3.0:月曜日のクジラ
かつてリッカは海辺で走っていた。
あの頃はいつも下を見ながら走っていた。裸足で石を踏んづけたら痛いし、貝殻を踏んづけても痛いし、小枝が刺さってきても危ないし。それに、万が一クラゲか何かが打ち上げられていて、毒で攻撃などされたら嫌だと思っていたから、足元にはきちんと気を配っていた。
引っ越した先では、石も貝殻も小枝もなかった。もちろんクラゲなんているはずもなかった。
靴下と靴を履いて、アスファルトをタンッタンッと軽快に踏み締めてゆくたび、リッカは静かに都会の色に染まっていく自分を感じていた。
パーカーを羽織って、まるで霧が流れているかのように湿った早朝の街をランニングする。
たまに犬を連れたOLさんや、杖をついた老人とすれ違った。
この街で見上げた空は青かった。
初めてハッキリとそれに気づいたとき、同時に、これはいつか眺めていた海の色と同じなのだと思った。
家々の屋根のうちのいくつかは、雨の日に濡れそぼった砂浜の色と一緒だったし、通り過ぎた店の看板はカラフルで、誰かが持っていたサーフボードによく似ているようだった。
昔と今のリッカは、違う。そのはずだ。
住んでいるところも。友達も。使っている道具も。何もかも、違う。
それでも周りを見回してみれば、よく似ているものはいっぱいあった。
どんなに別次元へ飛んだって、世界は大して変わらないんじゃない? などと、リッカがちょっと思ってみたりするのはそういう理由だ。
面白さも。つまらなさも。
寂しさも。
悲しさも。
何もかも。
みんなみんな、大体同じようなもの。
引越し先での人間関係の構築は、まあまあ上手くいったと思う。というより、普通に進学するのとあまり変わりはなかった。中学に上がる際にと親がタイミングを合わせてくれたおかげで、リッカは転校すらしなくて済んだのだ。
「陸上部入るの? えっ、私もだよ! やったぁ仲間だ!」
友だちになってもいい? と、やけにハイテンションで話しかけてきたのは、しおんだった。彼女のおかげで、リッカは始業式からわずか数日で友人を作ることに成功した。
冷めたところのあるリッカがあっという間に友人を作ったことに対して、親は我がことのように喜んだ。
よかったねぇ。馴染めるかどうか、不安だったでしょ? 楽しく通えそうで、何よりだよ!
でも、と。
あまのじゃくなリッカは胸の奥底では思っていた。
どうせ彼女だって。他の多くの人間と一緒で、いつかは関係が切れる人間で。
静かに遠のいてゆく潮騒のように、いつの間にやら遠くに離れてしまうような存在なのだ。
友だちなんて、みんな結局そんなもの。
だって、そうだろう。
引っ越す前は一生の友だちだと思っていた大勢が、今は連絡先もよくわからなくなって。
そんな彼らに、もう会いたいとも思えなくなって。
それはきっと向こうも同じなんだろうと何となく想像がつく。
……なんて。
まあ。こういったことは、別に悲観すべきことだとは考えないけれど。だからと言って、楽観すべきことでもないとリッカは考えていた。
だってこれと同じことは、何度でも起こりうるのだから。
今はどんなに濃厚で豊かな関係を築いても、いつかの未来でそれはほとんど必ず断絶される。
そんなことばかり考えていたからだろうか?
しおんの笑顔は、リッカにとって、まるで大きなトマトに貼り付けた福笑いのパーツみたいに見えていた。
つまりは、取り外し可能で、好きなときになかったことにできる、何かよくわからない塊。
一緒にいたら楽しいし、面白い子だとは思っている。
でも、たとえ今日から彼女がいなくなってもなんとも思わない。
だって彼女とリッカのつながりは、それほどにまで断絶している。初めから。
しおん。
メガネをコンタクトに変えるかどうかでバカバカしいほど散々に悩んで、コンタクトに変えて、でも結局はメガネに戻した女の子。
おでんのちくわぶに対する愛がものすごくて、けれどはんぺんに対する敵意も同じくらいものすごい。
いつも持ち歩いている汗拭きシートは、優しいミントの香りがする。
そうして彼女の筆箱には、なぜか後生大事に湯呑み型の面白消しゴムがおさめられている。
こんな愛しげば思い出たちが全部吹っ飛んだとして、果たしてどうなるんだろう?
きっと、別にどうにもならない。
また同じくらい面白い友達に出会うだけ。
昔を忘れて、今ばかりを見て。でもその今現在だって、あっという間に過去へと飛ばされていく。
ねえ。
しおん。それと、その他のたくさんの友達。
みんな、結局は、そうなんじゃない?
「………ハッ、ハア、ハア……」
いつものランニングコースを走り終わる。これは自主練習だ。
そもそも、こんな風に坂道をダッシュする、なんてキツイ練習をさせるほど、陸上部は熱心なところではなかった。幽霊部員がたくさんいる、ゆるゆるな部活。
ちなみにリッカは真面目に参加している。真面目とは言っても、適当にだらだらと走ったり、ハードルを飛び越えて遊んだりする部員と一緒に時間を過ごすだけ。顧問の先生が来ている間だけは、まあまあ一生懸命に頑張る。そのくらい。
一方でしおんは、幽霊部員に近い。彼女を知る人にとっては意外かもしれないが、より深く彼女を知る人にとっては納得のいく状態だった。
彼女は何かと理由をつけて休んでいて、けれどその理由は嘘や仮病の類いではなくて、本当に彼女は忙しいのだった。ヒントを出すなら、しおんがヴァイオリンのコンクールでしおんが出した戦績を聞かされて、リッカはスポーツドリンクを噴き出しかけたことがある。
思わずリッカは目を剥いて尋ねていた。
「なんっ……、で、陸上部に入ったの……?」
「走るのって面白そうだったからだよ!」
「は? どこが?」
「ええっ、まさかリッカはそうじゃないのに入ったとでも?」
「当たり前じゃん」
「嘘ぉ……」
多くの人は、辛い練習なんて嫌いなのだ。人間関係を構築し、思い出を作るツールとして走ったり。勝ちたい、というただ一つの願いのために走ったり。
そしてリッカは、自分を確かめるために走っていた。
友達なんてわざわざ作ろうと試みるものではないと思っているし、勝敗にすら興味がないのだから。
自己紹介をして? そう言われたときに、名前以外に説明できるものを、一つか二つくらいは確保するため。陸上部だよ、毎朝走ってるよ。そうハッキリと口にして、自分のアイデンティティを確かめるために。
自分は何者でもないのではなくて、ただ体のパーツを寄せ集めただけの塊なのではなくて、リッカという個性がある存在だと、実感したいから。
ただそのために、リッカは陸上部にいる。
つまりリッカにとって、これは命綱なのだ。
これに掴まることができると思ったとき、初めて安心できる。
確固たる一つの象徴を中心に据えておけば、他の世界へ手を伸ばしたり、ヒョイと足を突っ込んでみたりすることを、自分を揺らがすことなく実現できる。
走るとは、リッカにとってはそういうもの。
「……でも。少しは、走るのが楽しいって思うこと、あるよね?」
「それこそ当たり前だよ」
「よかったぁ」
「しおん、もしかして安心してるの?」
「いやあ、えへへっ」
「辛いだけのことに一生懸命になれるほど、私は宇宙人的な存在じゃないんだよ」
そっか、うん、そうだよね?
しおんはふにゃふにゃと表情筋を崩して笑った。
……そしてリッカは、毎朝街中を走って荒い息を吐いていた。最後は坂道ダッシュで締める。キツいけれど、習慣になればどうってことない。そもそもこれは、自分の意思で行なっている。
部活はゆるゆる。
自主練習などする人はほとんどいない。
そしてリッカは陸上部の中ではエース扱いされている。
ただでさえ、リッカは長距離走が得意なほうだった。そしてみんながだらけている間に、こうして毎朝走って練習している。彼女がその地位を勝ち取ったのは、当たり前のことだった。
坂の上で、ゆっくりと空を見上げる。
雲ひとつない青空だった。
そして、リッカはぼんやりとそれを眺め続ける。
ただ眺めているのではない。
彼女は待っていた。
一体何を待っているのか?
それはきっと、もうすぐそこへ現れる。
———月曜日の朝にだけ、リッカが見ることのできる幻があった。




