3.1:月曜日のクジラ
東の空から、ゆっくりと大きな半透明の影が浮き上がってくる。
それはまるで限界まで巨大化した月のように神秘的で、炭酸ジュースの泡がさざめくように儚げな美しさだった。
大きなクジラ。
奇妙に透き通った巨大な魚の影。
これを見上げているとき、リッカは不思議に自分が海の中へすっぽりとおさまってしまったかのような気持ちになる。
休日が終わって、少しばかり起きるのが億劫で。それでもなんとかベッドから抜け出し、ランニングの日課をこなす。
そんな彼女へご褒美をあげるかのように、そのクジラは月曜日にばかり現れる。
何度も目撃を繰り返すうち、リッカは次第にこれを見るのが楽しみになっていた。
クジラは、東の空から昇っていって、南の空を通り、そうして西へと沈んでいく。
毎週、同じ場所、同じ時間に、同じ姿でクジラは観測される。リッカはいつも、このクジラを見ている。畏敬の念と共に。
誰の言葉に縛られることもなく、たった一人で、果てしなく自由に悠々と泳いでいく。
大きくて美しい海の生き物。
幼い頃に嗅いだ香りを思い出して、懐かしい気持ちに浸れるから。だから好き。そういう理由もあるかもしれない。
けれど、もう一つ。
……私も、こんなふうに。
生きていきたい、……と。
そんなふうに、心のどこかで思うから。
だからリッカは、この光景に惹きつけられるのかもしれなかった。
だって、孤独を愛するというのなら。友達なんて大事じゃないというのなら。そばにある温もりなんて、いつでも捨ててしまって何の感慨も抱かないと確信しているというのなら。
それならば、最初からあんな風に振る舞えばいいのだから。
たった一匹だけで堂々としているクジラのように、泳いでいればいいのだから。
そうすればいいのに。
ただそれだけでいいのに。
けれどリッカは、どこまでも中途半端だった。その矛盾には、自分自身でとっくの昔に気がついていた。
しおんとリッカは一緒に笑って、ふざけて、同じ夕日を見て、この前なんて映画館に行った。雨が降った日には、リッカだけが持っていた折り畳み傘の下に二人で肩をくっつけあって潜りこんで、全く大きさが足りなかったからお互いにびっくりするほど肩をびしょ濡れにした。
おすすめの本は? 私、本なんて読まない。嘘でしょ!?
そんな些細な会話から、寝食を忘れて読み耽るほど面白い小説に出会ったりもした。
……ねえ、クジラ。
私って、どうしてこんな風なんだろうね?
クジラの答えはない。当たり前のことだった。
いつも、あのクジラは答えなんて渡してくれない。
クジラはクジラだけの世界で、たった一人で生きているからなのだった。きっと。
ゆったりと、煌めくゼリーのように薄く透き通ったクジラの影が、朝の空を横切っていく。
そのときだった。
チカッ。
一瞬、星のような瞬きが見えた。
あれ、とリッカは目を細める。今一瞬、何かが見えたような……?
それはきっと、偶然の産物だった。しかしこれ以上なく運命的だとリッカは思うのだ。
そして……この瞬間に起こったことを、リッカはきっと生涯忘れないだろう。
クジラが、背中から潮を噴き出したのだった。
それはまるで、暴力的な瀑布が空へ逆さに打ち上がったようだった。猛烈な勢いは、いつか見たことのある消防署の人の散水実演を思い出させるものだった。花火のように、虹が空を彩りながら飾ってゆく。
水が上がっていく。
上がって、上がって、見上げすぎたリッカの首が痛くなるくらいに。
そうして、頂点まで達した後には。
「落ちる」
リッカは小さく呟いた。
空のどこか遠くまで浮き上がっていた水たちが、ゆっくりと降りてくる。
美しいスローモーション。映画を見ているような非現実的なその光景。
リッカは全身に、透明な水を浴びた。ひんやりと涼やかな手触りが、音もなく体全部をすり抜けてゆく。地面に落ちて、ガラスの割れるように破砕して散らばった薄水色の雫たち。みんなみんな、道路にいた人たちは一瞬にして水に染まって、けれど誰もこんなすごいことが起こっていると気づかない。
そして溶けてゆく。
薄まって、消えてゆく。
アスファルト上に転がった水の粒たちは、リッカの視界からすうっと退場するように失われてゆく。
全てが元通りになったとき、リッカはあまりの衝撃に、一歩も動けなくなっていた。
鮮やかすぎる生命の実感。躍動感と情動の嵐。
心の琴線に触れるどころか、叩き壊そうとしてくるかのような情報量。
リッカが経験したことのない大事件だった。
ようやく金縛りが溶けて、なんとか歩けるようになったとき。リッカは心の中で思っていた。
……もっと速く走れるようになりたい。
だって。
だって、きっと。
あのクジラの泳ぐスピードはものすごく速くて。
それに追いつくためには、もっともっと速度を上げて走らなくてはならない。
ふいに、リッカは一人の少女のことを思い出した。
彼女の友達のしおん。あの子は足の筋肉も心肺機能も未熟だから、誰が見たって走ることなんて苦手な人に見える。けれど、彼女は実のところ、誰にも見えないくらいの速さで全力疾走をしているのだ。
体の問題じゃない。心の問題。人生というレースを、明るく全力で輝きながら疾走している。まるであのクジラのように雄大に、優しく、おおらかに、そして美しく。
そしてリッカは、そんな彼女と並走できるようにならなくてはならない。
なぜ?
それこそ、言うまでもない。
リッカはしおんと友達だから。
たった今、一番大事な友だちに、どうして本気で向き合わずにいられようか?
軽く屈伸して、走り出す。
リッカが今から家に帰るのは、そうしてから朝ごはんを食べて、荷物を準備して、靴を履いて玄関のドアを開け、そこで友達が待つ場所がどこであるかを、唇の微笑みに表現して。
それから学校で待つ大切な友だちの姿を思い描きながら、家族に「いってきます」を言うためだった。




