2.1:言の葉の蝶々、踊る骸骨
蜘蛛の巣の張ったドアを開ける。
外靴のままで、中へ足を踏み入れる。
真っ暗闇を想像していたけれど、そんなことはなかった。薄ぼんやりした光が、窓の外から差し込んでいる。カーテンがない。きっと誰かが取り外したのだろうと思う。
そう。
たとえば、今コトノの目の前にいる……
『こんばんは』
『良い夜ですね』
『こうしてお客さんもいらっしゃる』
そうやってコトノに挨拶をしたのは、骸骨だった。人体模型、骨格標本、と言い換えてもいい。
それは何と驚くべきことに、全部で三つもあった。
いや、違う。一つの骸骨が、ふわふわと三つに分裂したり、また一つに戻ったりしている。喋るときには三つに分かれて、そうでないときは一人ぼっちの姿に戻るようだった。
コトノは、無言で少し頭を下げた。
挨拶のつもりだった。
骸骨はまた三つに分裂して、くすくすと笑った。
『引っ込み思案なお嬢さんだ』
『似てるかな?』
『誰に』
『僕らにだよ。あるいは、僕に』
『ホントだ。寂しそうじゃあないか』
『寂しすぎて分裂したら、いよいよお揃いだ』
『『『ふふふっ』』』
骸骨は、あるいは骸骨たちは、喋りながらの片手間にコトノの蝶と戯れていた。
手で触れようとすると逃げ出す蝶々を、驚くべき反射神経でパッと捕まえてみたり。また離してみたり。
そんなことを繰り返している。
しかし蝶々は、だんだんと床に落ち始めていた。生命の動力源を失ったとばかりに、ふらふらと力をなくしては、ゆっくりと墜落していく。そうして動かなくなる。
美しい姿のままで倒れ、積み重なってゆく蝶々たちは、まるで世界の片隅に眠る宝石細工のようだった。
子供が砂場で築き上げる城のように、曖昧な円錐形へと山の形が出来上がる。
ふむ、と骸骨は腕を組んで考えるような仕草をする。そして、ちょっと迷ったそぶりを見せた後に、蝶々の山のそばへ近づいていってしゃがみ込み、ツンツンと骨ばった(というより骨しかない)指で突き始めた。
誰にも遊んでもらえなかったせいで一人遊びを覚えた幼児みたいだと、コトノはなんとなく思った。
それで、少し勇気が出たのかもしれない。
警戒する必要のない相手だと、きちんと納得できたから。
「……あ。あ、の」
コトノは、久しぶりに声を出したような気がした。
実際はそんなこともなかったはずなのに、いつ自分が言葉を話していたのか。そんなことすら忘れてしまったようで、喉に引っかかった声は奇妙に他人のもののように聞こえた。
それでも、骸骨は振り向いた。
『ん』
『何かな?』
『ちなみにこの蝶々、きみのかい?』
ええっと、とコトノは言葉を探した。相手にしている骸骨は一人だけ。けれど、同時に三つの言葉で話しかけられる。返事の仕方に迷う時間も三倍になったような気持ちで、焦ってしまう。
……と、骸骨がパチンと指を鳴らした。
『『『おっと。そうだった。大事なことを忘れていたよ』』』
三つ分のずれが、一つに集まっていく。
揺らぎもブレもなくなって、カメラのピントが合うように要素が凝集する。
あっけに取られるコトノの目の前で、骸骨は三重の声を出しながら一人の姿に戻っていった。
そして、その声もたった一人のものになる。
ずっと混じっていた奇妙な共鳴も消えて、ただのどこにでもいる誰かさんの声になる。
彼は、カタカタと骨を鳴らしてこちらへ微笑みかけた。
「せっかくお客さんが来てくれたんだ。話し相手に困ってるわけでもなし、今さら三つに分裂なんてする必要はないんだよね。いやあ、忘れてた!」
常識的に考えて、失礼だよね?
ブレブレになりながらおしゃべりするなんて?
優しく明るい調子で、骸骨は言う。
コトノは、絶句してしまった。声が出ないまま、何か反応しなければと気づいて、慌てて横に首を振った。大丈夫、気にしてません。そう表現したつもりだった。
実際、本当にコトノはそんなことを気にしてはいなかったのだから。
心得たように、骸骨はカタカタと笑った。
「優しそうな子でよかったな。もしよろしければ、お嬢さん。僕と一緒に遊ばないかい?」
差し出された手を、コトノは自然に取っていた。
それは不思議に易しいことだった。
人間の形をしていないものからの誘いだというのに。いや、もしかすると、“だからこそ”だったのかもしれない。
コトノはこの理科室の骸骨と一緒なら、たとえ百万人の観客が入る舞台の上で社交ダンスやピエロの真似っこをしたって、まったく恥ずかしくはないだろうと思った。
不思議な魅力と安堵感。
コトノはすでに、骸骨のことを大事な友だちだと思っていたのかもしれなかった。
「ジャジャーン。まずは僕の不思議な道具を見せてあげよう!」
「これ……万華鏡?」
「そうだよ。手作りなんだ。特別性だよ」
骸骨が、いったいスケスケの骨なのにどこに隠していたのか。パッと取り出したのは、小学生が夏休みの自由研究で作るような、可愛らしい筒状のおもちゃだった。
蛍光塗料が塗られているようで、ところどころ淡い黄緑色に発光している。
発光している模様の部分をよく見ると、大小のさまざまな星の形のマークが散らされているのがわかる。
「これを、手作りなんて……すごい」
「そう! すごいんだよ、これは!」
骸骨は褒められると破顔した。
それだけで、コトノは自分の心までが幸福に包まれていくような気がした。
骸骨は、蝶々の積み重なった山の前に膝をついて、一匹一匹を摘み上げ始めていた。そしてそれを、いったん取り外したらしい万華鏡の底の部分に入れていく。
スパンコールやビーズなどではなく、他人の喉から飛び出た蝶を使って万華鏡を飾ろうというのだ。
変な骸骨だなぁ、とほんの少しだけ思った。
けれど同時に、まんざら悪い気もしなかった。
なぜって、万華鏡だ。
綺麗で面白いものを見たいと願う人々が覗くもの。それの仕上げに、骸骨はコトノの心の一部を選んでくれたのだ。
美しいはずだと、眺めて楽しいものになるはずだと、彼はコトノの蝶々を評価してくれたのだ。
骸骨の行動は、その証明だった。
「ほーら。できたよ?」
特別性だ。すごいんだ。彼が自慢していただけはある、不思議で素敵な万華鏡だった。
あれほどたくさんいて、大きな山になっていたはずの蝶々たちが、みんなちっぽけな万華鏡の底におさまってしまっていた。
空間の拡張性能は、どうなっているんだろう?
コトノは非常に好奇心をくすぐられたけれど、その疑問はあとにしようと思った。
それに、と思う。
あの蝶々たちだって結局、言葉だったのだから。コトノが呑み込んでしまった、悲しいものたちだったのだから。
行きたいところに行くために、大きさの伸び縮みぐらいは簡単にしてしまうのかもしれない。万華鏡に特別な空間拡張性なんてなかったとしても、あの子たちは本来的に好きな場所へ行く力を持っている。
そのはずだ。そう信じてみたいと、今日初めてコトノは思う。
万華鏡を覗くとき、コトノはひっそりと、その美しい翅を持つ生き物たちに問いかけた。
「……そこは、居心地良い?」
返事はなかった。
けれど。
万華鏡の魔法で無限に増殖した生命体の色彩は、彼女の想像を絶するほど美しかった。
きっといつまでもそうしていることはできないというのに。いつかは再び飛び出ていくことが求められているのに。それでも、今だけは。今この時だけでいいのだからと。そんな願いを込めてこの万華鏡という小さな世界に遊ぶことが、心底楽しく、幸せなのだと、彼らの翅の煌めきが教えてくれる。
「ねえ。骸骨さん」
「ん? 何かな?」
「火をつけたい」
「……校舎に?」
「違うよ、まさか。放火魔になりたいんじゃなくて……」
コトノは初めて笑った。
すらすらと言葉が喉から流れ出てくる。魔法にかけられたみたいに。
真夜中に、ゆっくりと廃墟になっていくばかりの場所へ忍び込んで、そこで不思議な生き物に会って。それだけあれば全部魔法みたいなことなのに。
一番の魔法は、きっとコトノが心から笑っておしゃべりをしているということだった。
二人は、理科室の棚の奥に眠っていたマッチ棒の箱を出してきた。それから、アルコールランプも。三脚やら金網やらも出してきて、熱するものもないのにとりあえず火をつけてみようということになった。
「ガスバーナーは、ガスが通ってないからダメか」
骸骨は、残念そうに言う。けれどその瞳には、楽しそうな光が宿っていた。
理科室の人体模型として、過去にたくさん見守ってきた理科の実験は、彼も懐かしいと思っていたのかもしれない。
コトノの提案に、彼は意外なほど熱心に乗ってくれたのだった。
「水でも沸騰させられればよかったんだけどな。あいにく、水道も止まってる」
「うん……でも、いいよ。本当のところは、私、マッチも実験も、大して思い入れなかったんだと思う」
「ふうん?」
「大事なことは、もっと根っこにあったんだね」
だから、と。コトノは静かな声で言う。
「私は幸せになっていいんだ。だって私はそう決めたから」
シュッとマッチ箱と棒の擦れる音がする。
赤い炎が燃え上がる。
アルコールランプに火が灯ると、少し空気が温かくなったように感じられる。
軽くマッチを振って余分な火を消したコトノは、じっとアルコールランプの火を見つめていた。
たとえこの道具が古すぎて使い物にならなかったとしても。マッチが湿気ていて火がつかなかったとしても。
きっとコトノは気にしなかっただろう。
それでも。
小さな灯りが一つこの世界に増えたことは、コトノにとって大切なことだった。
ゆっくりと固定化して、壁際に寄りかかったまま動かなくなった骨格標本に、コトノはそっと手を触れさせた。
埃を被ったプラスチックの質感が、ひんやりと冷たかった。
彼はまた、一人で寂しい日々を過ごすことになる。そうして会話相手を求めて、再び三つに分裂するのだろう。それを防ぐことは、きっとコトノにはできない。
けれど。
少なくとも、コトノは彼のことを忘れない。
優しく愉快で、一緒にランプに火をつけてくれた存在のことをずっと忘れない。
ありがとう。
それから、さようなら。
コツン、と額をくっつけて、コトノは微笑んだ。
彼女はこれから家に帰る。
眠って、起きたら、明日が来る。
そうして、いつまでも。
彼女の灯火が消える最後の日まで、コトノはきっと彼女だけの命を生きていく。
新しい朝が訪れる刻にはまだ早い。
月明かりの夜は静かにコトノに寄り添い続けている。




