4.1:宝探しのラジオボーイ
少し空気は肌寒い。
春の香りがうっすらと漂い、たなびく雲は薄紫色。
どこか遠くの公園で、幼い子供たちが遊んでいる声が聞こえてくる。サッカーでもしているのか、ドンッと低く何かを蹴るような音も一緒に響く。
スグルは浮き立つような足取りで、記憶の道を辿って歩く。
目的地は、すぐに見つかった。
お稲荷さんの像。
赤い襟巻きがついていて、石の瞳は茫洋と宙を睨んでいる。
登下校の道すがらに、毎日見ていた。待ち合わせの目印にも使われる場所で、一緒に遊ぶ約束をする友だち同士の会話には「お稲荷さん」という言葉がちらほらと登場していた。そんな記憶を、ごく自然に思い出す。
『そろそろお稲荷さんは拝めたかな〜? でもね、これで終わりじゃないんです! というわけで、ちゃっちゃと次行っちゃいますよぉ、次! 今度の目的地は、西公園の噴水です!』
手を合わせてお参りする時間もそこそこに、首からぶら下げたラジオが大きな声で宣言する。
慌ただしいなと思いながらもスグルはその場を去り、指示された場所へと足を向けた。
西公園の噴水といえば、昔、遠足で訪ねた場所だった。
噴水と言っても、勢いよく水が噴き出す鯨の背中のようなものを想像すると拍子抜けするだろう。
浅瀬の広い人口池のような場所で、中央に申し訳程度の水がジョボジョボと湧き出しているだけだった。
あの時のスグルは、班員の中で一番真面目だからと、腕時計係を任された。母は早起きして、タコさんウインナーをお弁当箱に入れてくれた。特別に購入したレジャーシートは地味なものだったがサイズがかなり大きく、幼児用の小さなシートしか持っていなかったクラスメイトにとても感謝された。
懐かしい。
けれど今回も感傷に浸る時間はそう多くはなく、再びラジオがスグルを急かしてくる。
次も。その次も。そのまた次も同じ。
『はいはい、すぐ次行くよ〜! 思いついた郵便ポストを三つ、順番に巡ってください! はいよーいスタート!』
『駅前に植わってる長寿の松の木! あれにタッチしましょう! がんばれ〜』
『図書館、わかりますかー? 入り口の上のほうがちょっと赤いところですね! その中に入って、絵本コーナーへ行きましょう! ついでに一冊くらいは読んでみて!』
『それからそれから———』
体力はあるほうだが、ここまで振り回されるとさすがに息が切れてくる。加えて終わりが見えないのも不安を煽った。
そもそもこれって、宝探しの旅じゃなかったのだろうか? 宝のありかなんて全くラジオは教えてくれそうになくて、これではただの町探検じゃないかとスグルは戸惑う。戸惑いながらも、なぜか途中で放り出す気になれずに従ってしまう。
次に何をすべきか、それだけは丁寧にきちんと教えてくれるから困ったものだった。
と、ラジオのパーソナリティが、ふいに声の調子を変えたように感じた。
『———はい、では次は老舗の定食屋さんですね。これは知らない人も多いと思うので、ちょっと具体的に描写します。まずは小川のほとりの道を、クリーニング屋さんのところで右に曲がります。突き当たりで、今度は左に曲がって。焼き物がたくさん飾ってある建物のところまで行ったら、そこです。高級和食料理店みたいに見えるかもしれないですけど、メニューはみんなとても安いので、勇気を出して入ってみましょう』
財布を持っていくようにという指示は、きっと、これのためだったのだとスグルは思った。お腹が空いてきた時に、食事代があるとそれだけでホッとするものだから。
……ようやく少し休憩できる。
スグルは、かなり疲れてきた足を引きずりながら歩き出した。
夕ご飯の時間にしては遅い頃合いだったが、その料理店にははっきりと灯りが灯っていた。
店の外には、動物を模った焼き物が一列に並んでいる。たぬきの形のものや、羊の形のものなど。スグルが一番興味を持ったのは、ふくろうだった。夜の森でたった一人、低く鳴き声を奏でる。賢者のモチーフにもされるこの鳥類は、スグルの心を落ち着かせた。
ふう、と息を吐いて、ガラガラと入り口の木戸を引き開ける。
すぐに若い女性が案内に出てきて、「いらっしゃいませ」と微笑みながらスグルを中へ招き入れた。
小さいお店ながら、お客さんはすでに満席に近い状態まで入っていた。スグルが最後のテーブルを埋めることになる。
スグルは店内をくるりと見渡した。
床も天井も、黒光りする木で作られていた。壁にはいくつかの油絵がかかっていた。一番大きくて目立つのは、太陽の絵。他の絵も、どこかしら太陽の絵に似た風合いを感じる。贔屓のアーティストさんがいて、その人の絵をたくさん飾っているのかもしれないと思った。
キッチンから、ご飯の良い匂いが漂ってくる。調理の音と一緒にゆらゆらと立ち上る湯気が落ち着く印象を与える。
この街に、こんな素敵な店があったんだなとスグルは少し驚いていた。
さきほどの店員を呼ぶと、すぐに反応して注文票とペンを出しながらこちらへ歩いてくる。
「はいっ、ご注文お決まりですか?」
「サバ味噌定食を一つください。……それから、紅茶ゼリーも」
「かしこまりました。サバ味噌定食を一つと、紅茶ゼリーですね」
それでは少々お待ちくださいませ、と軽く会釈をして、黒いエプロンを身につけたその若い女性店員はキッチンへと戻っていった。『注文入ったよー。サバひとつ、紅茶ゼリーひとつ』『はいはい〜』『マキちゃんちょっとこっち手伝って』『いいよ。どうしたの』注文内容を調理担当者へ伝える声が聞こえてきたが、従業員同士の会話がかなり緩い。店の雰囲気や規模から考えても、ここは家族経営かなとスグルは思った。
スグルは無料の水を、少しずつ唇を湿らせるように飲んでみる。
氷は冷たい。だから水も冷たい。コップも冷たい。
それは当たり前のこと。
冷たいものは、周りも冷たくする。
周りを変えたければ、まずは自分が変わればいい。
いい変化も、悪い変化も、よくわからない変化も、全てが周囲に影響する。
そう。
最近はスグルが自分を信じられなくなってきたから、両親も不安そうな顔をするようになってきてしまった。
こんな人間が、きちんと生きていけるのか。
個性的な才能を乗りこなし、それを役立てる適切な場所を見つけることができるのか。
努力は足りているのか。その方向性は間違っていないか。
いつになったら新しい一歩を踏み出せるのか。
その結果失敗するのではと恐れるあまり、一生自分は箱庭から出ていくことができないのでは。
たくさんの不安があって、自分もみんなも心配していることをスグルは知っている。
……どうしたものかな、と思ってみる。
久しぶりに一人で食べた夕ご飯は、真っ当に美味しかった。温かくて、味付けは丁寧で、素材は豊かだった。お茶碗や平皿は一つ一つ愛情を込めて選ばれたものに違いなく、使いやすくとも芸術的で面白い絵柄の描かれたものが使われていた。
家庭の味を売り物にすると、このようになる。その完璧な見本を示すような、優しく穏やかな素朴さがあった。
「ごちそうさまでした」
代金を払って、店を出る。
スグルとすれ違いざまに、入っていく三人組の客がいる。春祭りの準備がどうのこうの、という話をしながら連れ立って店へ入った三人は、少しお酒が入っているようで声が大きく異様な陽気さを纏っていた。幸い怒ったり泣いたりする酔い方ではないらしいが、一部の客が少し眉を顰めている。スグルのお勘定の処理を済ませた店員の女性が、今度はその新しい客の対応に追われて少し大変そうだった。
ああ忙しそうだな、とスグルは思った。
彼らは、彼女らは、何のために働くのだろうか。
何も悪いことをしていないのに客に頭を何度も下げるような、そんな仕事をしていて満足なのだろうか。
見ず知らずの誰かのために、なぜあんなにも心をこめた料理を作ろうとするのだろう。
スグルにはわからなくて……それでも。
ひまわりのように爽やかな表情を咲かせて、「いらっしゃいませ」と店員は笑った。あの笑顔に嘘はなかった。あのように働けるなら、きっとどんな仕事でも同じように幸福なのだ。きっとそうだと、スグルは思う。
スグルが店の外に一歩出ると、その途端に、さっきまで静かだったラジオが陽気にお喋りを始めた。待ってましたと言わんばかりのその声の明るさに、思わずため息を吐いてしまった。
この番組を運営するパーソナリティは、きっとスグルの歩き方にピッタリ合わせて放送している。
彼が急ごうがのんびり行こうが、結果はきっと、変わらない。
『カラフル看板が目印! ハンコ屋さんを覗いてみましょう〜』
『たんぽぽの花は見つけられるかな? 道端に目を凝らして、ゆっくり歩いてみてくださいね』
『お化け屋敷だと思ったら、ただ蔦が絡んでるだけの古い家! ピンポンダッシュの餌食になった可哀想な家を、一目ばかり見に行ってみませんか?』
『それじゃあ次は———』
心が静かになってゆく。
足をゆっくりと交互に動かして、自分の歩く街の様子を眺めながら、歩き続ける。
街灯があかあかと光っていて、誘われた虫たちが群がっている。
郊外へと、ラジオは彼を導いた。
人なんてほとんどいなくて、草がさやさやと夜風に揺れていて、一歩踏み外して転べばズボンが泥まみれになってしまうかもしれないところ。
大きな石や、切り株が、ベンチの代わりになってくれるような場所。
『はいっ、ここが最後の目的地です! ついてきてくれたリスナーの皆さん! 本当にお疲れ様でした!』
首元から流れ出るその声を、スグルはじっと聴いていた。
『それでですね〜、この番組全体が、もう最初からほとんど詐欺っぽい感じなので、気にする人なんていないかもですが。けれど一応、宝探しと銘打っているので、役割は果たしたいと思います! レッツ・ゴー・トレジャーハンティング! って煽ったからには、やっぱりお宝を発見しないといけないですよね!』
スグルは青い香りをまとう風を頬や鼻先に感じながら、ぼうっとそれに耳を傾けている。
『上を見上げてみましょう! そう、上ですからね。さあてどうでしょう?』
上。
ラジオの声に誘われるままに、ゆっくりと見上げる。
夜の闇のマントが広がっていた。けれどそれは、もちろん闇の色だけではなくて。
月と、星。
なぜか、昔食べていたおやつを思い出した。
丸いおせんべい。それから、幼児の手によってばら撒かれた、細かなお砂糖や金平糖たちの群れ。
絵本に描かれた星空のようなそれを見つめると、現実と空想の境目が溶けて消えていく錯覚を覚える。
『きれいですか? ええ、きれいでしょう? なんたって夜空ですからね! 昔っから、たくさんの画家さんが星の散る夜空の絵を描いてますよ。ねっ、すっごくキラッキラ!』
確かに、とスグルは思った。
今自分が眺めているものは、特別に美しい。
何が一番美しいのかといえば、それはもしかすると、この夜空をただ一人の瞳に焼き付けることができている現実そのものかもしれなかった。
涙が出るほど贅沢だった。
まるごとの宇宙の壮大さを、スグルは誰にも共有せずに眺めている。
これが許されてしまう世界を、スグルは心から愛したいと願う。
自分の生き方は大丈夫なのか? OKなのか? ダメだというなら、どうやって変わっていけばいいのか?
そんな悩みの全てが溶けていくような。消えてしまうような。そんな世界。
『たくさんハイキングした後に見る満点の星空! まあ結構ありきたりなオチですけど、これこそ、いっとう美しい宝物! というわけなのでした! それでは夜も更けてまいりましたところで、トレジャーハンティングの終幕といたします! さようなら〜』
ラジオが沈黙する。
そして、静かに砂嵐の音が流れはじめる。
映画館のエンドロールを、さっさと立ち上がってやり過ごすのではなく、ゆっくりと席に座って楽しむ客のように。スグルはただ一人ぼっちで、いつまでも星空を見上げ続ける。




