9,貴方が嫌いなその味は。
お待たせしました。
のどかな午後の光が差し込む応接間。西側に嵌め込まれた窓枠から小さな影がするりと滑り込んだ。燻んだ茶色の髪は落ち着かないようにふわふわと浮いている。
「やあやあ、遅くなった。」
僕は服の裾を軽く払って右手を挙げてみせた。視線は足を組んで微笑む彼に真っ直ぐ向けられる。背もたれに寄りかかって肘置きを指先でなぞる姿は、あたかも役者のようだ。ジルは僕に気づくと嬉しそうに目を細めた。まるで親しい友人に会った時のように。
「おかえり。どうだった?」
何が、とは聞かない。十中八九あの粘着質な灰色の亡霊のことである。その問いに僕は手をひらひら振って答えた。
「あんまり。骨折り損だよ。」
しばらく後を追ったが、どうやら正規の構成員ではないらしい。外れのパブに入って少しの会話の後、金をもらって出ていった。気になるのはその会話相手だ。カウンター奥に腰掛けて窓越しではよく見えなかったが、灰色外套の、異様な目つきの男だった。
「随分な物好きに目をつけられたなぁ。」
ここ数ヶ月、あまり目立つような動きはしていない。縄張りに土足で入り込んだネズミを数匹喰べたくらいである。
「人気者だな。またたびでも振り撒いているのか?」
ジルは紅茶を一口含んでカップをことりと置いた。果物のようなすっとした甘さがふわりと漂う。
その脇のビストロテーブルには、艶々した洋菓子が所狭しと並べられていた。時計を見ると午後3時過ぎ。甘味が欲しくなってくる時刻である。
「まさか。」
僕はやや肩をすくめて軽く笑ってみせた。僕が来てから入れ直したであろう紅茶は、湿った琥珀のようでポットにぴたりと収まって湯気を立てている。手元を見ると、すでに温められたカップが薄い影を落としていた。
さすが、優秀さに隙がない。ここんとこはシュガーの仕事だろう。
ポットを傾けてカップに熱を持った液体を注ぐ。水面に映る冷めた瞳をじっと見つめ返すこと数秒、遅れて砂糖とミルクを加え入れた。ティースプーンをくるくると回すと、たちまち白雲が液体を席巻し淡くなっていく。一口分の紅茶が喉を落ちていく。スッキリしたアッサムの甘みが鼻腔を通り抜けた。
カップをソーサーに戻す。取手部分を反時計回りに回して右側に据えた。紅茶を飲む際には最低限のマナーだが、この国は英国ほど厳格ではなく労働者の間ではコーヒーが人気になりつつあるとか。
「この菓子、若干マーガリンとバニラエッセンスが入ってんな。バターの代用か?」
マカロンを一つ摘み上げながらジルが尋ねた。長い指先に捕えられたマカロンはひどく小さく見える。
「うーん。この時期だとバターも高いしねぇ。そういう味の違いわかるんだ?僕にはさっぱり。」
僕はバターサンドを一つ食むと首を傾げた。普段と変わらないように思えるが、彼には違った味がするのだろう。
「後味がふんわり軽い。溶けていく感じがさらっとしている。マーガリンはわかりやすいと思うが。...だが味は悪くない。焼き手の腕がいいんだな。」
ジルは唇の端に微笑を作るとまた一つの菓子を取った。どうやら彼もかなりの甘党らしい。視線を追って彼の指先を見ると、途端に僕は露骨に嫌そうな顔をしてしまった。
「ジャムタルト、か...。好きなの?」
彼が選んだのはジャムタルトであった。口元が汚れにくいようにとカップケーキサイズのそれは甘酸っぱいイチゴのジャムを乗せて艶やかに光っている。
「ああ、割と好きな方だな。シンプルながら食感の組み合わせが良い。君は苦手なのか?」
ジルは不思議な顔をして答えた。
「うん。ちょっとね。」
微妙な笑顔を作って僕は曖昧に返答した。嫌いというかより嫌いになったというか...。
彼は僕の顔を見て何を思ったのだろうか。やや間があってひどく神妙な顔つきで僕にこう尋ねた。
「それは貴方が嫌いだったのか?それとも、君が嫌いなのか?」
この言葉は十二分に僕を驚かせた。咄嗟に出ようとした言葉が掠れた息になってしんとした空気に溶けていく。一呼吸おいてためらいがちに言葉を選んだ。
「...嫌いだったんだよ。今は、わからないけど。」
そうだった。前の僕が嫌いだったという話を誰かから聞いて、食べてこなかったんだ。
その様子をジルが眺めてそして笑った。
「それなら、もう一度試すのはどうだ?何か思い出すかもしれないしな。」
僕は目を見開いて彼を見た。
「...そうしてみよっか。」
また紅茶を一口飲むと、ブルーベリージャムのそれを手に取った。パイ生地の眺めて、それからゆっくりと歯を立てた。軽い音が響き唇にジャムの表層が触れる。香ばしさと甘酸っぱさが喉を通っていった。
「やっぱ嫌いかも」
紅茶って結構マナー厳しいんですね。調べてびっくりしました。
ちなみに、一口目はストレートで!がマナーらしいです。




