11,向日葵の衣を被って
恐らく、7と7,5あたりを先に読んでいただけるとより楽しめるかと思われます。読まなくても想像でふわっと楽しめます(多分)
黒い猫が、夕闇からぬるりと這い出てきた。雨上がりの柔らかい土を踏みしめて音もなく歩いている。尻尾はゆらりと立てられて末端にいくにつれてやや曲がっている。偶然目についた木苺を品評するようにしげしげと眺めた後、やがてその視線に気づいたのかまっすぐ顔を上げた。金色の瞳が闇に包まれてそれだけがぽつりと輝いている。視線の先にはラフなニットパーカーの青年。要するに僕である。僕は小さく欠伸を噛み殺しながら言葉を投げやった。
「こんばんは、ブレロー。今夜はいい風が吹いてる。今宵の散歩はさぞかし楽しいんだろうねぇ。」
黒猫はしなやかな尻尾を一つ揺らすと僕の足首に頭を擦り付けた。きめ細やかな毛は柔らかに毛並みに沿ってながれている。僕は身を屈めると彼の顎の下を撫でた。
「君もご苦労様。ポプラに続けてよろしくって言っておいて。」
黒猫は返事の代わりに小さく鳴くと黄昏の中に紛れて消えていった。僕は夜風の冷たくなってきたのを感じて、ようやく扉をくぐる。
「さて」
僕の手には薄い便箋が握られていた。その便箋はやや湿り気を帯びて、角が萎びている。どうやら彼の猫と共に通り雨にあったらしい。
封筒の中身は毎回違う。誰かの秘密であり、決定的な証拠であり、計画であり企みである。情報屋のポプラが提供するのはそういった「誰かが必要としている情報」だ。ブレローは優秀なその仕事人である。
手紙の内容は普段通り過不足なく短い文章で綴ってあった。彼女らしい筆跡で感情がさっぱり消え失せたように事務的に書かれている。僕はそれらを一瞥すると、小さく息を吐いてのろのろとライターを取り出した。親指を蓋の縁に引っ掛けて紙片をかざすと、ポッと灯った小さな火が瞬く間に紅い蝶のような残像を残して、そして消えた。
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室内は天井から吊り下げられた数十基の水晶シャンデリアによって照らされている。何百本もの蜜蝋キャンドルが放つ光は、壁面に嵌め込まれた鏡に反射し、光量を数倍に増幅させていた。床面は、色調の異なる大理石を組み合わせた幾何学模様の寄木細工である。その上を、鯨骨の骨組みで左右に大きく拡げられたシルクやタフタのドレス、金糸の刺繍が施された男物の上着が不規則に交差していく。衣服が擦れ合う微細な摩擦音は、高所のバルコニーから演奏されるチェンバロと弦楽の旋律にかき消されていた。室内の空気は、密閉された空間特有の熱を帯びている。そこへ、鯨脂や植物油から抽出された香水、燃焼する蝋の煤煙、そして密集した人間が発する熱気が混ざり合い、独自の飽和した臭気を作り出していた。給仕が運ぶ銀製の大皿には流通網と調理技術の粋を集めた品々が並ぶ。砂糖細工のタワー、香辛料を大量に使用した肉料理、そして特権階級の象徴であるまだ氷室から運ばれたばかりのシャーベットの表層が、じんわりと溶けて輝いている。窓の向こうに広がる、光を持たない夜の街や農村の風景とは完全に遮断された人工的な光と色彩の空間がそこにあった。
...ほんとはこんなとこ、縁もゆかりもないはずなんだけどな。
それらを鏡越しにチラリと見やる僕は、タキシードに身を包んだ礼装である。ただし、首元に巻き付くのは黒い蝶ネクタイではなくクォーツのループタイで、僕を着飾る黒い布地も、あえてやや大きいものを選んでいる。内側に色々仕込んでもわかりにくいよう体の輪郭を隠すためだが、周囲の目からすればオーダーメイドではない既製品を着ていると、僕の家がいかに落ちぶれているかを察するのだろう。まぁ、それもそれで都合が良い。
まったく、ここの空気感は好きになれそうにない。外見だけは華やかなのに足元を這うものは濁って重たい。
手紙を受け取ってから何度目かの水曜である。少し暖かい日が続いたかと思えば寒さがぶり返して、北ではわずかに雪が降った。
僕がなぜ似合いもしない場所に出向いたかというと、まさにその手紙が訳である。最近勢力を拡大し始めた組織、〔燕の商会〕に動きがあった。どうやら南米の奴隷貿易に参入するらしい。ここまでは別に特別視する要素はないのだが...
「第一皇子、ねぇ...」
それに皇子が一枚絡んでいるときた。僕の見る限りそんなお人ではなかったはずだが、取り巻きはそうとも限らない。その真相を探りに、一つ化けて紛れ込んだというわけだ。シュガーに聞いてみれば、こういった類のものに出席するのは初めてではないらしい。以前の僕の話だが。
今宵の僕は「エドワード・アーネル」。
北方の中級貴族に連なる家でこの地に定着後、第二王子派閥に与している。武闘派の家で実力が認められて子爵の地位を与えられた家の三男である...という設定を引っ被っているただの一般市民である。
そして、この社交界に来ているのは僕だけではない。
ちらりと視線を背後にやれば、影のように佇んでいる彼がいた。
黒いベストと蝶ネクタイに白手袋。整った顔立ちながらどこか控えめな気配は180度どこから見ても使用人のように見える。なんなら僕よりもこの風景に溶け込んでいる。
ジルは...おっと、今は「ヴァルノ」か。ここの話をすると意外にも食いつきが良かった。釣れた、まではいかないが彼の素性には一歩近づいただろうか。それは少し残念でもあるがぞくぞくと心のうちを走るような感覚があった。




