7、閑寂とベンガルの棲家
周囲の空気は完全に静止している。耳だけが時折、建物のきしむ音を捉えてピクリと後ろへ向けられる。周囲の明かりを吸い込んだ瞳は暗がりの中で瞳孔を大きく広げ、真ん丸な黒の球体と化していた。その周囲を囲むわずかな金色の彩膜が暗闇の中で二つの小さな光の粒として、じっとこちらを凝視している。呼吸に合わせてかすかに上下する胸元だけがその静寂のなかで唯一の動的な気配だった。
それは独の猫であった。
僕は気兼ねない足取りで距離をつめ、そのまま片膝をついて視線を合わせた。
「こんにちは。お前の主人はいるかな?」
木箱に佇む黒猫は僕を卑下して尻尾をパタリと揺らした。
陽の光から逃げるように三方を建物で囲まれたこの場所では時間の区切りすら曖昧になっていく。
ややあって対面の男が動じないと見るや、黒猫は大儀な様子で大きく伸びしてするりと扉の影に消えた。
影を追って視線を上げると、古めかしい建造物が沈黙に馴染んでいた。ひび割れが目立つ煤けた外壁には触手のようなツタがびっしりとからみつき不気味な雰囲気を醸し出している。あたかも二世紀も前にそのまま縫い止められてしまったかのような佇まいである。
僕はひとり笑ってジルに目配せした。
「行こうか。主人の元にご案内だってさ。」
わずかに開いた扉に手をかける。ドアベルが澄んだ音を立てて空気を震わせた。
続いてジルも入ってくる。長身の彼には少々扉は小さかったようで身を屈めながら周囲を見渡している。
「...何かの店か?随分奥まった場所にあるな。」
「ここ?ああ、言ってなかったっけ。ここはね...」
古びた床板がきしりと危うげにしなる。前を歩く僕の足音にわずかな愉悦が混じる。歩調は緩めないまま、顎を引いて肩越しに視線だけを後ろへ滑らせた。ケープの裾が軽やかに揺れる。
「王宮の花瓶の数から非公認の密輸額まで。よろず集って、そう、ここは情報屋だよ。」
そういって口元だけで低く笑って見せた。
狭い入り口に反して中は広かった。
灯ひとつもない店内は吹き抜けで、見上げると剥き出しの梁が薄闇を抱えて黒々と光っている。少し歩を進めると古色の木と乾いた羊皮紙の匂いが鼻腔を突いた。床の大部分は、乱雑に積まれた書物や、埃をかぶった木箱で埋め尽くされている。中央の陳列台には年代物の巻物や、誰のものとも知れぬ手記が山をなしていた。天井のシャンデリアはもう使われることはないのか、濁った蝋がこびりついた残骸と化している。正方形に近い部屋の一角に食い込むようにカウンターが置かれ、曲線で構成された革張りの椅子の右縁が辛うじて見えた。
この時間帯ならいるはずなんだけどな。
内心首を傾げながら踵を浮かしてカウンターの奥を覗き込む。すると案の定、椅子の上で何かが身じろぐ気配がした。...やっぱりそこにいた。
雑多なガラクタ類を踏まないように気をつけて限られた足場を進む。僕がようやくカウンターに辿り着いた時に見えたのは、丸まった不恰好な毛布の包みだった。
年季の入った毛布はところどころ摩耗して薄くなっている。時折、思い出すようにもぞもぞと蠢いた。
「起きてる?来客なんだけど」
僕の声は呆れるような声色となって乾いた室内に落ちた。
少し間があって、布包みがおもむろに動き始めた。体制を変え座高が高くなる。
「なんやね。起きてんで」
やがて布地から脱したのは一人の少女であった。紺色のローブを羽織りそのフードがすっぽり顔を覆っている。薄茶の髪から覗く目は恨めしそうに僕を睨んでいた。
「随分ご無沙汰やったんに連絡一つよこさんと来るやなんて。人の迷惑とか考えへんわけぇ?信頼関係に響くよぉ。」
少し訛りの混じった声はいかにも寝起きでやや掠れを帯びていた。
「やあやあ久しいね。君の方こそ、店の状態をどうにかしたら?もう人が生きてる環境とは思えないよ。廃業したのかと思った。」
フード越しの目が隅に張った蜘蛛の巣を眺め、それからまた僕のところへ戻って来た。
「わてにはこんくらいが住みやすいの。そやけどまぁ...一理あるか。」
少女は億劫そうにマッチを取り出し、小箱の側面で擦った。つんとした匂いの後にニカワが後を追って香り立つ。手元に置かれたオイルランプに熱を移すと、ぼんやり人魂のように周囲を照らした。
「で、何の御用ですかぁお客様。何なりとこの情報屋にお申し付けを」
小柄な頭が不機嫌そうに揺れる。小さな口から皮肉を湛えて言葉がこぼれた。
「今日はね、君に『僕の友人』を紹介しておきたくて」
「友人、なぁ...」
少女は頬杖をつきながら無造作に見上げた。開いた方の手で頭をとんとんと叩いて僕に示す。
「相変わらず記憶は戻らんようで。そやけどなんか昔のあんさんにちと似とる気ぃするわ。」
「それは光栄。」
僕は苦笑を浮かべて一歩後ろに退いた。代わりにジルが一歩前に出て、好奇の目で少女を見た。
「紹介するよ、彼の名前はジルだ。靴磨きをやっていて今は僕の友人。仲良くね。」
「どうぞお見知りおきを」
ジルは恭しく一礼した。下げられた頭の上でうねった短髪が揺れる。その時少女は初めてジルを見やった。しかし、すぐに興味を失ってフイと視線を逸らす。
「ふぅん...わてはポプラ。どうぞご贔屓にな。」
ポプラは細い指先でフードの端を引っ掛けるとクイッと上げた。
書きたかったとこ終わらなかった…。次回はエピ7,5になります。
ポプラの関西弁(控えめ)はイタリア混じりの英語のイメージで。




