10.1:水面のワルツ
肉体が歩き回る。
心はそこには存在していない。
影が呼んでいる。
その呼び声は、夢の中の誘いのように微かに響く。
耳は音を聴いている。
けれども心の耳はそちらを向かない。
祭りの日には、ゆかりの影が現実へ出てきて、直接彼女を誘いにきた。
春祭り。夏祭り。秋祭り。冬祭り。
毎年四回、純真な少女の影が現実世界に躍り出て、いつも求める自分自身を探しにきた。
そうして待てど暮らせど来ないので、影は我慢ができずに他の人間を連れていってしまった。
きっと自分が未熟だから。足りないから、主人が迎えにきてくれないのだと。そう自分を納得させて、影は今までとは違う努力を始めたのだった。
かつての自分には、信頼できる人がいなかった。
だからいつも孤独で、寂しくて、辛かったのだ。
ならば影たる自分が、より良い人間関係を築き上げる技術を身につけてみよう。
そうすれば、自分は喜んでくれるはず。
影を取り返しに、戻ってきてくれるはず。
その努力を始めた理由すら忘れるほどの、長い時間。影は『透明の国』の住人として暮らしていた。
途中で人間を攫ったり、その人間と仲良くしようとしてみたり、一緒に家を建ててみたり、獣を拾って育ててみたり、その獣が病で死んでしまうところを看取ったり、本当にたくさんのことを試みた。
もっとたくさん現実の人間を攫ってみたいという気持ちはあったものの、その度に隣の人間……名前は『まお』といっただろうか? に止められた。
彼との喧嘩は何度もした。仲直りは、できているのかどうかはわからないものの、殺し合いにはなっていないのできっと大丈夫だと信じている。
年月が巡る。
花と草と雨と星と、全ての自然物が循環する。
湿って乾いて、枯れて咲いて、こぼれたタネから次の命が芽吹きだす。
雪が降る。白く大地が覆われる。音が吸われ、傘や帽子やコートに覆われた人間たちの様子からは、二度とあたたかな風のもとで笑うことなどできないのではと思わせられる凍てついた冬の季節が包み込む。
それでも次の春はやってくる。
太陽も月も、地平の果てに消えたのち、必ず再び昇り天にその光を燦然と輝かせるのと同じように。
白い靴を履いた少女が、ゆっくりと坂道を上っていた。
眩しすぎる道のりに戸惑うように。
野菜不足で少し色の悪くなった肌を庇うように。
一歩一歩を確かめながら、歩いていく。
少し陽が傾いてきても、まだ暑い。
風通しの良いワンピースを身につけて、小さくその足を踏み出し続けるのは、かつて影を失った少女だった。
太鼓や笛の囃子。誰かがマイクを握ってステージで歌っている。冷たいジュースやかき氷を売っている屋台が長蛇の列を作っている。
ゆっくりと見えてくる、聞こえてくる、夏祭りの喧騒。
少女の足は自然に踏切の下へと導かれた。
『どうして踏切は黄色と黒なの?』
『さあねぇ。見やすいからじゃないかしら? 危ないものは、遠くからでもよく見えないと困るでしょ』
……なんてことのない会話だった。
家から出ていく前の母が残してくれた、小さな思い出だった。
小さくとも大切な思い出のもとに、『影』は立っていた。
少女の名前はゆかりといった。
自分を思い出したその証に、彼女は瞳から透明な涙を溢れさせた。思い切り振った後のサイダーの瓶を開けたように、たくさんの涙が滂沱とこぼれ出してきた。
しゃくりあげ、目から涙を拭いながら、ゆかりはもう一つの自分へ語りかけた。
「……待たせて、ごめん」
それに対して、ゆかりの影は優しく笑ったようだった。
“全然待ってないよ。今来たところだよ!”
まるでそんな軽口を言うように口元がほころんで、けれど一言も喋ることなく、影はただ軽々とこちらへ駆け寄ってくる。
影と体は再会する。
二人の抱擁が一つになり、魂は再びあるべきように縫い合わされる。
……カチャン。
影の手から転げ落ちた白い傘が、アスファルトに触れて、ガラスの楽器のような音を響かせる。
「———やれやれ。この子たちは、やっとハッピーエンディングね」
透明な手がそれを拾い上げ、コレクションに追加する。
そうして再び、日常は続いていく。
*
*
*
「いらっしゃいま……あー、えっと、お久しぶりです西田先生!」
「飲食店での偶然の出会いが多いですね。マキナさん」
「これで何回目でしたっけ?」
「四回目。でも、あなた自身が働いている店は初めてですよ」
「あはは……いえ、あの。家業なんですよこれ」
「素敵です」
「どしたん、あのお客さんマキちゃんの知り合い?」
「中学時代の音楽の先生。ほら、西田先生っていたでしょ。お母さん」
「あ〜、わかった。あの人か。合唱祭の時に見た———って、お客さん来てるよ! ほら、最近常連のラジオくん」
「いつも首からラジオ下げてるからって、お客さんにあだ名をつけるのはさすがに非常識……」
「いいから早く行ってきて〜!」
「はいはい。接客担当は私だから文句を垂れずに行ってきますとも」
「微妙に垂れとるやろがい」
「聞こえんなあ〜」
*
「最近姉ちゃんが『学校行きたくないし受験したくないし勉強も何もかも嫌だ』とか言ってなまけ出すから、親がちょっと心配しててさ……」
「そうなんだ。つばさくんは心配してるの?」
「んー。いや、俺はむしろ、良い変化なんじゃないかって感じてるんだよね。前より目に光がある感じするし、ペットボトルキャップコレクションの自慢とかしてくるようになったし」
「へえ〜、つばさくんのお姉さんって私たちと気が合いそう!」
「うん……さすがにそれは実際会ってみないとわからないんじゃないかな?」
「じゃあ会って確かめる! あっ、ついでに私、あなたの弟さんの将来のお嫁さんですよって自己紹介してあげようかな」
「っいや、それはちょっと待って! 俺、姉ちゃんに彼女がいるって言ってないし! 彼女作る気ない時にそういうこと聞かれて、バカじゃないかとか頭ポンコツじゃないかとか……なんか、そういう感じの答え方したような記憶があるから、これでイオリちゃん連れてったらめっちゃ気まずいって!」
「えー、そうかなあ。難しく考えすぎじゃない?」
「うぐっ」
「あー、そういえばアイス食べたい。安いのでいいから、どっか行って買ってこない?」
「……えっと、うん。そうだな? どこ行く?」
「スーパー!」
「安上がりな彼女だなぁ。おしゃれなカフェとかじゃなくて本当にいいの?」
「私、いつも行くお店じゃないと安心できないもん」
「なるほど」
*
「リッカがいる!? えっ、もしや私を応援するために!?」
「リッカって誰?」
「二年前に陸上部で一緒だった親友なんだけど……私が引っ越しちゃったせいで、ずっと会えてなかったんだよね。手紙のやり取りも三回くらいで終わっちゃって、あとは年賀状くらいかな?」
「その子が、客席のどっかしらにいるのを発見したと?」
「そうそう、ほら、あそこっ!」
「顔も知らんのにわかるわけないだろ……」
「ほらっ、あの端っこでプログラムを両手に挟んで祈りのポーズ取ってる黒い服の女の子!」
「顔も知らんのにわかってしまった……」
「えへへ。嬉しいなあ」
「今更だけど、あんた緊張感なさすぎるよね。一応私たち競い合うコンテスタントなのわかってる? 私は今日演奏の予定ないけど、あんたの出番はもうすぐでしょ。ていうか、あんたそろそろ控室行ったほうがいい頃なんじゃないの?」
「まだ大丈夫〜。あと一人分だけ聴いてく!」
「ハア……」
*
「コトノさん。あの、田中夫妻様方の離婚調停についての案件なんですが、私の手際が拙いため担当を交代してほしいと奥様に泣かれてしまいまして……」
「わかった。私と一緒に対応しよう。次回の約束はいつだっけ?」
「十二日の午後三時です。……本当にすみません、いつも頼りっぱなしで」
「大丈夫、大丈夫。スミちゃん一年目にしては優秀だから自信持って。それと、これからも今みたいに、遠慮なく人に頼っていいからね」
「はい、了解です」
「……ちなみになんですが、全然関係ない話をしてもいいですか」
「うん? いいよ」
「コトノさんって、いつも骸骨の絵のキーホルダーぶら下げてますよね」
「あー、うん。そうだね」
「お化け、お好きなんですか?」
「だいぶ好きかも。……って、何その嬉しそうな顔。もしかしてスミちゃんもお化けが好きだったりするの?」
「はい! 実は私、口裂け女が大好きなんです! 今度仕事終わったら、一緒に妖怪モチーフの喫茶店に行かないかって誘いたくて!」
「そんなのあるんだ……」
「あるんですよね……あ、す、すみません! 私、ちょっと趣味のこととなると暴走するきらいがありまして、というかその、私ごときがコトノさんにこのような提案を馴れ馴れしくするなんて全くどうかしてるとしか思えな———」
「いや全然大丈夫。面白そうだし、すっごく行ってみたい。ていうか行こう。明日とかどう?」
「———本当ですかっ!? 夢みたいです!!」
「ふふ、スミちゃんが元気になってくれてよかったな」
「元気いっぱいです! 本当に、本当にありがとうございます、コトノさん……っ」
*
*
*
コナギは今年の夏、ついぞ団体戦のメンバーには入れなかった。
自分より上手なチームメイトたちが頑張るのを眺めながら、灼熱の太陽の下でたくさん応援歌を歌って声援を送った。
結局、みんなで決めた目標は達成できずじまいだった。
引退試合があっけなく終わってしまった。
思い入れなんてあんまりなかったはずだけど、妙な気持ちがお腹の辺りでぐるぐるしていた。
草むらにバッタを見つけて、なんとなくしゃがみ込んでそれを見ていた。
途中で友だちに声をかけられた。
そういえば、その虫って英語でなんていうんだっけ?
答えを知っていたので、グラスホッパーだよ、と素直に返事をする。
友だちは、納得した表情を浮かべて離れていった。
少しだけでいいから、一人になりたい。
彼女はきっと、その気持ちを察して、汲んでくれたのだろう。ありがたかった。
お弁当の時間がどんどん削れていくけれど、食べる食べないは個人の自由だ。だから、ここでこうしていても大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、コナギは草むらにしゃがんだままじっとしていた。
……ふいに、肩を叩かれて、振り返った。
「久しぶり」
どう? きみは、元気だった?
と。当たり前のようにそう続けたその少年を、彼女は見たことがあった。夢のような世界で。今日のように、とても暑い夏の日のこと。おそらくあの日は、お祭りだった。
勢いよくコナギは立ち上がった。
「……まお、だよね?」
「うん」
手足がスラリと伸びてよく日焼けしている少年は頷いた。
「どうして……」
「んー。理由は必要?」
そこにいたのはいつか理科室で出会った少年だった。
忘れたくても忘れられない。
手を繋いで夢の国に連れていってくれた。永遠の黄昏の世界だった。少し恐ろしい少女にも出会ったような気がする。
彼女から逃げるため、再び手を取って走ってくれた。
もう二度と会えないと思った。
悲しかった。苦しかった。
だから、世界には『絶対』の法則があるのだと。一度見た幻に、二度と触れることは、『絶対に』不可能なのだと。そうやって、現実と理想を断絶させることで、無理やりに自分を納得させようとしてきた。
自分の初恋は実在しない人だという不幸を、ずっと噛み締め続けて生きてきた。
だけど。
そろそろ。
地に足つけて生きたっていいんじゃないだろうか?
「ううん、理由なんていらない。お帰りなさい、まお!」
「ただいま。コナギ」
この夏一番の明るい太陽が、青空に輝いていた。




