1-3 人では無いナニカ
世界は残酷です。
「おい…杏」
全く知らないドスの効いた声。
少し掠れている様にも聞こえた。
「このクソガキがお前に告白して来たのか?」
「違うの!お父さん!」
"お父さん"その言葉に風華はハッとした…この背後の人物のせいで勇は振られたのだ。
その瞬間ありもしない力が体を包み込んでくれた気がした。…恐る恐る首を回す。
その姿を見た時…全身の血の気が引いた…
あんなに自信満々に立っていた2本の足も力が抜けて尻餅をつく。
「失礼なヤツだぜェ…全くよォ…」
呼吸をするたびに緑色の煙が見える…
一目でわかる…こいつはこの世のものじゃ無い。悪魔とも鬼とも言えないその微妙な見た目…人を人とも思ってない様な顔で風華を見つめる。
耳元まで避けている口で目の前の怪物は笑みを作る。
笑顔だと犬歯にある人差し指ほどの長さの牙が目に入る…ところどころ黄ばんでいるがそんなことどうでもいいほど鋭い。
仮面をつけているように笑顔には感情がなかったのがさらに怖さを際立たせる。
「腰抜かしてんぜェ…」
背後に手を回されるが拒否できない、Yシャツの襟を掴まれる。
怪物の長い爪が掠れたのか…注射を刺された様な軽い痛みの後に、首から少し血が流れる。
華奢とはいっても仮にも男子高校生の風華を軽々持ち上げる。
オーラによって現実より大きく見えているのかと思ったが…実際にでかい。風華の身長が160cm付近を彷徨っているのから計算すると…2mより大きいのではないのだろうか。
「エロい顔してんのによォ…」
「ウゴッ…」
その息は動物の死骸を口に放り込みウジが湧くまで待機した後にそれごと噛み潰した様な…
とにかく嘔吐した後の口よりもさらに強烈な匂い…。
失礼だとは分かっているが嗚咽が止まらない。
「ウオエッ!ゴオップッ…!」
「舐めやがッてッ!」
怪物は頭に血管を集め激昂する。
理由は単純明快、バカにされた気がしたから…
緑色の腕の血管が動く。
大量の芋虫が血管を這っている様な気持ち悪さを感じる…。
「お前ェにも躾が必要なようだなァ…」
何か嫌な予感が脳裏をよぎるが体は抵抗することをもう辞めている。
「ン…ッ」
恐怖で記憶が一瞬記憶が飛んでしまう…
数秒も経っていないであろうが…
気づいた時には空中を舞っていた。
ダッッ!と鈍い音が体育館と第二体育館を繋ぐ渡り廊下に反射して響く。
「…んぐっ…、!」
「ゴブァッ!」
運が良かったと言っていいのか…かろうじて意識は残っている。
だが背中で着地したことでどこかの器官がやられたのだろう。
口を押さえても隙間を縫って血が出てくる。
血が足りないのか頭がクラクラする。
足は痛くない…背中だけが痛いはずなのに上手く立つことができずに足が震える…
生まれたばかりの子鹿だ。
「汚ねェなァ…」
吹き飛ばされた衝撃で今いる位置がどこだか分かっていなかったが…怪物の言葉で気づく。
ここは体育館の側溝で…おそらく背中を打った場所はこの側面の部分だろう。
そこの部分だけ瓦礫ができていて大きい破片と小さい破片が入り乱れて散らかっている。
風華が重いんじゃない。あの怪物が人智を超えたパワーを持っているだけだ。
すぐに分かってしまうほど…目の前の怪物は遥かに人間を凌駕していた。
今日の昼頃まで雨が降っていたせいで側溝の中は泥が溜まっていて、風華には顔や制服が泥がついていた。
「辞めてっ!」
「風華は何も悪くないの!」
杏は怪物の目の前に立ちはだかる。
「うるせェ…」
「引っ込んでろやッ!」
だが最も簡単に杏を吹き飛ばされる。
ソフトボールの玉を振り回すほど簡単に。
杏は体育館まで吹き飛ばされ背中を強打し空に血を吹き出す。
「ガボォッ!」
「ハァハァハァ…」
着地する時に着いた左手を押さえる。
折れてはいないもののズキズキと痛みが広がりそれが毒の様に全身を駆ける。
普段ならこんな怪我すぐにでも忘れる事ができる。だが背中を打った事で痛覚が過剰に反応してしまっているのか、汗が吹き出してくる。
「お前ェの事なんてどうでもいい…」
「ただなァ…このガキを無茶苦茶にしてやりてェ…殺してェんだァ!」
「悪魔…が…」
「悪魔ァ?そんなチンケなもんじャねェ」
「俺は宇宙最強のヴェール族だァ…」
「どうだァ?驚いたかァ?」
自慢気に笑う怪物。
だがその"ヴェール族"というものを知らない。
いくらドヤ顔をされても知らないものは知らない。
「自分の持ってる能力を…」
「大きいと勘違いしてしまうのは…」
「人も…ヴェール族ってやつも同じなんだね…」
ピキピキ…と音がした様な気がする。
ヴェール族を名乗る怪物は頭にはち切れんばかりの血液を脳みそに集める。
頭に生えた立派なツノもそれに合わせて膨張していってる様に見える。
「お前ェ死ぬのが怖くねェよォだなァ」
「うるさい…口だな…」
風華は側溝から自力で這い上がる。
制服はもう使えものにならないほどボロボロだ。
「ハァ…ハァ…」
心臓が速くなっているのが自分でも分かる。
コンクリートの地面を伝って怪物にも届いているのだろうか…
立つのがやっとで動く事が出来ない。
それを分かっているのか怪物は空を飛ぶ鷹の様に呑気な顔で近づいてくる。
そして手の届く先に立つと…静かに拳を振り上げる。
「風華…っ!」
「風華に…触るなぁっ!」
突然杏が立ち上がる。その体は小刻みに震えていた。
立ち上がった杏は横腹を抑えながら、怪物の背後へ走り出す。
痛みによって体が思う様に動かず、その速度は速いとは言えるものではなかったが…
しかし…その目にはしっかりと無防備な背中を晒す怪物がいた。
ドンッ…!と背中と肩がぶつかる鈍い音が広がる。…怪物は体勢すら崩さず、杏の肩はヒリヒリと痛みが増していく。
「うるせェ…」
「ガキだなァッ!」
ひょいと杏の体は容易く持ち上げられる。
そして風華同様、近くの側溝へと軽く投げられる。だがその速度は目にも止まらない。
離れていく怪物の顔…にまだ痛い思いをしなきゃいけないという恐怖が頭によぎる。
「嫌ァっ!」
心のうちに抑えていた弱音が溢れ出る。
壁に激突してしまう…
「…っ!?」
だがその直前…
耳元で風の鳴る音が止まった。
恐る恐る後ろを振り返る
「…風華っ!?」
目を開くと風華の顔が見えて、その目は優しく微笑んでくれていた。
だがその体はその笑顔とは対照に血だらけで杏を庇った事によってさらに傷が深まっていた。
「答えがまだだよ…杏…」
「杏は…幸せ…?」
大量出血による途切れ途切れの言葉。
口からは真っ赤な血がツーと静かに流れる。
抑えきれない恐怖から涙が溢れる。いや…自分を助けようとしてくれているこの風華の優しさに涙を流しているのかも知れない。
その覚悟に揺れる心は一つに纏まる。
「…!ウチは幸せじゃないよ…」
「あいつにずっと怯えてたくない!」
「みんなに嘘つきたくないよ…!」
「好きな人とお付き合いしたいよ!」
「支配されたくない!自由になりたいよッ!」
か細くて弱々しい声。風に負けるような声。
だがそのたった一つの声が一人の青年の心のあちこちに火をつける。
風華は一回だけ笑みを浮かべて頷く。
そして杏をその場に優しく下ろす。
自分自身は血で見れない片目を閉じながら、怪物の前に立ちはだかる。
体格の差はほとんど2倍ある。明らかな絶望を前にしてるのは誰の目を通しても明らか…
だがその背中は恐怖や不安を微塵も感じさせない。
むしろ安心感すら与えてくれていた。
「悪ィなァ…」
「あいつの躾すッから」
「消えてくんねェかァ?」
威圧感に声が出たくないと縮こまる。
しかし杏の覚悟を目の前にした風華は自分を鼓舞する。
早くなる心臓…遅くなる時の中…
口から流れ出している血液が地面に落ちる。
「お前に…教えられるほど…」
「杏はバカじゃないぞ…」
「お前ェに何が分かるッてんだァ?」
「さぁ…?」
「少なくとも暴力でしか支配できないお前よりは…」
「分かってるつもりだ…!」
SNSのレスバにある安い挑発。
それに耐え切ることのできない怪物のは、ピキピキと血液が脳みそに回る。
俗に言う脳筋というやつなのだろう。
「口だけ達者のひよッこがァ…」
「杏…逃げろ…」
「ウチも一緒に!」
「杏はもう自由だよ…」
「でも…!」
「待ッとけよォ…」
「じっくり躾してやるからよォ…」
怪物の着ていたパツパツのTシャツは紙を破るかの様に容易く破く。
筋肉たちが踊っている様に見える。
はっきり言って気持ちが悪い。
それに加え大きな切り傷…傷の数は十個を数えても尽きないほどある。
呼吸をしているあたりこの怪物も生き物なんだと痛感させられる。
「ほら…アイツもあー言ってるし…」
「でも風華…!」
「俺は後で追いつくよ…」
「で…!」
「早くッ!」
今まで一度も聞いたことのない風華の怒った口調。いつもの風華とはまるで違う…。
だが愚直なほどに真面目で不器用な事は変わらない。
「振り向くなよ…!」
「うん…」
杏はその場に背を向けて走り出す。
自分を守ってくれた男への感謝が胸を満たす。
そしてこの感謝は涙となって流れ出る。
コンクリートの地面を蹴る音が聞こえる。
怪物の表情は以前変わらず…
風華は穴という穴から汗が吹き出す。
急りは見せてはならないもの…
しかしこの状況では机上の空論と化す。
「この地球は小せェからなァ…」
「逃げても逃げてもすぐに探し出せるんだよォ…」
「はぁはぁ…」
「冷凍…商品…ばっかだからかな…」
「血が足りないや…」
風華の弱音が小さくこだまする。
すると襲い掛かろうとしてきていた怪物は風華の目の前で立ち止まる。
「…ッフン!放っておいてもどうせ死ぬか…」
ポタポタと同じペースで流れ落ちる血を見た怪物は、まだ生きている風華に背を向ける。
絶対に殺せる相手を無視することは、生物として優位に立てる者しか出来ない行動。
怪物は口では「殺したい」とは言っていたが…実際のところは命が尽きるところがみたいだけなのだろう。
「背を向けたら…危ないよ…」
正気なんて宿ってない声。下がり気味の語尾。
…だがその声には少量の殺意が混じっていた。
怪物は慌てて振り返る。
…スパッ
鮮やかで生々しい音が耳元に侵入する。
そしてそれと同時にグラッと視界が揺れ、立てないほどの激痛が足に走る。
地面に着いた右膝の感覚が無い。
「ガ…ガキィッ!」
確認しなくても分かる…。
右足のアキレス腱が完全に切られている。
たかが人間が素手でアキレス腱を切れるわけが無い…と風華の片手を見る。
その手には風華が壁とぶつかった時にできたコンクリートの破片があり、鋭利に尖っていた。
「焦りは禁物…油断は大敵だ…」
「まぐれで…イキるんじャァねェッ!」
怪物の雄叫びが鼓膜に響き渡る。
血液が恐れを成して体外に放出され、風華の体からは血が湧き出る。
激しい痛みはないが注射を刺した瞬間の痛みが全身に残り続けている様な…そんな痛みが走る。
「グゥ…、ッ!」
吐き出しそうな痛みに悶える。
側溝に打ち付けられた時に肋骨が数本折れたのだろう…。今になって痛みがやってくる。
痛みに慣れていない風華の体は全身から汗を垂れ流し、この異常事態を解決させようとする。
だが所詮は人間の治癒能力…。成す術がない。
ついに風華は力無く両膝をつく。
意識はかろうじて残っている。
…がそれ以上でもそれ以下でもない。
「人間つゥのは無力だなァ…」
「一人では何もできない…」
「そんなん…俺が一番知ってる…ッ!」
怪物と風華の距離は遠かった。
もし風華が殴ったとしても鼻先にすら届かない。
だが怪物が殴ったとしたら風華はひとたまりもないだろう。
「お前ェ…肋骨が逝ってんなァ?」
「バ…バレてたかぁ…」
「素直なのは良いこッたァ…!」
怪物は目の前で両手を丸める。
それを風華のスカスカの脇腹に向かって放つ。
もちろんそれを止める為に腕を差し込む。
だがそれは悪手でしかなかった。
「んがッ!?…、!」
ボガッ…と硬いものが折れた音が耳に入る。
それと同時に激しい痛みがやってくる。
あの一撃で右腕が粉砕、残っていた肋骨は折られ、そしてその骨は内臓に突き刺さる。
体中を駆け巡る血は口へとやってくる。
「ブホォッ!オボォッ!」
赤黒い液体を地面に吐き出す。
目の前が真っ白になる。
…がそれも一瞬でまだ意識を保つ。
ただただ共感できない痛みを背負いながら、その痛みに耐えなければならない。
これが生き地獄なのだろう。
「オォイ!もう終わりかァ?」
怪物は片足だけで立ち上がる。
一本の足だけで体全体を支えながら痛みでボロボロの風華の元へと近づいてくる。
怖い…。逃げたい…。死にたくない…。
…だが逃げる力なんてない。
「オラよッとッ!」
足の甲に飛び乗られ、器用に踵だけで一部分だけを踏みつける。全体重の乗ったそれは足の甲の骨を簡単に粉砕し肉にまで突き刺さる。
「アァァァッ!」
ヌチャッと血が溢れ出す音が聞こえる。
気持ち悪い音に加えて味わったことのない痛み。
「うッせェ…」
アキレス腱が切れているはずの足での膝蹴り。
上顎が狙われて、上の前歯は全部中途半端に折られ、飛ばされた歯を飲み込み喉に突き刺さる。
喉からも血が流れるが….それを吐き出すことは出来ない。
「今の顔の方がエロいぜェ…」
怪物は涙を流す風華の口を塞ぐ。
吐き出そうとも出来ない血の波が風華の体の中を流れていることだろう。
鼻からは血が流れるがそれは鼻から出た血ではない。行き場を失った血の逃げ場が鼻だった。
「弱いのォ…」
それから数分間の風華に対する暴行は想像を絶するものだった。
人とヴェール族を名乗る怪物との圧倒的な違いは風華の死で簡単に見せつけられた。
風華の死体は学校近所の田んぼに捨てられた。
その周りには金持ちの池ほどの血溜まりが出来ていて、髪の毛や歯が辺りには散らかっていた。
「ちッ…男かよ…」
怪物は夕暮れに姿を消していく。




