮かべていて大きく口を開き、その手の中の真っ赤な物を口に運ぶ。
「美味ヒイ…美味ヒクナァイ」
「アレェ…?ナンデェ…?」
「やっぱり最初に髪に触れられた時…自分で髪切っておいてよかった…」
「その手で触れたものを例外なく繊維に沿って切り裂く…」
「人間の体に触れたら筋繊維に沿って裂けていくんじゃない?」
風華は少し離れた木の枝でボブになった髪の毛を靡かせる。
あの真っ赤な物は風華の出したマフラーで、それに気づいた化け物は口からマフラーを吐き出す。
そのマフラーは30mm〜50mmの無数の毛糸が手に散らばっている。化け物は怒りの表情を浮かべてその無数の毛糸を放り投げる。
まるで真っ赤な雪のように地面に降り積もる。
「アイアイアイィー?美味シクナイヨママァー!」
日本語を話す知能はあるが、日本語の意味を理解する能力はないのか奇声を上げている。
風華は木の枝から飛び降りると、木の繊維が転がる地面に着地する。
「SOZO…刀…」
風華の手には刀が握られる。
「アハハァッ!待ッテッ!」
無邪気な笑みで血に飢えた手のひらが近づく。
風華はそんな化け物の眉間に刀を合わせる。
その風華の口元は下がっていた。
「遊ボッ!遊ボッ!」
開いた口の中にはまだ髪の毛が残っていて、粘っとした液体が上の歯と下の歯をつないでいる。
奥歯にはいつ口に入れたのかがわからない昆虫の死骸や、ネズミの下半身が挟まっている。恐怖心と比例して不快感がやってくる。
刀でさえも食べようと思っているのか化け物は大きな口を開く。
このまま行けば化け物の口に刀は突き刺さる。
3…2…1…と心の中でその秒数を数える。
「…ッ!」
0を迎えた時…体が宙に浮く感覚を覚える。
早めに死んでしまったのだろうか…。走馬灯も見えないでまさか死ぬとは…。
状況を確認するため風華は恐る恐る目を開く。
薄く見える景色は木々が走り出したかのように動いていて、強風が吹いているのかと思うほどの風音。
「華狢と真正面から戦うなんてバカのする事じゃ」
薄目で見るとしわくちゃで細い手が体を掴んでいる。あとこの味噌汁のような匂いは嗅いだことがある匂いだった。
「お!おばあちゃん!」
そこには「華狢」の話をしていた詐欺師のような老婆がいた。どうやら着替えたようでコートのような真っ黒な物を着ている。
細い腕に人一人を持ち上げられる力がどこにあるんだろうか…!…なんて思わない。周りにちびっこで力持ちな子や、普通の顔して力持ちな子が多すぎる。
「助けてやったのに失礼な奴じゃな…!」
「いやッ!驚きの方がすごくって!」
「ワシは由緒正しき浪華家の末裔なのじゃ!」
「そんじょそこらの年寄りと思うんじゃない」
「あのよくスーパーにいる老人だと思うんじゃないぞッ!」
ドヤ顔で語っているが、どアホな風華ちゃんにはなんのこっちゃか分からない。ていうか普通の人間でも分からない。生きてる人間はみんな由緒正しい。
まぁだがこの木々を軽々映りながら話しているこの老婆の身体能力の高さは、普通の人間の家とは違う事は確かだ。多分お猿さんの家系。
だが肝心な実績が分からず風華は複雑な笑みを浮かべる。年上の上司の武勇伝を聞いてる新入社員のようだ。
老婆の視線はギラリと光っている。
…おそらく見透かされているんだろう。
「小娘…能力者だろうにそんなことも知らんのか…」
「まぁ今の若者は知らないものか…」
「もうちょっと覚えやすい名字だったら覚えられてたかも知れないですぅ〜!」
「ほら佐藤とか!」
日本で一番多くて尚且つ自分の名字がパッと出てくる。当たり障りのない名字に老婆は目を丸める。
「さとう…漢字はどんなんじゃ?」
「え?普通のにんべんに左と藤原とかの藤ですけど…?」
あんな丸まっていま老婆の目が嘘のようにガッカリした表情を浮かべる。なんかムカつく!
自分の名字を言っただけなのにバカにされている気分だ。
「凡人の佐藤かよ…」
「佐藤はみんな凡人です!」
「てか人間元々全員凡人でしょ!」
「はぁ…違うんじゃ」
「あの"さとう"は凡人ではないんじゃ…」
「凡人じゃない"さとう"はっ!」
老婆が気持ちよさそうに語ろうとする。
「鬼ゴッコッ!僕鬼ッ!待ッテッ!」
後ろから耳を突き刺すような裏声が響く。
おそらく華狢というのはこの化け物の事を指しているんだろう。
華狢のスピードは老婆の比にならないほど早く、邪魔をする木々を切り裂きながら老婆と風華の元へ向かってくる。
その表情は満面な笑みだった。
「ひぃぃッ!おばあちゃんもっと早くッ!」
「ていうか離してくださいよッ!」
「俺赤ちゃんじゃないです!一人で歩けますから!」
「華狢はお前の匂いを追っているんじゃ!」
「お前が恐れて別のところに逃げられたら困るのじゃ!」
あまりの気迫に風華は涙を堪えて黙る。
老婆は怖く言いすぎたか…と心の中で反省する。…だが徐々に下半身がクネクネと動くのがわかる。
それは自分で決めたルールでトイレを我慢している子供の様だった。
「お…おしっこ…」
まさかの的中。
当たったからと言って何か景品がもらえる事はない。むしろ悩めることが多くなった。
老婆は頭を抱える。
「今は出来るだけ遠い所を目指してる途中なんじゃ!もう少し我慢せいッ!」
「ずっと我慢してたんですぅ…」
「あう…あうう…」
女の子の様に泣き叫ぶ風華。
後ろから華狢は嬉しそうな笑顔で迫り来る。
両腕を鳥の翼のように振り回している。爆弾で遊んでいるイカれた子供の様だ。
その様子を見た風華は覚悟を決めた顔をする。
具体的には眉をキリッとして口元は少し下がっている。
「こ…ッ!小娘!?絶対にここではするんじゃないぞッ!?」
「おばあちゃん…」
「揺れる度に膀胱が暴れるのッ!」
「膀胱が暴行してくるのッ!」
「ぷふッ…あぁッ!」
おバカな風華は笑ってしまう。
なぜか笑うと尿意が促進されてしまうもの…。
風華はさらに下半身をウネウネさせる蛇だ。
「バカ者ッ!」
「ご…ごめんなさいぃ…」
「…と!止まってよッ!」
「バカ者ッ!止まったら死ぬじゃろッ!」
「く…!車とおんなじなんだよッ!」
「華狢はもう迫ってきておるんじゃッ!黙っておれッ!」
「来るまぁぁッ!ぷふっ…」
「あぁッ…」
一瞬だけ極楽浄土に行った気分になった。
だがそこに行けたのも一瞬だけ…すぐに全身が小刻みに震え出す。
まるでダイエット器具に乗っている様な感覚だ。電動のやつ。
鳥肌が「待ってましたっ!」と言っているように素早く立ち上がり、風華の全身を守るように産毛が立ち上がる。
そして脳みそで堰き止められていた理性と暴行に、抑えられていた尿は同時に解放される。水攻めをするように勢いがいい…だが音は微塵も聞こえない。ただ夏らしく蝉が寂しげに鳴く。
パンツとズボンがぬるま湯に浸かっていく。
ぬるま湯は太ももにまで侵攻してきて、子供の頃によく経験した気持ち悪さが蘇る。
"漏らした"その事実を理解するのには少し時間は掛かった。事実を確認してからは"成長"を感じ取って妙に清々しい気分になっていた。
しばらくすると地面にびちゃびちゃと音が聞こえる。まるで雨の日の公園で遊んでいる時のようだ。
「あぁ…」
「あぁ…じゃないわ!たわけッ!」
「ワシの手にも掛かったではないか!」
「ふぅ…」
「やり切った顔をしてる場合じゃないわ!」
「華狢が…ッ!」
老婆が後ろを振り返ると追いかけている華狢はいなかった。…視線を少し落としてみると華狢は地面に這いつくばっていた。
普通なら諦めただけだ…と決定付けるが、華狢の習性を知っている老婆はなんとなく理解する。
「あいつ…小娘がした小便の臭いに釣られている様じゃな…」
「めちゃヤバい奴じゃん…」
「人の腕に小便を掛ける奴も大概ヤバい奴じゃ!」
「とにかくこれは好機じゃッ!目的地まで走るぞッ!」
「がんばって?」
それから数分…老婆は走り続けた。
腕についた風華の尿はもう渇ききっている。多分臭いが染み付いていることだろう。
真っ暗な森の中を抜けると…嘘のように光が射す場所が見えてくる。
その場所の中央には小さな家があった。家と言っても和風な物で、障子には穴が空き…引き戸は外れている場所だ。
おそらくもうこの家は使われてはいないのだろう。
障子の穴から見えた部屋の中はいわゆる書院造りになっていて、所々に蜘蛛の巣が掛かっていて埃っぽかった。
それすらもこの場所を引き立たせる大切な素材となっていた。
湖から繋がる川が小さく声を出して人を安らげる光によって、黄緑色の草が風に揺られて川の声に合わせて歌い出す。
まるで桃源郷のようなこの場所…。
気のせいかも知れないが柑橘系の匂いが香ってくるような気がする。
「ありがとうございます!」
降ろされた風華は真っ先に湖に走り出す。
まだ残りものがあるのか股間を押さえている。
「おばあちゃんも手についたおしっこ洗った方がいいですよッ!」
「ふッ…これはこれでちょうどいいのじゃ…」
「違うわッ!この臭いで華狢はここへやってくるのじゃ!」
「も…もしかしてまだ戦うつもりなんですか…?」
湖で下半身だけを洗い終えてパンツとスマボンを着替えた風華は、着ていたパンツとズボンを摘みながらやってくる。
やっぱり自分の能力は便利すぎる。
風華はそのパンツとズボンを小岩に置く。
「戦うと言っても…勝負は一瞬で決める」
「そんなこと言っても無理ですよぉ…一発触れられたら即死って…」
「誰が真っ向からあの化け物と戦うと言った」
「え?」
「封印術を使うんじゃ」
「封印術ですか…?」
「全くそれも知らぬとは」
何も知らない風華に呆れた顔をする老婆。
シワが目立つ。シワをなぞったら迷宮入りしてしまいそうなくらいにはシワがいっぱいある。
老婆はおしっこの掛かった手を伸ばしながら草むらに座る。
「封印とはな…」
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