10.0:水面のワルツ
早朝。
公園の噴水は薄く広く、澄んだ透明な光を反射している。
噴水と言っても、中央でコポコポと幼児の身長くらいに情けなく出てくる水があるだけで、あとは十メートル四方に人工池のように貯められた浅い水場が広がっている。
そのほとりにゆかりは座り込んでいた。
黒粒混じりの石の冷たさが、地面に触れた膝や脛から這い上がってくる。
ゆかりの他に、ここには誰もいない。
誰も来ない。
ひたすら静か。聞こえるのは水の音だけ。
だからここが好きだった。
ゆかりは成長するにつれ、自分の境遇について、ようやくその全容を把握し始めた。
幼い頃の彼女は、ぼんやりしていたし、自身を取り巻く世界についてあまりにも無知だった。
虐待だとかいじめだとか、周りの大人は色々なことを言うんだな、などと思っていた。あまりきちんと理解できなかったけれど、でも、今までの自分の不幸せは、全然普通のことじゃなかったんだ、ということだけはわかった気がした。
きっと何か難しい世界の法則が働いて、複雑なことが起きて、だから自分は毎日が楽しくなかったんだと。
そんなことをぼんやりと考えていた。
行政だとか専門家だとか、これまた当時の彼女ではよくわからなかった場所からの手助けがあって、辛かった現実は少しずつ変わっていった。
父はお酒を飲まなくなったし、殴らなくなった。出ていってしまった母は戻ってこなかったけれど、残された親は随分と優しくなった。
さらには当時通い始めていた小学校でも学級集会が開かれて、クラスメイトはゆかりにちょっかいを出すのをやめた。何かを取り戻そうとするかのように、友達になりたいと名乗り出る子もいた。今までごめんねと謝ったその子は、最近流行りのシール交換で集めたという特別可愛くてキラキラなシールをいっぱいくれた。
でも、ゆかりは覚えている。
失敗をしてもしなくても、笑っても泣いても関係なく、顔を見ただけで怒鳴りつけてきた親の声を。
自分の悪口を言って楽しそうに笑っていた子供の顔を。
ものを隠されたことに気づかなくて、必死に探し回る自分を遠くから見下ろす冷たい目を。
いなくなった母を探そうとして、夜になるまで歩き回った街で、ふと見下ろした足元に三匹の蟻が這っていたのを見つけたときの言い知れぬ寂しさを。
覚えている。
ずっと覚えている。
小学校を卒業して中学校へ進み、空手に打ち込んだおかげで喧嘩をすれば親にさえ勝てるフィジカルを手に入れた今でも、あの頃のことが忘れられない。
記憶に焼きついた悲しみ。苦しみ。孤独。隠された嗚咽。透明な涙。
いらない。
あんな記憶なんていらない。
弱かった自分。苦しかった自分。認めたくない。何も悪いことなんてしなかった幼い子供が、単なる運の悪さで不幸になったなんて、そんなの信じたくない。
憎悪でもいい。復讐心でもいい。確固たる何かが欲しかった。
なんで自分を傷つけたものたちに中途半端に人間らしいところがあったのか。それを受け入れてしまえる自分の心の広さなのか狭さなのかわからない、柔らかな部分も嫌になる。
この薄っぺらな世界が嫌いだった。
人間なんて生き物は、大嫌いだった。
手を伸ばす。水面に触れる。
ゆかりの影は、噴水が吐き出した透明な水の中へ溶けてゆく。影だけでも逃がしたい、どこか遠くへ。そんな思いで水へ五本の指をそっと置く。
そうして起こる変化をじっと見つめた。
最近、ゆかりは毎朝これをやっている。誰にも言わずに、ただ一人で、続けている。
初めてこの噴水の特別性に気づいたのは、だいたい二週間前くらいのことだったように思う。
ふと覗き込んだこの噴水の水の中に、ゆかりは幻想的な街を見た。
ここではないどこか。
優しさと温かさと懐かしさが同居する不思議な場所。
黄昏の光が、セピア色の写真みたいに溢れていて、多種多様な家や店の看板は風と雨にさらされて古びている。
その街を歩く人々や、時折横切る不思議な生き物は、どこか今のゆかりと同じ哀しみの色彩を纏っているように見えた。
その時水面に映っていたゆかりの影は、あっという間にその街へ飛び出していって、その住人たちに混じって歩き出した。
ゆかり自身は、そこへ行くことができない。ただ眺めるだけ。
けれど、影は自由だった。何でもできる。不思議に懐かしげな別世界へ行って、楽しそうに遊びまわる。
今日も同じ。ゆかりは自分自身の影を、幻想の街の中へ解き放った。
それが遊び、交流し、うたた寝さえする姿を、じっと見下ろし続ける。
時間が溶けていく。
幸せも不幸せもない時間に身を委ね、ただ眺め続ける。
「———ねえ。あなた」
誰もいない、と油断していただけに、ゆかりは驚いて肩を跳ね上げさせた。
現実の音が耳に届く。
パッと背後を振り向くと、そこにはまるで絵本の世界から飛び出てきたかのような、派手な装飾のドレスを身につけた少女が立っていた。
少女はどこか光に透かされたような、半透明の幻想に包まれているように見えた。
呆然とするゆかりの前で、少女は指をさした。
「それ。あんまりおすすめしないわよ。別に止めはしないけれど」
それ、と言った少女の指は。明らかに、噴水が溢れさせた水の奥を指していた。
ゆかりと同じく、この少女の目にも幻想の街が見えているのだ。
「ああ、失礼。自己紹介が遅れたわね。私、『透明の国の魔法使い』っていうの」
「………」
「反応が薄いわね。ふむ、元々無口なだけかしら。まあ何でもいいわ」
透明の国の魔法使いと名乗った少女は、確かにこの世のものではないように見えた。
見間違いでなければ、さっき少しばかり足が宙から浮いていたようにも見えた。すぐに地面につけ直していたけれど、きっといつでも空中浮遊が可能なのだろうとは思う。
ゆかりにだけしか見えないはずだと思っていた幻想の都市がこの少女にも見えたことからしても、きっと彼女はただものではない。
少女は、「特別な警戒も安心も必要ないわ。口うるさいご近所さんがちょっとお節介しにきただけ、ってな感じだと思ってちょうだいな」などと言って、腰に手を当てた。
「それで、私からのアドバイスなんだけれどもね。寂しいのなら、きちんと誰かにそう喋ってみるべきだわ。あなたが心を開ける……じゃなくてもいいけれど。そうね、『あの人には忘れられたくないな』って思えるような……旅に出た後に思い返して少し寂しくなるような? そんな人は、誰かいるかしら?」
「………」
ゆかりが黙りこんでいるのを見て、少女はこほんと咳払いをした。
「えーっと、じゃあ、人間じゃなくてもいいわ。スケッチブックとか、楽器とか? あなたの場合は空手の道着とかかしら? むしろ可愛いシールとかストラップ系統? なんでもいいのよ、結局は。他に好きなことはあるかしら? そういえば、猫でも飼う気はあったりしない?」
「………」
ゆかりは全部に無言で応えた。
たくさんの問いを投げかけた少女は、ふっと息を吐いた。
「まあ、言葉で説得できるようなケースは極々稀だから仕方ないわね。そもそも境界線を跨いでの移住者なんて、在り方としてはちょっと歪だけど案外ありふれた存在でしかないわけだし……むむ、あなたみたいなタイプは、道連れとか引きずられとかを引き起こしそうだから声かけたけど、本人の心が拒絶するとなると結局は打つ手なし、と」
独り言なのか何なのかよくわからない言葉を長々と連ねた後、少女はゆかりに向かってふわりと笑いかけた。
「ねえ、なんで今になって私がここに来たのか、あなたはわかるかしら?」
「………」
「ほら。それよ。今、『声を出そう』ってきちんと思ったのに、その思考がすぐ溶けて消えたでしょう。危険な兆候よ。現実のあなたという存在が薄れ始めている。夢を見すぎたのね、現実を見たくなかったから」
少女が水中を指差す。
ゆかりの影が遊んでいる。実に楽しそうに。彼女の夢と希望と憧れを箱詰めにしたような華やかさで。
「影が戻って来れなくなるわ。切り離されて、向こう側に残留する。それでもって、あなたの影は孤独に慣れていないのだから。帰る家も、いつも一緒にいた自分の肉体もなくしてしまえば、影はあっちで暴走するかもしれないわよ?」
「………」
少女の言う通りだった。
ゆかりの影は次第に、楽しそうに幻想世界を闊歩するようになる。その時間が長くなるほど、ゆかり自身の現実感が希薄になってゆく。
肉体と影を繋ぐ細い糸が、少しずつ見えなくなってゆく。
影をなくし、虚ろな無表情がその瞳に宿る。
そうだ。
とっくの昔に手遅れだった。
声をかけられた時には、まだ間に合ったはずなのに。
いつからこうなってしまったのか。
わからない。
今はもう、空っぽだけがそこにある。
魔法使いの少女が話す言葉が、どこか遠くの世界で鳴るようにぼんやりと響いて聞こえてきた。
「最後に助言を一つ。影を取り返したいのなら、毎年の季節祭りがチャンスよ。春と、夏と、秋と、冬。透明と不透明が、限りなく近づくときね」
では頑張って。
幸運を。
優しげなその言葉を最後に、少女の声も聞こえなくなった。
抜け殻の人形のようになったゆかりは立ち上がる。
自分が暮らすべき家に帰るのだ。
そこへ辿り着いてしまえば、二度とどこへも歩き出すことができない。そんな未来が待っていようとも。魂をなくした彼女が覚えている道筋は、たったの一つだけだった。




