2.0:言の葉の蝶々、踊る骸骨
沈黙は金、という言葉がある。
呑み込んだ分だけ、その人の言葉は貴重になって、価値は高くなる。まるで珍しい金属のように。美しい宝石のように。ほんの少ししかないのだから、みんな大事にしてくれる。
コトノはそう信じて、暮らしてきた。
だけど。
今でもそう信じられているのか。
それが一番だと、心から笑って言えるのか。
コトノには———もう、わからなかった。
*
「マッチ擦るの、誰がやる?」
「あっ、俺やりたい!」
「えー、じゃあアンタが失敗したら私がやるからね」
「は? おいっ」
「どうどう、手を振り回すとビーカー割れるって」
「っと、ワリぃ」
「てか、それでいい? 他にやりたい人いない?」
「んー、私は遠慮したいかな。コトノちゃん、どう?」
ぼうっとしていた。いきなり話しかけられて、すうっと現実に引き戻される心地になる。……などということはない。
きちんと話は聞いていた。
自分と同じ班の人たちの会話には、耳をそばだてて集中していた。
第一化学室で白衣を着た生徒たちは、班ごとに分かれて赤ワイン(つまりは水とエタノール)の蒸留実験に取り組んでいた。
その際、ガスバーナーに火をつける役割を誰が負うかという話である。
コトノは瞬きした。
少しの戸惑いと、決断のための勇気。
なんて答えよう、と脳みそが考え始めて。
“わたしも、火をつけてみたい”
ほんのちょっと。
本当に、ほんのちょっとだけのことだけど。
コトノは思った。
喉に引っかかった小枝のように、この言葉の数珠繋ぎは彼女の胸にさざなみを起こしていた。
火をつけてみたい。
マッチを擦ってみたい。
その係を、私は請け負ってみたいと思う。
けれど。
「………」
コトノはきゅっと唇を閉じたまま首を振った。瞳にはお人形さんのように無害な微笑みを浮かべて、こっくんと唾ごと何か味のないものを飲み込んだ。
“私は別にやりたくない”
そんなメッセージを、彼らに伝える。
彼らはそっかと納得して、すぐにコトノから目を離した。すぐにさっきの調子で、彼らの間にワイワイと楽しげな会話が戻る。
「そっか。じゃあ山田頑張れ」
「絶対一発で成功させてやるかんな」
「元気だねえ……いやバカにしてないから。危ないからマッチに集中してったら」
「あ、袖まくったら?」
「うっせえな! 黙ってみてろ!」
「へいへい」
これでいいんだ、と。
コトノは思った。
火をつけたい、などというセリフは。圧倒的に、最初に言ったもん勝ちである。
高校生にもなって、本気で揉めてしまうのはあまりにも子供っぽくて。だから冗談めかして、道化のように、「はいはい俺がやりたい!」と主張するか。はたまた、「実はわたしやってみたかったんだよね……いい?」みたいに大人っぽく周囲に頼むか。
そのどちらもできないコトノは、周りの全員がお膳立てしてくれないと、こういうものに参加できない。
四人班のメンバーのうち三人が「実は火が怖くて……」「火傷をしたくないから……」「コトノちゃんお願いしてもいい?」と一致団結して頼んできたりでもしない限り、彼女にチャンスは回ってこない。
それに、と。重ねて彼女は思うのだ。
こんなちっぽけなことなのだから。これはコトノにとって、さほど大事なことではないのだから。
だから彼女は、自分の気持ちを呑み込んだ。
だって本当に大事なら。どうしても、どうしてもやりたいと願うことだったなら。
コトノは必死に手をあげたはず。
うまく回らない口を開いて、やらせてくださいと同じ班員のメンバーたちに頼んだはず。
だけどそうはならなかった。
ガスバーナーに火をつける役割で揉めるより、もっともっと大切なことはいくらでもあるから。
……そうやって。
一つずつ、降り積もってゆく。
人形よりも無口な少女の言葉は、しんしんと雪のように天を舞い、宙を泳いで、そうして大地へと降りてくる。
海に落ちたひとひらは溶け込んで、それでも消えずに、しょっぱく残り続けている。
心の奥底に沈んだコトノは、きっと固く目を瞑っていた。
同じように口を貝のようにつぐんでいた。
何もしない。できない。
コトノはきっと、本当に大事なことを言いたい場面でも、もう何も言えない人間だった。
その事実を、見ないようにしているだけで。
彼女の口は、縫い合わされたように動かない。
『吉川っち発見! ねえねえ、一緒にお弁当食べよ〜』
“わたしも一緒に食べたいよ”
『猫飼ってるんだけどさぁ。写真見る?』
“わたしも猫を飼ってるんだよ。写真もあるよ”
『おかえりー、夕ご飯食べよう! 今日はスペシャルなアジフライだよ!』
“……油っぽいもの、私はあんまり好きじゃないんだよ”
『コトノ、お風呂先入っててー』
“本当は最後に入ってみたい。真っ暗な中で、好きなだけのんびりしたい”
ちっぽけで。ささやかで。まるで、何でもないことばかり。
だけど。
……呑み込んだ。
その事実だけが、それらをきっと重くする。
コトノはその日の真夜中に、ふっと目を覚ました。
最初は夢を見ているのだと思った。
実際に、夢を見ていたのかもしれなかった。
ベッドの上で。夜の暗闇に覆われた天井に、鮮やかな色彩が映っていた。ひらひらと舞うそれらを、コトノはぼんやりと見つめていた。
そうして気づく。
それらは、幻の蝶々だった。
そして蝶々は、なんとコトノ自身の喉から吐き出されているのだった。
慌てて口に手を当て押さえ込もうとして、ふいに、ハッとコトノは気がついた。
“———わたしの喉に詰まった言葉は、夜になると美しい蝶になって逃げ出していく”
ごぽり。ごぽ。
ごっ、ぽぽ、ごぽっ。
ぽぽぽっ。ぽぱっ。
これは私だ。私の言葉たちだ。
きっとそうだ。
不思議な確信があった。
蝶々たちの姿は懐かしく、悲しく寂しく、それでも自由の煌めきを孕んで美しかった。
次々に自分の喉からほとばしって吐き出されていく言の葉の蝶々の勢いに、コトノは目を見張っていた。
最初は本当にものすごい勢いだった。炭酸水を振ってシュワシュワと泡が噴き出すが如く。あっという間に生産されていくのだった。
けれどもちろん、だんだん尽きてゆく。喉から新たに飛び出していく蝶々の勢いが衰え、一匹、二匹と、その動きがゆっくりと見えるようになっていく。
それでも、一度吐き出されたものが消えることはない。
言の葉の蝶々たちは、ただひらひらと天井近くを踊っている。
するり、と。
コトノはベッドを抜け出した。
蝶々たちが、どこかへ行きたがっているのを感じたからだった。
自分はそれについていかなければならない、という義務を感じたからだった。
そうしなければ、蝶々たちは案内役ができないから。
一連の直感について、理屈はうまく説明できない。言葉を呑み込みすぎて、コトノは言葉以外の感覚による勘が鋭くなっていたのかもしれなかった。
蝶々たちが飛んでいく。
舞いながら、飛んでいく。
部屋のドアをすり抜け、廊下を舞って、玄関へ。そのまま、夜風の吹くアスファルトの街へと抜け出してゆく。
コトノは、小川のほとりを歩き、花の咲いた木の下を通り、車のビュンビュン走る駅前の通りをジグザグに抜けて、次第に人のいない空間へと惹かれるように進んでいった。
どこへ向かうかなんて考えない。
最後にゴールしたところが、目的地だった。
蝶を追いかけ、ひたすら走って歩いてまた走って、そうしてコトノがたどり着いたのは、錆びついた校門の前だった。
薄れかけた文字が浮かんで見える。
『硝子坂中学校』
何年も前に廃校になったところだ。と、コトノは思った。
少子化が進んで、ここらの小学校と中学校は二つが一つに統合された。
だからコトノは、この中学校に通ったことはない。
それでも、中学校の文字は、コトノにかつての友だちのことを思い出させた。
高校に上がってから、コトノは仲良しだった彼らの多くに会えなくなった。
寂しい。
けれどもその事実に、安堵している自分もいたのかもしれなかった。
みんな、三年間で信じられないほど大人っぽくなった。卒業式で、すらりと背の高いみんなは体だけではなく心の底から成熟していた。大人の色香を醸し出して、社会に溶け込んでいく余裕を見せて。それでも馬鹿騒ぎをするだけの、無邪気さをも失っていなかった。
少なくとも、コトノの目には、そう映った。
コトノは、取り残されたような気持ちだった。
廃棄された校門の前で、コトノはしばらく黙ったまま佇んでいた。
さすがに、ここから先を進むのはルール違反だという気持ちがあった。誰かに許可を出してもらわないと、入ってはいけない場所。不法侵入者。そう呼ばれる人に、なってしまうから。
けれど闇夜の蝶々は、次々に廃校の校舎内へと飛び込んでいく。早くおいでよ、と言うように、アピールのダンスが披露されている。
あまりにも体重が軽いから、蝶々がコトノの体を押しても、彼女を動かすことはできないと彼らは知っている。だから本当の意味での強引さはそのダンスにはなくて、けれどその分だけ、切実だった。
“お願いだからこっちへ来てよ”
そう蝶々たちは言っていた。コトノがいつも心の中だけで願い事を言う切実さで、蝶々は彼女を中へと招いていた。
ついに意を決して、コトノは顔を上げた。
校門脇の小さな扉を押して、錆びついた金属音を無視してそれを押し通す。そのまま一歩を踏み出して、するりと中へ入り込んだ。
通う生徒がいなくなってしまった学校。
取り壊しの処理すらなされずに、廃墟化を待つばかりの寂しいところ。
……それでも、こうして訪問者はいるのだった。
蝶々たちを追いかけて、そうしてたどり着いたゴール地点は、理科室だった。




