8,来訪者に捧ぐ旋律
次の更新は二週間後だ!
ほんとすいません。流石に忙しいか。
足音が、乾いた空気の中に落ちる。石畳を叩くそれは点線となって細い道を通り過ぎ大通りへ向かっていく。
「なんだかぐっと疲れたね。帰って甘いものでも食べようか。」
僕は大きく伸びをしながら横目で周囲を見やった。時刻は昼前。遠くで人の喧騒が聞こえ、並び立つショーウィンドウが無関心に光っていた。路頭に立つ行商本屋が声を張って何やら人を呼び込んでいる。
「いいな、それ。持論だが、スコーンにはラズベリーのジャムとクリームが最もうまい。今度、美味しい店を紹介するよ。」
隣を歩くジルは心なしか楽しそうで口元が緩んでいる。
ふと、香ばしい匂いに足を止めた。バターと小麦の匂い。視線を巡らせれば一軒のパン屋が、軽やかな焼きたての香を伴って僕らを出迎えた。ガラス越しに所狭しと並んだパンが微妙な凹凸をつけて影を描いている。傾いた看板と薄れた文字が妙な雰囲気を醸し出していた。ポツリ置かれた天秤が寒風に磨かれて冷たく輝いている。
何故だろう、僕はこの配列に酷く既視感を覚えた。僕はこの店に来たことがないはずだ。一瞬だけ、指に針が刺さった時のような鋭い痛みが頭を駆け抜けた。それと同時にぼんやりとした違和感。何か、何かが違うのだ。些細な、しかし決定的に。僕は軽く頭を振って、彼を見た。僕の視線に気付いた彼は僕を見返して少し目を細める。
「どうかしたのか?」
その姿は確かにここにあるはずなのに、とても危うげで実感なく存在しているように思えた。
変な感じだ。僕はその違和感を誤魔化すように少し笑って言った。
「ジャケットに糸くずついてるよ。取るから動かないで。」
半歩分前進してジルに近づく。手を伸ばせば届く距離。長身の影がうっすら日影を作っている。僕は指先で糸屑を摘み上げるとそのまま人差し指でジャケットの裾をなぞった。自然な動作で服の皺を伸ばす。
そして僕はこう囁いた。
「尾かれてるね。」
ショーウィンドウに反射して歪む世界には一人の男が亡霊のように立っていた。先ほどからずっと動いていない上に人を待つ感じでもない。帽子を目深に被ってはいるが時折視線がこちらに向けられている。ジルの表情は変わらないものの、その言葉に指先がぴくりと動いた。背の高い視線がやり場を探してパンの上を走る。
「ああ、そうみたいだな。俺が使いを頼まれた時にはいなかった。」
ジルは口を小さく動かしてやや早口で返答した。僕はジャケットの襟元を整えながら片眉をあげた。
「と、なると僕のお客さんかな。」
声のボリュームを絞りつつ軽く顎を引いた。ジルの影におさまった僕の顔はきっと意地悪な笑みを浮かべているだろうから。
「ここは一旦別れて僕の家で落ち合おう。君はまっすぐ帰って。道は覚えたよね?」
彼の影が頷くと同時に僕は一歩引いた。日常に足るごく自然な笑みを浮かべて彼を見る。
「ボタン、取れかけてたよ。早めに直しておきなよ?」
声はゆっくりとやや高く誰にでも聞き取りやすい声で。
「おや、ほんとだ。そうしよう。」
ジルは自身のジャケットに目をやり、僕と同じように柔らかい笑みを浮かべた。
石畳を踏む彼の足音を見送ってくるりと引き返し横道に逸れる。後頭部に当たる視線は途切れない。仄暗い横道は入り組んで、段階的に暗く細くなっていく。少し歩を早めて曲がり角を右に行ったところで、静止した。狭い路地に反響する足音は少し離れて苛立ったように行きつ戻りつしている。
「さて」
僕は古びた木箱に上ると建物を這う配管に足をかけた。洗濯物を干すためか、両建物に橋渡しされた頼りない組紐を手に取ると右足にぐっと力を込める。一瞬の滞空。帽子が浮きかけるのを片手で抑え、対面の出窓に三点で着地する。赤い粘土瓦が乾いた音を立てる。そのまま屋根に手をかけると体を引き上げて少し息を吐いた。空は広く、遮るものがない。ところどころ突き出た煙突からうっすら白い煙が空の模様となって浮かび出ていた。
「来客にはそれなりの対応をしなきゃね。さぁてどこの差金かなぁ?」
僕は細い路地を見下ろしながらにこりと笑った。




