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再会

色違いで買ったHOKAの厚底のトレイルシューズのクッションに感動し、「普段履きしようかしら、これなら永遠に歩いていられそうだわ」と軽口をたたき、スキップをするように山路を進んでいた1時間前の嶌田(しまだ)ルナはもういない。私の数歩後ろでゼーゼーと荒い息を立てながら、依頼人は両手を使って急斜面の木の根を乗り越えている。「このペースでは持ちませんよ、もっとゆっくり行きましょう」と私は何度か忠告をしたが、結局はハイスペックなシューズのおかげでオーバーペースになってしまったのだ。

「もう無理、一人で行って」ついに泣き言が入った。辛いのはわかるが、立っているのがやっとの急斜面では休むこともできない。

「ここじゃ休めませんよ、せめて平らな場所に出るまで頑張ってください」

「動けないのよ、だいたい今の時代が『頑張れ』っていうのはハラスメントよ」

「無駄口叩くとよけいに酸素消費しますよ、私ちょっと上を見てきますから、とりあえずその太い木につかまっていてください」

「私を置いていくの? 人でなし」

「すぐに戻ります」

「ちょっと…」

久々に土と木と緑を見たせいで高ぶった私の心は、依頼人のお世話という仕事のせいでもやもやとよじれた。いまは少しだけ解放されて、土の中から幾重にも盛り上がる太い木の根を大股でよじ登っていく。空は相変わらず木々の隙間からわずかばかりの顔を見せてくれるだけ。私は無心で歩を進めた。突然、樹林帯の途中にわずかながらの平らな場所が現れる。視界はまったく開けていないが、ここなら地面に座って休むことができる。

とりあえずはよかった。

登ってきた斜面を振り返っても、依頼人の姿は見えない。かなり登ったのだ。降りてもう一度登るのは意外としんどいかもしれないが、これも仕事。左右の木の幹につかまりながら慎重に斜面を下った。すぐに嶌田ルナのパープルのリュックが目に入る。彼女はリュックを背負ったまま、斜面から滑り落ちないように、太い木に上側から体を預けている。ほかに取れるポーズがないのだ。とにかくこの上の平らな場所まで登らせて休ませないと。まだ登るわけ? と私を捌け口にするだけの元気が残っていることを祈るしかない。祈る、などと普段は使わない言葉が浮かんだことで、私は吹き出しそうになった。信仰の山の雰囲気に自分が染まりつつある。

反応するのもしんどいだろうと、依頼人に声をかけるは控えて、私は木の根をまたいだ。

私の足音は彼女の耳に届いているはずだが、振り返る素振りも見せない。下り斜面なので距離はあっという間につまる。やがて彼女がハー、ハーと息を吐いている音が私の耳に届く。

「ルナさん、大丈夫でしたか?」私は声をかけた。

「大丈夫なわけないじゃない」依頼人は大木に体を預けたまま答える。

「声はさっきより元気です、…この上の平らな場所で休憩しましょう」

「この上って、けっこう時間かかったじゃない?」

「そうですか?」

「そうよ」

「体を動かせば時間は早く過ぎます、行きましょうか?」

「何よ、それ、相対性理論?」

彼女はゆっくりと体を180度回転させ、進行方向の斜面を見上げて、深いため息をついた。

「来なければよかった」

「記憶天使に会わずに帰りますか?」私は意地悪く行った。

「行けばいいんでしょう」彼女は私を睨み、口を閉じた。


どうにか平らな場所までたどり着くと、私たちはリュックを降ろして地面に座った。

私はゆっくりとペットボトルに三度口をつけたが、彼女は一口飲んだだけでペットボトルを膝の前で両手でつかんだまま、うつむいて動かなくなった。

サングラスをかけた三人の女が視界に現れた。私はまったく気配に気がつかなかった。彼女たちのあげる物音で、嶌田ルナも顔を上げた。

三人のうちの二人はいかにも山ガールの格好だが、残りの一人はまるでドレスのような鮮やかなブルーの長袖のワンピースを着て足元は素足にワラーチ、リュックさえ背負っていない。山ガールの一人は、華奢な体に不釣り合いな大きくて迷彩色のリュックを背負っていた。70リットルと書いてある。もう一人の山ガールのリュックは30リットル、色は青。彼女だけが普通っぽく、他の二人は明らかにただものではない。

「ここ、まだ半分を超えたくらいっすよ、引き返した方がいいんじゃないっすか? 動けなくなったら迷惑なんすよ、助けないわけにもいかないし」

まともに見えた女が、まともではない言葉を吐いた。サングラスを上げると、西洋人のような彫りの深い顔立ち。明らかに私よりもこみいった造りの両眼が私たちに刺すような視線をつきつける。私だけに向けられているなら、面倒くさいので「ごめんなさい」と形だけの言葉を口にするのが手っ取り早い。でも、彼女は私と嶌田ルナを交互に見ている。依頼人を悪者にするわけにはいかない。私は睨み返した。

六花(りっか)、意地悪なこと言うもんじゃないわ、ごめんなさいね」今度はドレスの女がサングラスを上げて言った。顔は30リットルのリュックの女そっくりだが声が違う。二人とも見た目はクルアンビンのベーシスト、ローラ・リーのようにスカしているが、ドレスの女はアニメ声だ。

「山を楽に上る方法教えましょうか? 知りたい?」アニメ声の女は言葉を継いだ。

私と嶌田ルナは顔を見合わせて頷いた。

「ゆっくり走るから疲れるの、山は走って登った方が楽よ、だって早く終わるもの、休憩は頂上についてからでいいのよ」

ドレスの女は別の生き物のように飛ぶように斜面を駆け上り、あっという間に10メートルほど高い場所から私たちを見下ろして手招きをする。

私は両手を横にして、首を左右に振った。とてもあんな真似はできない。

30リットルのリュックの女は私の前に立つと、私のポーズを真似て幼稚な嘲笑を浮かべた。ああ、つっかかるのが好きなだけか。私は納得し、余裕をかますことに決め、彼女に微笑みを返した。

「二人とも悪い子じゃないんですけど、六花は口の利き方を知らない、七海(ななみ)は身体能力が尋常じゃない、…あら、お二人のおそろいのリュックかわいいですね、私センスがないからそういうの見つけられないんです、羨ましい」

70リットルのリュックの女はサングラスを外さない。口元は微笑んでいた。目元が見えないから推測するしかないが、他の二人と年齢は大して変わらないだろう。私と同じくらいか。でも口調が妙に落ち着いている。お姉さんか、お母さんという感じだ。

「あの子の荷物も背負ってるからこの大きさになっちゃうのよ、私はいつも損な役回り、でもなぜか本人には言えないのよ」

三人が立ち去ると後には静寂が残る。私は依頼人に声をかけた。

「ルナさん、少し眠りませんか?」

「眠る?」

「はい、横になって少しだけ眠りましょう、全然違いますから」

「少しってどれくらい?」

「3分にしましょう」

「意味ある?」

「騙されたと思って言うこと聞いてください、私寝ますルナさんも絶対に眠ってください」

私は地面に横になると、依頼人も従った。私はスマホのアラームをセットし、「おやすみなさい」と言葉を発すると目を閉じ、依頼人が目を閉じたかを確認することもなく眠りに落ちた。

3分後にアラームで目覚めた。体を起こす前に横を向くと、依頼人と目が合った。

「いかがです?」私は訊いた。

依頼人は上体を起こして半信半疑の表情で私を見た。「なんか、すっきりしたかも」

「じゃあ、いきましょうか」私たちは立ち上がり、リュックを背負って歩き出した。

直登のトレイルが、やがて緩やかなつづら折りに変化した。嶌田ルナは私を追い越していく。彼女の足取りは明らかに軽い。

「ペース上げ過ぎないでくださいね」私は背中から声をかけた。

依頼人は立ち止まって振り返る余裕を見せて「はいはい、わかりました」と笑った。

いつの間にか広い空が見えるようになった。

30分ほど登り続けると傾斜がほとんどなくなり、道は平らになった。トレイルが広くなり、両側に木のベンチが並ぶ休憩スペースに差し掛かった。

夏子(なつこ)さん、大丈夫?」依頼人が訊く。

「もちろんです」私は答えた。

「調子もいいし、休まず行きましょうよ」

「わかりました」

道はまた登りになるが、嶌田ルナの泣きが入った一時間ほど前の急峻さには程遠い。依頼人の足は快調に動いている。そのまま20分も行くと樹林帯が終わり急に視界が開けた。200メートルほど前方に、山伏の格好をした十人ほどの集団が、杖を手にゆっくりと斜面を登る姿が目に入った。

「何あれ? コスプレ?」嶌田ルナが訊いた。

「修験道の装束ですね、ここは信仰の山ですね」

「大変でしょうに、こんなに軽くて機能性もあるウェアがあるのに古いものにしがみつこうなんて意味が分からないわ」

「お父さまもあれに参加されたんじゃないですか?」

「え?」

六根清浄(ろっこんしょうじょう)って唱えながら古に思いをはせて、というのじゃなさそうです、よく見てください、足取りが重い、病気を持った人たちが願掛けのために登ってるんじゃないでしょうか?」

「父はこんなことをして病気が治るとでも思ったわけ? 不合理すぎるわ、まあ合理的な宗教なんてあるわけないか」

「ですね」

「…ああ、一つ思い出したわ、高校の頃に東大へ行くと宣言していた同じクラスの男子がいたのよ、彼が高校三年の時に富士山に登ったの、富士山の頂上に立てれば東大にも入れるってね、富士山には登れたみたいなんだけど東大は落ちた、彼は言ってたわ、あの二日間勉強すればよかったって、当たり前よね? 山に登れれば何かを達成できるなんておかしいわよ」

「そうですね、富士山に登る人は年間20万人以上、東大に合格するのは3000人、難易度は東大の方が圧倒的に高いです」

「そうよね」依頼人の声に力が入る。

「ルナさん、ペース上がってますよ」私はたしなめるように言った。

「不合理な人たち見てたら腹が立ってきた」

嶌田ルナはペースをあげて前との距離を詰めていく。前の集団は何度か視界から消えたが、再び現れるたびに距離が縮まる。

やがて声が届くようになった。

「苦しくなったら遠慮せずに手をあげてくださいね、もうダメと思う前に休憩しますからね」

おそらく最後列を歩いている男が、前の集団に向かって叫んでいる。艶のあるよく通る声だった。脱落した人を拾う、スイーパーの役目をしているのだろう。

突然、嶌田ルナが斜面を駆け上がる。両腕を力強く振って馬力をかけて上っていく。先ほど私たちを追い越したドレスの女のしなやかさとは程遠い動きで前の集団に近づいていく。

「待ってください」私も走って追いかけたが距離が詰まらない。前を行く人間の息遣いは聞こえないものだが、彼女のハーハーという荒い息が私の耳に届く。尋常じゃない。ルナティックだ。

最後尾を歩いていた男が振り返り、嶌田ルナと私の姿を確認すると、また前を向いて大きな声をあげた。「後ろからハイカーさんが二人通ります。右に寄って止まってください」

10人ほどの山伏の列が一斉にこちらを振り返った。遠目でよくわからないが、最後列の男を除くと、みな動きが緩慢で年齢がいっているように見える。男も女もいる。私たちふたりの存在を確認すると、また全員が前を向いた。

最後尾の男だけが私の依頼人を目で追っていた。彼女は男の前で歩を止め、彼の肩に手をかけ顔を上げた。

武志(たけし)」嶌田ルナの口から婚約者の名前が絞り出され、そしてハーハーと荒い呼吸が続いた。

「ルナ…」別れた婚約者と再会した男は言葉を詰まらせた。私は探偵なのに語彙力に乏しい。眼鏡をかけている以外のその男の特徴を描写できない。それくらいありふれた顔だった。彼は両手を前に出してちょっと待って、という仕草をすると、前を向き「先に行ってください、すぐにおいつきます」と指示を出した。先頭を歩く大きな籠を背負った男が、振り向いて手をあげ、「行きましょう」と隊列に声をかけ、山伏の集団はゆっくりと離れて行った。

「大丈夫?」男は婚約者に行った。

「あれ、むなしうす教団の人たちでしょう?」ルナの質問に男は答えない。「あなたもむなしうす教団の関係者なの?」婚約者は質問を重ねる。

「どうしてここに?」質問に答える代わりに男が訊いた。

「記憶天使に会いに来た」

「え!」

「知ってるの?」

男は何と答えたらよいのか…、という表情を見せる。

「知ってるんでしょう?」女は食い下がる。

「ルナ、君はもう会ってるよ」

「え?」

「三人組の女の子に追い越されたでしょう? 八文字六花(やつもんじりっか)、七海、八重(やえ)、あの三人が記憶天使」男の言葉を訊いて私は驚愕した。八文字八重という名前は、実在するはずがないと思って私がネットに書き込んだ名前だ、

「あなたグルだったの?」嶌田ルナが私を睨みつけた。

私は状況が理解できないまま、首を横に振った。

「どういうこと?」男が訊いた。彼も状況を理解できない。

「記憶天使の八文字八重って、彼女がSNSに書きこんだのよ」嶌田ルナは恋人にすがるような口調で言った。

「この人は?」

「探偵さん、ここに一緒に来てもらった」

「へえ、…それで、書き込みはいつ?」

「一週間ほど前よ」

「ああ、そういうことか、…三人は突然名前を変えたんだ、きっと君の書き込みを見たから…」男は私の顔を見て言った。「君が名付け親ってことだよ」

「何言ってるのよ、全然わからない」彼女は婚約者に説明を求める。

「まあ、一度後ろを見てごらんよ」

後を振り返った嶌田ルカの表情が驚きで染まった。私も後ろを見た。思わず「わあ」という感嘆詞が漏れた。

自分たちの足で登ってきた緑の稜線は波のようにうねり、右手はところどころ赤く染まっている。肩のあたりに雲を従えた富士山が青い空を背景に近くに聳えていた。

自然の素晴らしさと、男の余裕のある口調、そして私たちの単純さが三位一体となって奇跡の一瞬を作り出していた。

「ねえ、記憶天使の三人との会話を覚えてる?」男は私たちの背中越しに質問をした。「一人目は気に障るようなことを言わなかった?」

ルナは男の顔を見て頷いた。

「二人目は、上から目線で正論を述べた、違う?」

彼女はもう一度首を縦に振った。

「三人目には、多少なりとも共感できただろう?」

「そうね」

「つまり、一人目の言葉は相手の心を傷つける、二人目は相手に無力さを思い知らせる、最後の三人目が共感するように相手の些細な部分を褒める、それが彼女たちのやり方、三人はグルになって人の心に入り込む…」

「ちょっと待ってください」私は婚約者だった二人の視線の間に割って入り、会話を遮った。

「話をしてくれるなら、身の安全を保障してもらえませんか?」

「何よ、急に」依頼人は背中越しに訊く。

「知り過ぎてしまったばかりに、かつての婚約者の記憶を書き換えるとか、生きて帰さないとかは困るんです、」

「面白いこというね、探偵さんは」

「面白いことを言ってるつもりはありません、ここからの会話を同僚に聞かせます」私はウインドブレーカーのポケットの中のスマホを握りしめ、元同僚の八幡透はちまんとおるの顔を思い浮かべながら、依頼人の婚約者をじっと見つめた。

「残念だけど、ここは電波入らないよ、画面見てごらんよ」

「うそ…」私は言う通りにした。確かに圏外だ。

「ね? 記憶天使は確かに人の記憶を書き換えられる、でもね、それは相手が記憶を書き換えてほしいと望んでいるからだよ、あったことをなかったことにしてほしいって願う人間がいるから叶える人間が必要になる…、特定の宗教を批判するなんてバカげてるよ、ありもしない奇跡を願う人はどんな宗教の信者にだってなれる、結局は需要があるってことさ、だから彼女たちは記憶天使でいられる」

「いられる、ってどういうことですか?」

「彼女たちは記憶天使を演じてるだけだよ、…安心してくれて大丈夫、知られたら困ることなんて何一つない」男は私から視線を離し、私の後ろにいる元婚約者を見て言った。「…ルナにもう一度会えた、言えなかったことも全部話すよ、聞いてほしいんだ、…ねえ、あと少しだけ登ると腰を下ろせる場所がある、そこまで登ろうよ」男の声は穏やかだった。

「まさか、そこから突き落とすつもりじゃないですよね?」私はまた割り込んだ。

「夏子さん、大丈夫よ」私の後ろから嶌田ルナがきっぱりと言った。「この人は隠し事はするけど、嘘はつかない人だから」

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