別れた男
依頼人、嶌田ルナの指示で、10月下旬の金曜日午後新宿発のあずさのチケットを取り、私は一人で特急の車内に座った。ホームで依頼人を見かけることはなかったが、新宿駅に着いた時にLINEを送ると、すぐに「私も駅にいる」との返信があった。新幹線で出張する際は同僚とは離れた席に座る、彼女の勤務先にはそういうルールがあるらしい。その説明の後に「出張なんて行ったことないけど」と付け足すのを彼女は忘れなかった。依頼人と私は同僚ではないが、明日はまる一日を一緒に過ごす。一人の時間はお互いのため。予想通り、この時間のあずさは乗客より空気を運んでいるという表現が適切だ。
久々の特急に私はワクワクしたが、中央線沿いの非日常感ゼロの景色を前に私はすぐにうとうとし始め、八王子を過ぎたあたりで我に返った。市街地が終わってから八王子が立派な都会だったと気がついた。下から見上げるとおもちゃのようにグネグネと曲がった中央道のインターは線路のすぐ脇を通る。家並みが途切れ、曇天の下を強い風が舞っているのが窓ごしにわかる。私はスマホでウェザーニュースを見た。強風は今日だけで明日は穏やかな天気だ。強風の中で登山を強行しないですみほっとしたが、たいていの場合ほっとすると同時に、なんだ、とがっかりもする。「わかる」ということは「かかわる」ことだと聞いたことがあるが、処理しなければならない情報が多すぎるときは、関りもしないで分かった気になる必要がある。処理しなければいけない情報は今の私には皆無だ。強い風にあおられて嶌田ルナと二人でギャーギャー言いながら山を歩いたら、それはそれで楽しいかもしれない。強風の中で山を登るのがどういうことか、分かるチャンスを逸してしまった。
甲府駅にホームに電車は入り、私はリュックを背負った。ホームに立つと、一緒に買ったゴアテックスのウェアを来た依頼人がサングラスをかけてかったるそうに一つ後ろの車両から降りてきた。
私は小走りに彼女に近づいた。
「何が特急よね、こんなの普通の通勤電車と変わらないじゃない、中央線の景色見たって何もおもしろくないわ」
依頼人は毒を吐きたがっている。今の私のプライオリティはデトックスに付き合うこと。
「でも、ここまでくると旅をした感じしませんか? ホームに入るときに二両編成の電車に気づきました?」
「いいえ、…っていうか二両編成?」
「はい」
「甲府って山梨県の県庁所在地でしょう? 二両編成の電車が走ってるってどういうことよ?」
「地方都市はこれが普通です。甲府市の人口は20万人を割っています。山梨県全体でも81万人。23区で一番人口が少ないのは千代田区で6万人台。でも、昼間人口は90万人を超えています。つまり、山梨県全体の人口よりも、昼間丸の内や大手町の周辺で働いている人の方が多いんです、せっかくだから身延線見に行きますか? 少し歩きますけど」
「いらないわよ、あなたは鉄子ちゃん?」
「いえ、全然」
「じゃあ、自分の知識をひけらかしているだけ?」
「知識というほどでも…」
「じゃあ、今のは普通の人なら誰でも知ってる一般常識ってこと? それを知らない私は普通じゃないってことね?」
「そんなつもりは…」
「どうせ、私のこと面倒くさい女だと思ってるでしょう?」
「はい、思ってます」
「はっきり言ったわね?」
「はい、だって…」
「だって、何よ?」
「そんなこと思ってません、って否定したところで、嶌田さんの疑念は晴れませんよね? つまり私の否定の言葉は何の意味ももたないわけです、だったら肯定しちゃった方がいいじゃないですか? 嶌田さんもよけいな気を回さないですみますし」
「探偵というのは、面倒くさい人間のあしらいに慣れてるってわけね?」
「もう私が否定しないとわかったら言いたい放題ですね?」そう言って私はニコッと笑った。
「腹立つわ」そう言って、嶌田ルナも笑った。「前歩いてよ」
私は彼女を先導するように駅の改札に向かって歩き出した。
「私、少し横になるから先にお風呂行ってくれば」
チェックインを済ませると、嶌田ルナが言った。私は依頼人の言葉に甘えて露天風呂で体を伸ばし、しばらくシングルルームのベッドの上で何もせずぼうっと過ごし、約束の時間の5分前にダイニングに行った。嶌田ルナはすでに座っていた。フリースのパーカーとストレッチ素材のパンツという似たような服装の私たちの前に豪勢な料理が次々に運ばれてくる。心ここにあらずという感じの依頼人は、たまに口を開けば翌日の登山に対する不安が漏らし、半分程度しか食事に手を付けない。
「食べておかないと途中でエネルギー切れますよ、満腹で動けないくらいでちょうどいいと思います」私は、山好きの友人の受け売りで促したが、「私が動けなくなったらあなただって困るでしょう」と彼女は返す。このやりとりを二往復したところで、私は口を慎むことに決めた。
食事を済ませ、明日の集合時間を決めてそれぞれの部屋に戻り、久々にありついた豪華な食事で完全に食欲が満たされた私は、テレビをつけてベッドに大の字になると動けなくなった。テレビの会話が子守唄にしか聞こえなくなり、ベッドの上で両手を動かしてみたがリモコンにぶつかることもない。もう何でもいいや、と誰にも聞かれることのない言葉を口にして寝落ちの準備をしていたところに電話が鳴った。私は飛び起きてスマホを見た。依頼人から。
「はい、どうしました?」私はすぐに仕事のモードになった。
「部屋に来てくれる?」
「大丈夫ですか?」
「いいから、すぐに来て」
私は電話を切った10秒後にはエレベータのボタンを押していた。着替えもせずベッドに大の字になっていた自分の怠惰さをこの時ばかりは褒めて、1フロア上の依頼人の部屋のドアをノックした。
「いらっしゃい」ドアを開けると、嶌田ルナはワイングラスを片手に微笑んだ。恰好もダイニングで会った時のまま。
「どういうことですか?」
「ワイン頼んじゃった、これから付き合ってよ」
「でも、明日早起きして登山ですよ」
「大丈夫よ、70近かった父が登れたのだから、それに夏子さんに話を聞いてほしいのよ」
さっきと言ってることが違う、などといちいち気にしていたらこの仕事は務まらない。「この前十分お聞きしましたけど…」私は別の言葉で不満を表現した。
「何言ってるのよ、私はあなたよりずっと長く生きてるのよ、話すことがたくさんあって当然じゃない、探偵は依頼人のために働くものでしょう? 違うの?」
「違いません」
「とにかく入ってよ」彼女は私を先導した。ワインとワイングラス以外、部屋は使われた形跡がないように見える。私は椅子に座り、彼女は私のグラスにワインを注ぐとベッドの縁に座った。両足は床につけたまま。
「乾杯」依頼人は楽しそうに言った。
「いただきます」私は言った。
「ノリ悪い、乾杯っていいなさい」
「じゃあ、乾杯」
「じゃあはいらない、飲みなさい」
私は赤ワインを口に含んだ。「わあ」思わず声が漏れる。想像より軽く飲みやすい。
「美味しいでしょう?」
「はい」
「あなたは普段何て呼ばれてるの?」
「誰からですか?」
「誰からでもいいわよ」
「フルネームの呼び捨てが多いです」
「冬春夏子って?」
「はい、冗談みたいな名前だからでしょうね」
「誰がつけたの?」
「父です、『飽き』が来ないように秋を抜いて夏子って名前にしてみたいですよ、夏に生まれたわけでもないのに」
「ユーモアのあるお父さまね?」
「そうは思えません」
「穏やかじゃないわね、別にあなたの名前をどうのこうのいうつもりはないの、ただ、…あなたはきっと名前には敏感なんだろうなって…」
私は何も言わず、わざと表情も抑え、彼女の目をじっと見た。
「私の名前、変な名前だと思ったでしょう?」
私は何の反応もせずに嶌田ルナの目を見つめていた。
「ルナティックのルナ、気狂い女だと思ったでしょう?」
「まあ、名前っていろいろありますから」
「やっぱり気づいてたのね?」
「ルナは空の月、月は綺麗だから人の気を狂わす、だからルナから派生したルナティックという言葉が気違いを表す、月に罪はありません、ご両親はかわいい名前をつけたかっただけじゃないですか? 私の親のような悪意はないと思います」
「ものはいいようね」
「ルナさん、もしかして18日生まれですか?」
「そうだけど、どうして?」
「タロットカードの18は月を表します」
「初めて聞いたわ、ただの偶然だと思うわ」
「真意なんて誰にもわかりませんから、…医学部に通っていた男の友人がいました。彼は『亜美』という名前の女を好きになりました。そこでこう愛の告白をしたんです。『医療用語でAMIっていえば、acute myocardial infarction、つまり急性心筋梗塞の略なんだよ。娘にそんな名前をつけるなんて無知とは言えひどい父親だよ、僕は死ぬまで君を守り続けるよ』その刹那に彼はフラれました、彼は大まじめにそう言ったんですよ」
「その例えには私はどうつっこめばいいのかしら?」
「すいません、私の頭の中ではつながるんです」
「まあいいわよ、私の頭の中でもつながったから、…医学部に通っていたってことはいまはお医者さんなんでしょう?」
「はい」
「医者ねえ、…ねえ、今からあなたを夏子さんと呼ぶわ、フルネームはやめておくわ、長くて面倒だから、いい?」
「はい」
「私のことはルナさんでいいわ、ルナティックのルナっていちいち思わなくていいから」
「私もそんな面倒なことはしません」
「いいわ、じゃあ、夏子さん、贅沢な旅をしたことある?」
「あるように見えますか?」
「全然、…ねえ、もしかしたらあなたお金に困ったりしてない? 富士山登った時ウェア一式貸してもらったと言ったでしょう?」
「友人たちからは貧乏だと思われてます」
「思われてるって、…貧乏のふりをしてるってこと?」
「べつにふりなんかしてないです、父は私が小学生の頃ひとりで競馬に出掛けて、旅館の風呂場で溺死しました。ギャンブルの借金を苦にした自殺だと私はずっと信じています、父が死んで貧乏な母子家庭生活が始まったのは事実です」
「苦労したのね?」
「いえ、たいしたことないです」
「もう少し自分のこと話してもいいんじゃない? 他人の身の上話を引き出すには自分の話をするものじゃない?」
「わかりました、それじゃあ今の続きを話します、貧乏だったけど苦労はしていないというのは本当です、貧乏に対する耐性がついてよかったと思っています、こんなこと言っていられるのは叔父のおかげなんですけどね、叔父はある企業の創業メンバーの一人で、私が小学6年生の時にその会社が上場したんです、叔父は母と私の生活を見てくれて、そこからはお金の苦労もないまま育ちました、大学の友人なんてお金に苦労したことのない人ばかり、私は確信したんです、自分にお金がなくても、お金持ちの知り合いがいれば、お金で買えるものは手に入る可能性がある、それにお金を持っている人たちは忙しいから、私のようなヒマと好奇心だけはたっぷりとある人間は使いようなんです」
「ずいぶんと図に乗ってるのね?」
「いいえ、私の稼業なんて吹けば飛ぶような脆いもので、来年の今頃、私が今の仕事を続けられている保証はないって、いつも自分に言い聞かせてます、だから贅沢な旅をする余裕なんてありません」
「でも、したいとも思わないでしょう?」
「あまりに縁がなくて考えたこともないです」
「私、ななつ星に乗ったことがあるわ」
「あの九州の豪華列車ですか? すごい!」
「3泊4日、二人で300万以上したわ」
「そんなにするんですか?」
「そうよ、あんなに贅沢で、あんなに惨めな旅ってないわ」
私は言葉を継ぐ代わりに、彼女の空いたグラスにワインを注いだ。
「シブキ・ミチルって知ってる?」
「いえ」
「これよ」彼女は私にスマホの写真を見せた。短髪で金髪の男が、腕を曲げて上腕二頭筋を誇示している。
「プロレスラー?」私の口から自然と言葉が出た。
「そう、正確には元プロレスラー、もう引退した、私はこの人とななつ星に乗った」
「まだ最近の話ですか?」
「そう…、私は自分がまともな恋愛ができるはずだと思ってたわ、でも私みたいにたいして優秀でもない普通のOLが弁護士の一人娘だとどういうことになるかわかる? 優秀な父親と較べられるのは嫌だ敬遠されるか、逆にいざとなれば会社辞めても食べていけるんじゃないかとあてにされるか、つきあっみてみたらそんな気概のない人たちばかりよ、だから私はよけいに夢を見させてくれる人に憧れたのかもしれない、プロレスにハマったのよ、推しはシブキ・ミチル、まだトップレスラーとは力の差があったけど、強い相手にひたむきに向かっていくところがカッコよかった、彼のファンクラブに入って顔と名前を覚えてもらってSNSでもつながった、シブキ・ミチルに試合を見てると没入しちゃうの、勝てば一緒に喜んで、負ければ一緒に涙を流して、やられれば自分も痛いし、技が決まれば自分もすっきりする、今まで付き合った人たちとは一緒に笑ったり泣いたりしたことなんて一度もなかった、試合が終わって何日か経つと反動が来るのよ、私はこのまままともな恋愛ができないまま年を取るのかもしれない、いつも葛藤に悩まされた、だからのんきな母が余計に許せなかったのよ、心から羨ましい死に方だと思ったわ、…彼は、シブキ・ミチルは試合でけがをしてしばらく休んだの、でもそこから復帰できなくて所属団体を辞めることになったの、私は彼を支えようって決めたのよ、だって私は彼の試合を見ることが一番の楽しみだったから、彼の試合を見ることが私の生き甲斐だった、だから彼のためにお金を使いたかったのよ、彼の子供の頃の夢は電車の運転手だったの、SNSにそう書いてあった、ななつ星の乗ろうと誘えば一緒に来てくれると思ったの、電車が走っている間ずっと一緒にいられる、夢のような時間だと思ったの、だから少しだけ嘘をついた、母と二人で旅するはずだったのだけど、母が亡くなってしまった、1人部屋を2室予約してお金も払ってあるからいかがですか、って、これなら断らないだろうと思った、彼がOKしてくれたとき、私は母に勝ったと思ったわ、台湾まで推しを追いかけたところで、相手の男は母のことを知らない、私は二人で旅ができるのよ、もしかしたら旅をしている間に深い関係になれるかもって期待もしたわ、でもそうはならなかった、だって彼は私と同じことを考えていたから」
嶌田ルナは「わかる?」と言いたげな表情で私の顔を見た。私は彼女の目を見たまま首を横に振った。
「ななつ星の前で私は言ったの、遠慮しなくていい、好きなだけはしゃいでって、彼は私の言う通りにしてくれたわ、1日目はそんな感じで夢のように過ぎた、夜は個室で彼が来てくれるのを期待して待っていたけど何も起こらなかった、その時はじらされるのを楽しんでいる気分だったのよ、喜びを少しずつ味わいたい気持ち、わかるでしょう? あの時間が私の人生で一番幸せな時間だったかもしれない、翌日、彼はすごく無邪気な感じで言ったわ、プロレスラーになってよかった、ならなければこんな体験は一生できなかったって、私も言ったわ、あなたがプロレスラーになってくれてよかった、ケガを直してまたリングで戦う姿を見せてほしいって、彼は天使のように微笑んだ、そして言ったわ、僕のケガはスポーツ選手としては致命的なんです、でも何の後悔もありません、僕は今までずっと応援してくれる人に支えられて生きてきました、だからこれから僕が誰かを支えて生きて行こうと思います、私は思わず訊いた、結婚するんですか? 彼は笑って答えた、いえ、そんな人がいたら今回のお誘いはお断りしてますよ、でもプロレスラーはやめるの? はい、引退します、つまりね、私の人生の一番の喜びがこの瞬間に消えてしまったのよ、そして彼もまた私と一緒では満たされることはないの、だって私は彼の支えを必要とするような仕事をしてるわけじゃないから、もし夏子さんみたいに探偵でもやっていたら元プロレスラーに支えられることもあったかもしれないけど、私は惨めだった、しかも二泊目は旅館泊だったのよ、誰もが羨ましがるような高級旅館で、誰もが羨ましがるような豪華な料理を食べながら、私は世の中の誰よりも惨めだったわ、…その後のことはよく覚えてない。彼とは博多駅で別れたはずだけど、私には流す涙さえなく、帰りの飛行機の中で、このまま墜落してほしいって願ってた、でも飛行機は簡単には墜落してくれない、羽田に着いて、私はまっすぐ家に帰る気にならず、展望スペースに行って飛行機を眺めてたの、もう死んじゃおうって思いながら、私は何かあるたびにちょこちょこ病院にかかって、眠れないといっては睡眠薬をもらっていた。その睡眠薬はずっと手を付けずにいた、一錠も。だって睡眠薬って耐性がつくって言うでしょう? 飲み始めたら体が慣れてしまって、両方を増やさないと効かなくなるって、それが嫌で本当に必要なときまで取っておこうと決めていた、その睡眠薬をシブキ・ミチルとの旅行に持って行ったの、興奮して眠れなくなるか、あるいは嬉しくて死んでもいいと思うか? その時に手元になかったから後悔すると思って全部持って行った、羽田で飛行機を眺めているときに、もう何も思い出したくなったのに、もうこのまま死んじゃいたいって思ったら、睡眠薬のことが浮かんだの。私はキャリーケースからピルケースを出して、それを右手に持ったまま、飛行機とピルケースの中の睡眠薬を交互に見ていたの。よほど不審な動きに見えたのでしょうね。私を見ていてくれた人がいた、その人に声をかけられたの。
『そこにある睡眠薬全部飲んだら起きるのが辛くなるでしょうね、僕、医者だからよくわかります』
彼はそう言って笑った、私は言葉が出なくて、つられて笑ってしまった。
『時間があればコーヒーでもどうですか?』彼はそう言って誘ってきた。私は思ったわ、これがいわゆるロマンス詐欺だわって。このあと彼がどんなことを言ってくるのか想像した、開業したいけどお金が足りないとか、医療ミスで訴えられてるとか、それを想像をしているうちに、医者のふりをして私を騙そうとする人間がいるということは、私には生きる価値があるのかもしれない、なんて考えてしまったわけ、つまり死ぬ気が失せたの、だから私は好奇心から彼についていった、ところが、彼は正真正銘の医者だったわ、弓張武志、私の婚約者」嶌田ルナはここでやっと一息を入れた。
「ドラマティックな出会いですね」
「本当にそう思ってるの?」
「はい、僭越ですが偏見を持つのは大切なことだと思います、裏切られたときの印象が鮮烈になりますから」
「そうね、そうかも」嶌田ルナは満足そうに微笑んだ。「本当に自然だったのよ、付き合ったのも、婚約したのも、結婚っていうのは時期が来ればできるものだと初めて思ったわ、彼は私の家に挨拶に来て、お嬢さんを私にくださいって言ってくれたわ、父は喜んでくれてね、酔っぱらって上機嫌で、あの時は自分の幸せよりも親孝行ができてよかったと思ったわ、ところが翌日から連絡がなくなった、仕事がよほど忙しいのか、あるいは何かサプライズでも用意してくれてるかもしれないとも思ったわ、それでも心配になって金曜日に病院に電話してみたのよ、そうしたら彼はすでに病院を辞めていたの、新しい勤務先を訊いても知らないの一点張りだった、もちろん家にも行ったけどいる気配がない。彼の部屋のドアの前で途方に暮れていたら、メッセージが来たのよ、ごめん、もう会えないって…」
嶌田ルナの口から次の言葉が出てこない。私は黙って待った。
嶌田ルナは掻きあげて言った。「これで全部よ」
「え? 彼はいまどこに?」
「知らないわ、調べてない」
「どうしてですか?」
「死亡記事が見つかったら嫌だから」
「飛躍しすぎじゃないですか?」
「この話はおしまい、夏子さん、ちゃんと飲みなさいよ、このワイン安くないのよ」嶌田ルナは私のグラスにワインを注ぐ。透明なグラスが真っ赤に染まった。
私たちはなぜかお互いに気を許し大いに酔っぱらったが、まだ9時前だった。
嶌田ルナは外の空気に当たりたいと言い出し。私たちは部屋を出てエレベータに乗った・
エレベータの中一面は倉庫を思わせるくすんだ銀色で、床には私たちの姿が歪んで映っている。スカートをはいていたら下着が映りそうだ。
「悪趣味ね」嶌田ルナが床を覗き込むように言った。私は思わず吹き出してしまった。
「何よ?」怪訝そうに彼女が訊く。
「すいません」私は笑いながら頭を下げた。「推理小説の一節を想い出してしまいました。『床に映った逆さまの女は、銀の蒸気を吹き付けた模様のように見えた』ウィリアム・アイリッシュの幻の『幻の女』に出てくるんですけど、どういう情景なのかずっと想像できずにいました。今のルナさんの姿を見てよくわかりました」
「その本、有名なの?」
「1942年に書かれたミステリーの古典的傑作です。妻殺しの容疑で死刑を宣告された男の恋人が、幻の女を探して真犯人を突き止める話です」
「不倫がハッピーエンドで終るってこと? 今の時代アウトじゃない?」
「そうでしょうか? 不幸な結婚はいつの時代にもあると思います」
「不幸な結婚は終わらせるべき? そうかもしれないわね、不幸な結婚をするくらいなら婚約破棄された方が傷は浅かったかもしれないわね、酔っぱらってるから大目に見てあげるけど、夏子さん、けっこう変な人ね、酔っぱらうと笑い上戸になるの?」
「そうみたいです」
「酔っぱらった時のあなたの笑い方は、ちょっと怖いわ」
「そうですか?」
「そうよ、気を付けなさい」
「友人に言われたことがあります、おまえの笑い方は自殺を思いとどまった人間が、生きていてよかったと感じるときの笑い方みたいだって」
「その友達は自殺を思いとどまったことがあるってことね?」
「どうでしょう? おまえの境遇ならオレは死んでいたよ、とは言われましたけど…」探偵の周りには死にたい人間と、誰かを殺したい人間が集まる、そうじゃないと物語が始まらない…、私は酔った勢いで口から出かけた言葉を引っ込めた。自殺を踏みとどまったという告白をした直後の依頼人に言うことではないし、そもそも一度くらい死にたいと思うのは特別なことなのか、“普通”のことなのかよくわからない。よくわからないから、私は笑って見せた。
「また笑ってる」そう言った嶌田ルナもつられて笑ったが、私たちが笑えたのはここまでだ。建物の外に出ると、冷たい風の舞う盆地の気温は怖ろしく低く、私たちの酔いは一気に醒め、部屋に退散するしかなかった。