1.0:瓶底を覗くフレンドシップ
……テニスコートが黄緑色にだだっ広い。
広くて。
寂しくて。
あ。そっか。
コナギが水筒やテニスラケットやらを持って学校に辿り着いて、それから他の部員が来るまでしばらく待とうと思って。その辺の石段に腰を下ろして足をぶらぶらさせて。
そうして十分くらい経ってから、ようやく気づいた。
今日って部活が休みの日だったっけ。と。
理由は思い出せなかった。ただ、OFFだから間違って来ないように気をつけろよ、と顧問の先生に言われたことだけを覚えていた。
テニス部を取り仕切る若い男の数学教員は、日避けの帽子が絶望的に似合わないことを除けば、とても優秀なテニスプレイヤーでありコーチだった。
だからついこの間まで初心者だったコナギも、ヘニョヘニョのサーブレシーブやスマッシュぐらいならできるようになったのだ。先輩たちのように、キレッキレのプレーができるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだったけれど。
誰も来ないので、しいんと静まり返ったテニスコートがじっとこちらを見ているような気がする。
人工芝にも、半透明のサラサラの砂にも、虹彩も瞳孔も何もないのに。
それなのに、不思議に視線を感じるのはなぜだろう。
コナギはだらんと緩めたネットが中央に陣取るテニスコートを、何度も何度も舐めるように眺めていた。
八月の二十九日。
夏休みが終わるまで、あと数日というところだった。
貴重な休みの時間を削って学校へ歩いてきたのに、練習がないからってハイGo back home!では悲しすぎるとコナギは思った。
友達が来ないかな。
同じように、間違えて練習へ来てしまう部員はいないかな。
そんなことを思いながらさらに十五分待ってみて、けれど誰が来ることもなく。
コナギはとうとう諦めた。
熱い。
空気も、地面も。
蒸しエビになっちゃう。
だからとにかく、暗い日陰のあるところへ。
テニスコートではないどこかに、行かなくては。
そういうわけで、コナギは数分の後、校舎の中をトコトコと歩いていた。
下駄箱で外靴を脱いで、白い靴下のまま、廊下へ上がってしまったのだ。
どこに行こうかな。
どこでもいいな。
施錠されていない、けれど誰も中にいない、そんな都合のいい教室を探していたら、意外なところにそれを発見した。
『理科室』
あまり迷わなかった。
ガラリ、と戸を開けた。コナギは思ったより大きな音が鳴ったことにびっくりして、けれどどうせ誰もいないのだからと、すぐに心を落ち着けた。
廊下を歩いてきた教員にばったり出会う、なんていう不運もなかった。
どんな薬品やガラスの破片が転がっているかわからない、そんな教室だったので、できれば上履きを履いてくるべきだったかなとコナギは後悔した。それでも、今からとってくるのは面倒臭い。無精な性格なので仕方がない。
コナギは、授業で普段使うときとは全く違う薄暗い静けさを吸い込みながら、ゆっくりと机や椅子の間を歩いた。
少しばかり、心臓がドキドキしていた。
コナギは普段、あまり冒険をするような少女ではなかったから。
「———暑くない? 冷房をつけておこうか」
ふいに声をかけられた。
予想外の出来事にびっくりして、コナギはパッと振り向いた。
小柄な少年が窓辺に佇んでいた。
彼が着ているのは、水色のチェックの襟つきシャツ。紺色のジーンズ。
そのポケットに片手を入れている。
そして。
透けている。
「……ゆ、」
「ああ。幽霊じゃないんだよ。ぼくは」
その少年は、ポケットに入れていないほうの手をひらひらと振って否定した。
コナギは目を泳がせた。
「でも……」
「それよりさ。暑くない?」
少年はさらりと提案した。
コナギは黙って瞬きをして、少年の言ったことについて考えてみた。
じんわりと首筋に滲む汗。ぴったりと閉まった窓。停滞する教室の中の湿気と温度。
金魚鉢の中よりゆっくりと時間の進むようなこの空間で、コナギは静かに脳みそをぼんやりと熱し続けている。
最終的には、コナギはこくりと頷いた。
もうちょっと涼しくなりたい。
素直に、そう思ったから。
少年は歩いていって、壁に取り付けられたエアコンのスイッチを入れた。ピピ、と小さな音がした。
しばらくは機械は何も動かない。待っていると、ゴゴーゥと冷気が吹き出し始めた。
コナギは、ちょっと目を細めて、少年に「ありがとう」と言ってみた。
「……涼しい。最強に。冷蔵庫開けたときみたいに良い気持ち」
「それはよかった」
体の透けた少年の表情は、どこか読み取りにくいものだった。
彼は何気ない調子で、ポケットに入れていた手を出した。その手のひらには、ポケットの中から取り出したのだろう、薄水色のビー玉が乗っかっている。そのまま、ころり、と転がしてみせる。
そのまま、そのおもちゃを弄び続けている。
半分くらい透明でも、少年の横顔は、まるでただの人間のように全部が揃っていた。
長いまつ毛が、瞬きと一緒に動く。
ほんの少しカサついた唇が開いて、ふいに彼がコナギに疑問を投げかけた。
「ねえ、きみ。今は休みだろう。どうして理科室に来ようと思ったんだ」
「部活動が休みで。それで、なんとなく、暇を持て余して……」
コナギは途中で言葉を切った。
あれ。
でも、なんで休みだったんだっけ?
コナギは口ごもった。そこがずっと思い出せなかった。
少年は全くうろたえずに、さらりと言った。
「つまり。地域の夏祭りだから、今日の練習は休みだったのかな」
「……そうだった」
あまりにもあっさりとしすぎていて、コナギは逆にびっくりした。
そう。そうだった。
今日はお祭りだった。この町の大事な祭りだった。
じゃあどうして、そこに行かなかったのかといえば、それは簡単なこと。
コナギはそんなに興味が持てなかったのだった。
大きな音が苦手だから。太鼓の音も、笛の音も。子供たちの歓声も、盆踊りの合いの手も。屋台の客引きの声も。
全部、全部。
鼓膜にうるさいお祭りの日は、嫌いだった。
だから、忘れたふりをした。
お祭りなんてないというふりをした。
忘れたふりが上手すぎて、自分自身で本当に忘れていたことだった。
コナギは、少年に問いかけた。
「……なんで、そんなに何でも知っているの?」
「ぼくは、ちょっと特別だから」
「何が?」
少年は、薄く片眉を上げた。見れば、わずかに唇の色が薄くなっていた。噛み締めているのだ。「……知りたい?」囁くような声だった。
「もし、きみが。ぼくを知りたいと、願うなら」
「うん。知りたい」
コナギは即答した。
少年は、ゆっくりとその返答を噛み締めるようにした。そして、手招きをした。
「……そう。……なら、こっちだ」
少年は、コナギを水道のほうへと誘導した。戸棚からビーカーを一つ、出してきて、少年はそれに少しずつ水を注ぎ始めた。
とぽとぽ。
とぽとぽ。
とぽとぽ。
コナギは、なんだか夢を見ているような気分になっていた。
小さな水音が可愛らしくて、ささやかで、今までに聞いたことのないもののように思えた。
花びらが、足を生やして、薄い泥の上を歩いたなら。こんな音を立てるのかも。
あるいは赤ちゃんのおへそ。ヘソで茶を沸かすということわざをそのまま実行しようとしたら、こんな可愛い沸騰の音がするのかも。
ともとも。
ともとも。
ともとも。
水がひたひたになっていく。くるくると波紋が生まれては消えて、また生まれて、また消えて。だんだんと幻影のように不思議なものたちが見えてくる。水面に、そして、水の奥深くに。こぼれるように夢や幻の欠片が浮かび上がってくる。構成されていく。
だんだん。
だんだんと、景色のぶれがなくなって。
綱渡りの糸がピィンと張った瞬間のように、完全な静けさをそれは取り戻して———
「……行くよ」
「わっ!?」
ぐいっと、コナギは腕を引っ張られた。
びっくりしている暇なんて、実際はほとんどなかった。
「えっ、ビーカーの中、……っ」
気付けば、コナギは少年と一緒に、水の張られたビーカーの中へ転がり落ちていた。




