1.1:瓶底を覗くフレンドシップ
夕暮れの穏やかな陽光が、街全体を黄金色に染めていた。
家々は斜めの屋根に守られて、限りなくゆっくりと古びてゆく。仄暗い石畳に、赤いポストの影が伸びていて、蟻の行列が溢れた黒砂糖に向かって這っている。床屋の看板が色褪せ、そばにくるくると回っているのは白と青と赤の三色サインポール。どこからか聞こえるセミの鳴き声はオルゴールのように不思議な響き。
コナギはあまりに懐かしく、それなのにどう記憶を辿っても一度も見たことはないと確信できる景色を前に、茫然と立ち尽くした。
彼女は遠慮がちに、ここまでコナギを連れてきた少年に尋ねてみる。
「……あの、ここは?」
「ぼくが普段いる世界だ。本当は、ぼくはここから出られない。今日は特別だった」
少年の声は、きちんと抑揚があるのに、どこか淡々としているように聞こえてきた。
コナギが横へ顔を向けると、いつの間にか少年もじっとこちらを見ていた。
コナギは少年に聞きたいことがたくさんあって、しかし全部は聞き尽くせないことも理解していた。
試しにコナギは、一番初めに思いついたことを聞いてみることにした。
「ここは、あなたの故郷?」
「……どうなんだろう。あるいは、そうなのかもしれない」
曖昧で、あまり要領を得ない返事だった。
けれど不思議と、コナギは不満には思わなかった。
「わかる。私も……初めてここへ来たような気がしないから。ここにずっと住んでいて、それで『ここはあなたの故郷か?』なんて聞かれたら、頷いてもいい気分になると思う。本当は、そうじゃないはずなのに」
「わかってくれる?」
「うん」
少年が複雑そうな視線をコナギに向けた。
出過ぎたこと言ったかな、とコナギは言って、小さく笑った。
少年が首を横に振ったので、コナギは安心した。
出し抜けにコナギは、少年に語りかけた。
「私はコナギ。あなたの名前は?」
「ぼくは……まお」
まお。
小さな声で、繰り返してみる。
口の中で転がしたその言葉は、まるで飴玉のように甘酸っぱかった。
なんだか哀しいような、愛しいような、わけのわからない気持ちが溢れ出してくる。
「まお。ありがとう」
コナギは、郷愁という名がついたような幻想の街をぐるりと見回しながら、囁くようにそう言った。
驚いたような顔の少年の顔を見たその瞬間が、コナギの愛の始まりだった。感謝の言葉を贈ることの幸福を、彼女は生まれて初めて知ったような気持ちだった。
児戯と揶揄いと本気の慈しみが混じり合って、コナギはいつになく優しい心に染められていた。
「すごく嬉しい。私をここへ連れ出してくれたまおに、私の人生で一番のありがとうをあげたい」
見ればまおと名乗った少年は、茹でエビのように真っ赤な顔になっていた。
コナギはくすくすと笑った。
二人は、手を繋いだ。
そして不思議な幻想の街を、奥へ、奥へと駆けていった。
まおにとっての見慣れた街。
コナギにとっての見知らぬ街。
そこを探検していくのは、新たな発見だらけの楽しい経験だった。
「……けっこう、たくさん人がいるんだね。あんまり予想してなかったかも」
「ここには星の数ほどの住人がいるよ。ぼくはそのうちの一人だ」
「仲がいい人とか、いるの?」
「どうだろう。ぼくは正直、ここに馴染めていない気がするな」
「寂しい?」
「少し」
影法師のような人間たちや、希薄な気配をまとった人間たちや、コナギにとっての現実世界にいるのと全く同じ姿をした人間たちや、ちょっと奇抜な格好の人間たち。
ここには色々な人々がいて、彼らはそれぞれにふさわしいことをしているのだった。
窓を磨いている人。犬を散歩させている人。お店番をしている人。屋根の上に登って、ぼんやりと空を見上げている人。海苔巻きと胡麻パンを片手ずつに持って、見比べている人……。
みんな好きなようにそれぞれの時間を過ごしている。
それはとても、良いことのように思えた。
そして表通りに出てみると、コナギは面白いことに気がついた。
「あれ。これって……」
「夏祭りだよ。こっちの世界でも、きみの世界でも。お祭りは同じ日にあるんだ」
「そう、なんだね」
しばらく、遠くからそれを眺めてみる。それからコナギは、小さな声で尋ねてみた。
行ってみてもいい?
もちろんいいよ、という返事はすぐに返ってきた。
その瞬間に、コナギは弾かれたようにそちらへ向かって走り出した。あっ、ちょっと待って、というまおの声がすでに遠くから聞こえてくる。
それでも彼女は止まらない。絶対に止まりたくなかった。
風よりはやく走って、全部を置き去りにして、向こう側の輝きのもとへ辿り着きたいと願った。
それはきっと、今回ばかりは大丈夫だと確信したからだった。
街のお祭り。夏の行事。
大きい音が苦手だったから、全然好きになれなかった。
でも。
きっと。
この絵画のように静かで美しい世界のお祭りなら……
「———お嬢さん。アイスクリームは一つ、いかがですか?」
ヴェールを被った少女による涼やかな声が耳を打ち、コナギは驚いて振り返った。
白い天使のような、控えめでとても可愛らしい女の子。
きっとコナギと同じくらいの年齢で、けれど、不思議な深い瞳をしている。彼女のワンピースの裾からのぞくほっそりした腕や脚は傷もシミもなくて綺麗。そんな子だった。
まさかこんなにすぐに声をかけられるとは予想していなかったコナギは、遠慮するように一歩下がった。
「あ、……私は。その、お金が、なくて」
「ここではお金なんて大事じゃないんですよ。だって、みんな、優しくて。親切で。世界だって同じように、優しいから」
ほら、と少女に促されて周囲を観察したコナギは、目を見開いた。
それは、確かに少女の言う通りの世界なのだった。
誰も、お金を大事だなんて思っていない。財布から思い思いに錆びた金属を出して、それがいくらであっても気にしない。幼い子供からは、何も受け取らずにお菓子をプレゼントする。
大事なのは優しさだけ。
誰かに贈りたいとか、贈られてみたいとか、そういう素朴な気持ちを大切に育てる。
この世界そのものが、その成立を許してくれる。
奪い合いなんて、取り合いなんて、しなくていい。そういうことをしたくない人ばかりを集めて、甘やかす装置のようにこの世界は存在している。
目の前の少女は、にこりとコナギに笑いかけた。
「ね、私があげたいから、あなたに聞いてみるんですよ。アイスクリームを一つ、いかがですか?」
「そういうことなら……お言葉絵に甘えて、一つだけ」
少女が売るアイスクリームは、真っ白で雪みたいな色をしていた。
純真無垢な花嫁衣装のようなそれを、両手で受け取ろうとした、そのときだった。
アイスクリーム売りの少女が、突如目に怒りを閃かせて叫んだ。「———まお!」
え?
コナギは混乱した。
目の前にするりと滑り込んできたのは、いつの間にかはぐれていて、しかしたった今合流したばかりのまおだった。
コナギは驚いて目を見開いた。少女の手から、アイスクリームが叩き落とされた。ぐしゃり。地面と自重に潰されたお菓子の残骸が無惨に飛び散る。
当然のように、少女は鬼の形相を浮かべて怒っていた。
しかし、まおのほうも全く負けていない。彼は全力で歯を食いしばって少女を睨み返し、その拳は力を込めすぎて爪が食い込んでいないか心配になるほどに握りしめられていた。
彼は悲しんでいるのか怒っているのか、わけのわからない感情を込めて少女に怒鳴った。
「ダメだ……それだけは、ダメだろう!」
「何がダメなのよ! まお、友だちが欲しいって言ってたじゃない! 今更本気じゃなかったっていうの!?」
「一夜限りの夢だって言っただろう! いくら本気でも、超えちゃいけない一線というものはあるんだ!」
「わからずや!」
「こっちのセリフだ……!」
熾烈な争いが始まった。
コナギはただ茫然と、二人の口論を眺めていた。
ふいに、目を瞬いた。振り乱してほとんど剥がれたヴェール、新しいアイスクリームを持った手。いつの間にかまおを振り払ったさっきの少女が、いつの間にか至近距離へまで近づいていた。
コナギの腕を、ものすごい腕力で掴んでその少女は低く唸る。
「いいわ。そっちがその気なら、無理矢理にでも」
「逃げろっ、コナギ!」
獣の目をした少女の手は、再び間一髪で間に入った少年の手によって振り払われた。まおが切羽詰まった様子で甲高く叫ぶ。
「はやく、はやく! はやく逃げるんだ!」
「でも」
「こっちだ!」
どこへ行けば、という問いが口から出る前に、まおはコナギの手を取って走り出していた。
二人で手を繋いで走ると、驚くほどのスピードが出た。ひんやり冷たい彼の手から、無限の燃料が供給されているかのようだった。
恐ろしい速度で流れる景色を眺めながらの逃避行は、しかしあっという間に終わってしまった。
「ほらっ、ここ!」
ふいにまおがそう言って、コナギの背をドンと強く押したのだ。
茜色に照らされた田畑。枯れかけの草野に点々と、前脚に顎を乗せてまどろむ牛たちの影。誰かが割ったお茶碗が土の上に転がっている。小さく咲く雑草の花。
窓から灯りの薄く漏れ出る、一軒の古民家の裏側。
そんな平和な田舎の風景に、穏やかに佇む井戸。その中へと、まおはコナギを突き落としたのだった。
あっという間もなかった。
「目をつぶって! 追いつかれたくなければ!」
畳み掛けるように下される、まおの指示。
コナギは反射的に目を閉じて、しかし離れてしまった彼の手の感触を追いかけるように思わず手を伸ばした。
アイスクリーム売りの少女とまおが揉み合う音が、かすかに遠くで聞こえたような気がした。
それはすぐに海鳴りのようにくぐもった低い音になる。
ぎゅっと目を閉じたまま、コナギはひたすらに落ちていった。
いや。
あるいは浮き上がっていたのかもしれない。
わからない。
浮遊感。海の中や、宇宙の中。
そんな、今まで一度も行ったことのない場所を旅しているような感覚。
そして、
……目を覚ます。
気付けばコナギは理科室の水道場の前で、横倒しになったビーカーが作った水たまりをぼんやりと眺めていた。
冷房から吐き出される風が、コナギのつむじをボウボウと冷やしていた。
ぼんやりと、コナギは思う。
今見ていたのは、白昼の夢?
いいえ、と彼女自身の心がそれを否定する。
きっと違う。
違うのだ。あれは。絶対に。
コナギは、よろめくように立ち上がって、ゆっくりと辺りを見回した。
時間は過ぎて、黄昏。
もうすぐに日が落ちてゆく。
薄闇が忍び寄って、夏の暑さがほんのわずかに和らいでくる。そんな時間帯。
あの半透明の少年の姿がよく似合いそうな、そんな時間。
「まお……いないの?」
誰もいない理科室の中。
コナギは囁くように、その名前を呼んでみた。
返事はなくて。
ただそこには風が吹いて、埃が舞った。
会いたい、と思った。
二度も三度も会えない人間ばかりが、恋しくなる。手を伸ばしたくなる。いつも会えると知っている人たちを、なぜだか好きになれないコナギは、本当にいつも悲しかった。
そのことに気づいてしまった今は、人生で一番寂しくて悲しくて辛かった。
「会いたいよ……」
うずくまって、コナギはいつの間にか泣いていた。
いつもそうだった。
一人ぼっちでうずくまる。誰もいないところに逃げていって、それから寂しくてたまらないとメソメソする。暗い倉庫で涙の水溜りを作る。
どうして私は、こうなんだろう?
泣きながら手の甲で涙を拭いて、コナギは立ち上がった。
細長い影の伸びる廊下を歩いて、校舎の外に出る。それから校門をくぐって、学外にも出る。とぼとぼと歩く。もう街は静かだった。夏祭りは終わって、名残のようにひょろひょろと少し笛が鳴っているだけ。
涙は枯れて、しゃくりあげる衝動もおさまって。気持ちもゆっくりと落ち着いてきた。
そうして。
ふと、誰かに背中を押されたような気がした。
立ち止まって、振り返る。
誰もいない。
「………」
再び、歩き始める。
ゆっくりと力が抜けて開かれたコナギの手から、音もなく小さなビー玉がこぼれ落ちた。
それは薄い水色のガラスの球体。まおと名乗った不思議な少年が持っていたもの。
ビー玉は、アスファルトに当たっても、物音一つすら立てなかった。
少しばかりコロコロと転がっていって、ひとりでに止まる。
透明な贈り物。
落とし物。
忘れ物。
暮れていく街の片隅に、誰かの思い出の残響が静かに眠りゆく。




