9.1:銀色の鍵、坂の途中で
そうして翌日の午後。
下校途中の坂道にて、黄昏時の光を浴びながら、古い自動販売機へコインを投入するさくらの姿があった。
「こんなことして何になるんだ……じゃなくて、うん。お小遣いの使い道に困ってたぐらいだからちょうどいい。こうして飲み物何種類飲めるかチャレンジして、カラフルなキャップを集めるっていう趣味なら、自己紹介でも使い回しがきくネタになりそうだし」
ぶつぶつとした呟きの中で危うく心と行動が乖離しそうになるのを軌道修正しつつ、さくらはピッピッとボタンを押した。ガシャコン、と転がりながら出てきたのは、フルーツティーのペットボトルである。
かがみこんでそれを取り出して、そのまま立ちあがろうとした時。さくらはふと、自分の足元に一瞬銀色のきらめきが光ったのを見た。
「ん?」
気になったものは即座に確認。
さくらが地面へぐいと目を近づけてみると、そこには今までの人生で一度たりとも見たことがないと断言できるものがあった。
「なんだこれ」
銀の鍵。
……ただし半透明。
拾い上げてみると、問題なく触れることができることがわかった。
しかしこんな鍵、十中八九実用品にはなり得ない。
子供のおもちゃだろうか? それとも、外れて落ちたキーホルダー?
きっと、放っておくのが無難な行動なのだろう。あるいは目立つところに置き直すか。
しかし、妙に目を引かれた。
置いていこうとすると後ろ髪を引かれる感覚。おくるみに包まれた赤ちゃんに、どうか行かないでとまっすぐな瞳で見つめられたような気持ち。
「………」
結局のところ、さくらはその鍵を持ち帰った。
帰宅すると弟のつばさくんが妙な荷物を肩にかけていたのは気になったが、鍵のことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
夜になって布団へ潜り込んでからも、机の引き出しへしまったはずの鍵が気になって眠れない。
何度も無事を確かめるために起き上がって、引き出しを開けたり閉めたりする。
通常なら十時には寝ているさくらは、時計の針が十二時を回ったことを認識してからいよいよ本格的に焦り出した。
なんだかおかしいぞ、とは確実に思った。
ゲーム中毒になっている同級生や、アルコールが大好きすぎてついに入院騒ぎを引き起こしたという遠い親戚の話を、なぜだか鮮明に思い出した。
鍵が気になって眠れない?
どんな現象だこれは? 鍵中毒? そんなアホみたいな診断名があるものか。
まじまじと、手に握り込んだ鍵を見る。
ふと思いついて、さくらは鍵を空中へと晒してみた。
何もない空間に鍵穴を想像して、ゆっくりと、差し込む。続いて、捻る動作をしてみる。
———カチャリ
……まさか。
目を見開くさくらの目の前に、扉としか思えない何かがその輪郭を現した。
いつか水族館で見たくらげのように繊細で透明な板。装飾が刺繍のようにさりげなく施されていて美しい。
おまけにこのドアには、ノブが付いている。
どうぞここからお入りくださいと招いているような、使い込まれた道具特有のあたたかみを感じさせる扉。
ゴクリ、とさくらは唾を飲む。
どうしよう、と思った。
目の前の扉が、誘うようにさくらのほうへキラキラと光を放っている。
しかし、きっとこのノブに手を掛けたら……いや、これを開いて、向こう側を一目見てしまったら。
おそらくさくらは二度と戻れなくなる。
「……どう、したらいいのかな」
心の迷いが、現実の口から漏れた。
引き返すことが不可能な地点。それを超えるか否かの選択は、あまりにも唐突に委ねられる。人生を形作る素材というものは、星屑のように遠くの夜空へ散らばっているように見えて、けれど突然に手の中に飛び込んできたりする。
考えている暇はあまりない。
直感と偶然と信念が交錯する。
さくらの手は、何か大切なものを求めるように宙へ伸ばされ———そして、膝の上へ落とされた。
その目はまだ、異世界への扉を見つめている。
夢見るように。
幼い子供が、ドラゴンの背に乗って空飛ぶことを夢想するように。
それでも。
「っとぉ間に合ったかな! ギリギリセーフっ!!」
なんだか派手なコスプレ(?)をした少女が、部屋の窓から飛び込んできた。
というか、ガラス戸を当たり前の顔で通り抜けなかったか? この子供。
あまりにも現実感のない事象を目の前に困惑の表情を浮かべるさくらの前で、突然姿を現した少女がこほんと咳払いをした。
「えー、はじめまして。私はですね、透明の国の魔法使いと申します」
「不審者ですね。通報します」
「ちょちょ、ちょっと待って! っていうか姉弟で反応が完全一致なのねすごいわね!?」
「弟にも手を出したのか? ぶっ殺す」
「うわ怖い!? こっちのほうが百万倍過激じゃない!?」
とりあえず話を聞いてみると、どうやら紛失してしまった『鍵』なるものを取り返しにきただけらしい。なんだ、そういうことだったなら話は早い。
やはりこれはただの鍵ではなかったらしい。異世界に繋がっただけではなく、異世界に住む魔法使いまで引き寄せてしまった。などと考えを巡らせつつ、さくらは素直に鍵を差し出した。
魔法使いの少女の手に鍵が渡る。その時点で、先ほどまで出現していた空中の扉は溶けるようにその姿を消した。
まるで初めから、そこには何もなかったかのように。
(やっぱり)
さくらは自嘲するように微笑みを浮かべた。
きっと一瞬見えてしまったあの世界は、自分が関わることすら許されない世界なのだろう。分不相応にもちょっと覗いてしまっただけ、惹かれてしまっただけで、一夜の夢でしかないのだろうとさくらは思った。
魔法使いの少女は、少しばかり複雑そうな表情を浮かべて、受け取った銀の鍵を懐にしまい込んだ。
「あのね。つばさくんのお姉さん」
「何?」
「私の仕事はね。『落とし物』を拾うこと。『落とし物』を増やすことじゃないの」
「………?」
このまま帰るのかと思えば、一体何を言い出すのだろう。
首を傾げたさくらに、なおも少女は続けた。
「鍵は劇薬。あるいは諸刃の剣。ここではないどこかに繋がる扉なんて目の前に現れたら、みんな向こう側からの魔力に引っ張られて連れていかれちゃうもの」
それなのに、と、少女は言った。
あなたは土壇場で踏みとどまった、と。
「あなたたちは、姉弟そろって本当に強いのね。心が」
「強くない」
「強いわ。さくらさんね、あなたは頭がカチコチだったから除外せざるを得なかったけれど、あるいは弟くんの代わりも務まる逸材だったのよ」
本当よ。鍵のパワーはすごいのよ。これの魅了に抗えるなんて尋常じゃないわ。
それにね、鍵があなたのところに転がってきたのはもちろん偶然なんかじゃないわ。
本来ならつばさくんのところへ引き寄せられてくるはずだったのね。そういう計算だったわ。でもあなたのお姉ちゃんパワーが……いやいや冗談じゃなくてこれ真面目な話ね? お姉ちゃんパワーが、弟くんを守ろうとして盾になったのよ。
つばさくんは幸せね。
いくら心が丈夫でも、『落とし物袋』に加えて『鍵』まで一緒に手に入れたら、踏みとどまれるかどうか……けっこう危ない計算だった。
「つまり、つばさくんを生贄に選んだと。やっぱりおまえはぶっ殺す」
「だから待ってってば!? つばさくん以外だと、ほぼほぼ100%の確率で大惨事だったのよ! ほっといても大事故が起こる確率高かったし、最善を尽くしたはずなんだからね私だって!?」
ギャンギャンと少女が言い訳をしている。
柳に風と聞き流しながら、はあ、とさくらはため息を吐いた。
今夜はあまりにも色々なことが起こりすぎている。
さすがのさくらも疲れ果てていて、すぐにでも倒れ込んで眠ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。
「もういい。あなたの用は済んだんでしょ。さっさとその『透明の国』にでも帰ればいい」
「んもう、お姉さんって冷たいね」
「つばさくんが優しすぎるだけだって」
「あー、それはそうかも?」
少女は可愛いらしく小首を傾げてみせる。彼女に向かって、さくらは即座にしっしっと犬でも追い払うように手を振った。
「とにかく行ってよ。私だって明日学校あるんだし」
「休んじゃえば?」
「そんなことしないって」
少女はなんとも言えない目でさくらを見つめる。しかし、さくらが「何?」と問いかけると、結局何も言わずに首を振った。
「それじゃあ、用済みの私はいなくなるとするわ」
「最初からそうお願いしてる」
「ふふ、あなたがたの素敵な家族愛、これからも大切にしてちょうだいね」
「言われなくてもそうするってば」
「ではご機嫌よう」
その時、ピンッと音を立てて、魔法使いの少女が指で何かを弾くのが見えた。比較的大きめの物体。
あっとさくらは目を見開く。
「え、それって……」
それは、さくらが今日購入して飲み切り、洗ってそのへんで干していた空のペットボトルだった。幽霊みたいに薄青く透き通り、淡く燐光を放っていることを除けば、ごく普通のプラスチックの塊。
目を見開いたさくらへ、少女はイタズラっぽい表情で瞳をきらめかせた。
「言ったわよね? 私の仕事は『落とし物』の回収。透明な思い出の破片、もらっていくわ」
「ちょ、待っ」
じゃあね、と薄く笑って、少女は窓を乗り越えた。
慌てて飛び起きて駆け寄ってみるも、すでに少女の影は夜空に溶けて見えなくなっている。
愕然として、さくらは窓枠に手を掛けたまま固まった。
「行っちゃった……嘘でしょ。絶対こっから飛び降りてたのに。影も形もない……」
……いや。違う。それじゃない。
あの少女がガラスの嵌められた窓をすり抜けて虚空へ飛び出していったことも、そのあとで跡形もなく消えてしまったことも、さくらにとってさほど予想外の出来事ではない。
おそらくさくらが一番驚いたのは、自分がペットボトルを盗られたごときで、こんなに取り乱している事実に対してだった。
なぜだろう? ぐるぐると思考する。
さくらはきっと、少なからず動揺していた。
あんなもの、ただのゴミなのに。
捨ててしまっても何の問題もない、何の役にも立たないクズなのに。
そんなものに、まさか愛着が湧いたとでも?
他の誰でもない、このさくらが?
その時、彼女はふと、机の上を見た。
そして、当たり前のようにそこに置かれていた小さな丸い塊を見て、何とも言えない気持ちになる。
……そうか。
透明の国の魔法使いは、蓋を残していってくれたのか。
ペットボトルのキャップのコレクション。
その一個目は、若草のように優しい黄緑色に彩られていた。
それはきっと、彼女が幼い頃によくスケッチブックに描いていた、空飛ぶドラゴンの鱗によく似た色だった。
「あー、明日本当に学校休んじゃおっかな」
一日くらい、いいよね。と。
疲労にまかせていい加減なことを呟きながら。
きっといつも通りに学校へ登校するに違いないさくらは、ゆっくりと夜の夢の国へと旅立っていく。




