9-3 blurry eyes
「華狢が逃げた…!大変なことになるぞ…!」
汚れのない白衣に低身長な老婆に似合わないほどの緋袴を着ている。
頭には烏帽子が乗っている。
いかにも祈祷師な白髪混じった老婆が騒ぐ。
…だが老婆の叫ぶ声に人は皆笑い流すだけ。
おそらく老耄の妄言だとろくに話を聞こうとしていないんだろう。普段の老婆への扱いが窺える。
正直今の時代こんなに胡散臭い人はいないと思う。もうちょっとマシな変装があるとは思うが…老婆にはそんな情報が届くのが遅いんだろう。
勇もその老婆を白い目で見ながら立ち去ろうとし一歩足を踏み出す。
「キャー!」
突然甲高い女性の叫び声が響く。
その叫び声の主はすぐに分かった…。
全てのことを忘れてしまい一心に走り出す。
「杏…ッ!」
群がる人混みを力づくで退けながら叫び声の方向へと走る。
比較的涼しい日だと言うのに額からは朝が流れ落ち、それを拭うことすら忘れてただがむしゃらに走る。
そして人混みの先端から顔を出すと…風華の腕の中でぐったり眠る杏の姿を見つける。
…喉の奥につっかえたのような気持ち悪さが襲い掛かり上手く呼吸が合わせづらい…。
「風華…!どうしたんだッ!?」
「分からないけど…一瞬気配感じて振り返ったら杏が倒れてたんだよ」
「杏は無事なのかッ!?」
「大丈夫傷も無いし呼吸もしてるよ」
どんな言葉よりもその言葉が嬉しかった。
例えどんだけフラれようが…杏が生きているだけで嬉しく…目の下に力が入る。
「華狢を見たようじゃな…」
あの老婆の声が背後から聞こえる。
しわくちゃな手で杏の顔を触っている。
「さ!触るなよ!」
老婆の手を振り解こうとするが、どこから力が出ているのかピクリともしない。
絶対に体を捻ってどかしてやる!っと…考えていると周りの人々が逆さに見えた。
ドテッ!
「痛ッ!」
勇はひとりでにその場をクルクルと回転して尻餅をつく。
しかもその回転する様子は誰も見ておらず、何も無いところで転んだくらいの恥ずかしさがある。
勇は何もなかったかのように立ち上がる。…おそらくこの老婆が何かしたんだろう…ニヤけている。
だがすぐに心配そうな顔で杏の手首を握る。
「やはり華狢の妖力じゃな…」
「傷も呼吸も荒くないが…血液に華狢の神力が流れておる…」
「応急処置をする小娘はこの娘を本殿へ連れて行くのじゃ!」
「は…はい!」
小娘こと風華は従順で杏を背負って神社の本殿へ走る。多分風華は純粋過ぎだから将来ツボとか買わされると思う。それくらいには疑うことを知らない。
だが勇はそんな純粋な男じゃない。
「変な妄言に付き合ってる暇なんてないんだよ!」
「愚か者め…神力と人間の科学を混ぜたら解毒不可能な猛毒となる」
「ワシを胡散臭いと言うなら…ワシはこの娘に何もする事はしない」
「精々苦しむ娘の姿を見ておけば良い」
「…」
老婆の芯の強い視線に勇は圧倒される。
別にこの老婆を信用できる訳ではないのに…今までの経験からこの老婆の言う事が正しいと感じてしまう。
「華狢はこの娘の匂いを覚えた…」
「次に狙われるのはこの娘の近くにいた女だ」
「もしかして…!」
外で騒がしいことになっているのに…舞は一人人気のない所で頑張っていた。
「風華きゅんっ!一緒にお祭りま〜わろ?」
首を傾げながらあざとすぎる笑みを見せる舞。胸の辺りでは両手でハートを作っていて、お尻をフリフリしている。
だが徐々に舞の顔が真っ赤になる。
「や…やり過ぎだよね…!うん!」
「じゃ…じゃあ」
「風華くんっ!お祭りいくぞー!」
「こ…こんな元気キャラじゃないもんね…!」
おそらくこの子は誰よりも平和だろう。
一人で風華を誘う練習をしている。
…だがそんな可愛い舞の背後には黒い影があった。
その影は舞の小さな背中にぶつかる。
舞は風華が来てくれたのかと、少し大袈裟に振り返り髪を靡かせる。
「風華く…!」
「え…?」
だがそこにいるのは風華ではなかった。
一見するとたぬきのような見た目をしているがら目は黒目以外が無く、女性用の着物を着ている動物がいた。はっきり言って化け物だ。
そして手のひらからは得体の知れない粘り気の強い体液を分泌していて、そこからは雨の日特有のアスファルトの匂いがするか。
「だ…誰ですか…!」
「遊ブ…」
よく見ると化け物の手には水かきがついている。
カタコトの日本語を話しながら徐々に舞に近づいてくる化け物。
あまりの不気味さに気づかなかったが顔以外にも、腕の体毛はきめ細かく腕自身も細く長い。
長い手は地面に引きずりながら向かってくる。
舞は一歩ずつ後ろへ下がる。綺麗な顔に似合わないほどの汗が流れている。
「こ!来ないでください!」
「ソノ髪欲シイ…!」
不気味な笑みを見せる化け物。笑った際に鋭い歯が太陽に照らされて光る。
逃げ道は四方に残っているはず…だが上手いように足が動かせない。
舞の目には涙が溜まっている。
「た…助けて…!風華くん…」
「綺麗ナ髪ィ…ッ!」
化け物はなかなか離れている舞に届くほどの両腕を振り上げる。舞の顔には化け物の手のひらの粘膜が付く。
鼻には異臭が漂い、吐き気も同時にやってくる。
その瞬間目の前の光景がコマ送りになったように見えた。
徐々に近づいてくる化け物…。音が先に聞こえてくるのだろうか…花火のような現象がこんなところでやってくるとは…。
風を切る音と共に化け物の手が近づいてくる。
徐々に…徐々に…化け物も近づいてきている。
「風華くぅ…っ…!う…助へてぇっ!」
嗚咽とともに出た心の奥底からの叫び。
森が共鳴し合いその声は祭りを楽しむ人々の耳にまばらに届いていく。…だが人々は気にも留めない。
叫び声虚しく舞の体に化け物の腕が近づく…。
風を切る音が聞こえた。
涼しい空気などではなく生息のようにぬるい空気が耳元を覆う。
「はぁはぁ…!」
心臓の音と共鳴するかのようにそんな息遣いが聞こえる。死の恐怖から目を背けようと、目を瞑ってしまっていた舞は目を開ける。
今現在お姫様抱っこをされている様だった。
伝わる心臓の音は、自分の音なのかこの優しい息遣いの人物の音なのだろうか。
「なんだか懐かしいね…」
この少し語尾が跳ね上がるような話し方は風華の声だ。声ですら優しいさを感じられる。
あまりの優しさに目尻から涙が溢れる。優しさで泣かされたのは数回目だ。
まだ何も解決してもないと言うのに…その優しさに甘えたく風華の胸に飛びつく。胸板に舞の胸が押し付けられる。
顔に見合わずに鍛えられた体は舞を安心させるのには十分だった。
「え…っ?えっ?風華くん…!?」
…腕を風華の背中に回した瞬間、舞の全身からは汗が吹き出してしまう。
それは普段なら絶対にあるはずの長く柔らかいところてんのように綺麗な髪の毛がそこには無かったのだ。
顔を上げて改めて風華の顔まわりを確認すると、腰まであった長い髪の毛がさっぱり切られている。首の付け根辺りで乱雑に切られていることを目の当たりにする。
また同じ様な恐怖にも似た不安が襲う。
「ふ…風華くん…髪の毛が…」
「大丈夫大丈夫…」
「わ…私のせい…?」
吐き気が今度は涙に変わる。
風華の首元に顔を近づけて舞は涙を流す。
「大丈夫違うから泣かないで…」
優しく涙を掬ってくれる風華。
やっぱり風華は優しい…泣き顔さえも見ないで拭いてくれている。
風華の肌が頬に触れた時…心臓が今まで感じたことのない様なスピードで働き始める。
基礎のなっていないドラムの様にリズムがまばらで、シャトルランの様に繰り返し徐々に早くなっていく。
ショート寸前の舞の顔は真っ赤だ。
「ママッ!オ腹減ッター!」
背後から化け物の声が聞こえ、夢の様な状態から一気に現実に引き戻される。
風華が後ろを振り向くとその光景はひどいものだった。
暗い緑色の涎を垂らしながら口の中には、風華の髪の毛と思われるものが放り込まれている。
飲み込んだのか…喉に髪の毛が絡まった様で胸を叩いたり、咳をしたりする。
それを当然の様にする化け物が尚更怖い。
「モット…モット食ベタイ…」
ギラリと光る化け物の目が二人を睨む。
「舞さん…俺がおろしたら走って勇の場所まで行って…」
「風華くんは…?」
「俺はちょっと忙しいからね…」
「大丈夫なの…?」
「うん…だから泣かないで」
「あうぅ…」
「絶対帰ってきてね…っ!話したいこといっぱいあるんだからっ!風華くんと話したいもんっ!」
「…うん」
「ママーッ!」
圧倒的なイチャイチャに割り込む様な化け物の声。…風華は舞を優しく地面に下ろす。
「うぅ風華くぅん…」
「は!早く行かないとだよ!」
「うん…っ」
舞は涙を流しながら走り出す。
だが化け物は追う素振りを見せない。ずっと風華を…いや風華の髪の毛を見ている。
「あんな強気な事言ったけど…」
「俺最後に戦ったのいつだっけ…」
次の投稿は月曜日19時です。




