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マジカル透明少女世界  作者: とかげのしっぽ


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17/20

9.0:銀色の鍵、坂の途中で


 朝ごはんのヨーグルトを食べる習慣。


 それは胃腸に良いと聞いて、うちの父親が提案したものであり。

 へえ乳酸菌ですかと頷いたうちの母親が、スーパーで毎度買い物かごへ放り込むようになったものであり。

 さらにうちの弟の、空いたカップを収集するという新たな習慣を生み出した。


 そして姉であるさくら自身は、ただパクパクと銀色のスプーンを突っ込んで白くて酸っぱい乳製品を胃腸に収める係である。

 さくらはうちの家族の中で最も朝に弱く寝坊をする癖があるので、ヨーグルトだのなんだのにかかずりあっている暇がないとも言う。とりあえず食料品が胃の中へ投入されればオーケーなのだ。そしてカバンを引っ掴んで慌ただしく学校へ向かう。

 彼女の脳みそが外界へきちんと意識を向け始めるのは、一時間目のチャイムが鳴ってからのことである。


 朝練がある部活に所属する人の気がしれない。たとえば弟とか。弟のつばさくんは、ただいま中学校一年生。バスケ部に入って早々にレギュラー入りだとかなんとか。さくらには何がすごいのかよくわからないがこの話をした友人がかなり仰天していたので、まあ相当すごいのだろう。ありえないほど大型の水筒を抱っこして登校し、それを全て空にした挙句汗だくになって帰宅してくるだけの成果は出している、ということか。


 ちなみにさくらは帰宅部である。朝練がないと聞いて陸上部に所属したのはいいものの、人間関係がちょっと気まずくなったのですっぱりやめた。

 私たちを馬鹿にしてるんでしょうとかなんとか言われて、まあそうかもしれないと思ってしまったのはここだけの話。断じてそんなことはないと即答したけれど、案外本質を見抜かれたようでドキッとした。

 日焼け止めと汗拭きシートとコンタクトレンズとマニキュアの話しかしないのなら、どうして陸上部に入ってきたんだろうか? などと彼女らのことは本気で訝しんでいた。さくらは少なくとも、健康のために運動は大事だと思って入部したのだが。走りたくないのに走る部活へ引き寄せられる人間もいるのである。


 やめよう。うん、それがいい。

 だって健康にいい運動をするってだけなら、家で適当にダンスしてたって足りるわけだし。


 そして。


「あー、つまんないな」


 そんなさくらの、近頃の朝の口癖がこれだった。


 やることなすこと、全部適当。全力で打ち込みたいものなんてどこにも見つからない。

 昔さくらと仲の良かった男の子は、ものすごく貧乏な家庭に生まれ育っており、それで虐められたり物理的に我慢が多かったりと、見ているだけでもかなり辛そうな境遇だった。しかし彼には、他の人にはない目の輝きがあった。卑屈にならず、腐らず挫けず、将来絶対に金持ちになって家族を海外旅行に連れていくんだと息巻いていた。どこの国に行くのかと聞けば、アイルランドだと即答した。自分とは全く大違いである。

 さくらの家は金持ちではないが貧乏でもないし、親はいい感じに愛情と放任を使い分けている。友達は特別に気の合うやつがいない代わり、因縁をつけて憎悪してくるやつもいない。


 欲望も希望も絶望も、何もかもが中途半端。

 さくらは死にたくないが、同時に生きたいとも思っていない。


 ゆえに。


「つまんないー」


 毎朝布団を抱えてコロコロと転がってみる。ベッドの上がくちゃくちゃになって、自分は大きなダンゴムシになった気分。


 “朝ごはんできてるよーっ!”とリビングから母親の声が響いてくる。“は〜い”と返事をしながらも、さくらの頭はぼんやりとした霞のようなもので満たされている。

 とても目玉焼きやパンやヨーグルトをすっきりと思い描けるような精神状態ではない。

 というか、何も考えたくない。現実逃避を続け、優しい夢の世界に浸っていたい。

 一生布団に潜っていたい……はさすがに言い過ぎだけど、今だけは本気でそれを夢想するほど外の世界へ出て行きたくない。


 遅刻ギリギリになってから、なんとか布団から転げ落ちるように這い出てきた。いつも通りの光景である。すっかり冷めた朝ごはんを一人でもそもそと食べる。母親は“熱いうちに食べてほしい”と渋い顔をするが、さすがに小言を言うのも飽きたようで、もう何も言わない。

 歯を磨いて鞄を引っ掴んで、「いってきまーす」。気だるげに声をかけて、ドアを開けた。


「いってらっしゃい」

「うん」


 背中に向かってかけられる母親の声に無意識に返事をしながら、さくらは一歩外の世界へと踏み出した。



 朝の光は白くて、淡く黄色味がかっている。

 メガネ越しに見えるふわふわした都会の空気は、静かで優しかった。


 ぼんやりしながら一人で歩く通学路。

 この時間が嫌いだったら、さくらはとっくの昔に不登校になっていたに違いない。


 心からそう思う。

 さくらはこの街が好きだった。

 コンクリートと人混みと人工的な色彩と、それからちょうどいい隙間と侘び寂びと緑色。

 郷土愛、というものはきっと存在するのだと思う。

 特に有名でも特産品があるわけでもないこの街だけれど、できればずっとここで暮らしていきたいなと思わせる何か。


 少しずつ。坂道を上がっていくにつれて、上向いていく気持ち。朝起きた時にどん底に沈澱していた心の澱みは光に溶かされる。風にさやさやと揺らぐ街路樹を見るたびに、さくらの脳みそはまるで黄緑色の葉緑体をゲットして光合成を始めるように、活動を開始する。


 そして一時間目の始業ベルが鳴れば、セットが完了する。

 歯車が合わさる感じとか、タイマーのスイッチを押す瞬間とか、運動会の徒競走のピストルが合図を鳴らした時の大音声とかを想像してもらうとわかりやすいだろう。


 位置についてヨーイスタート。

 脳みその内側でそんな無機質な音声が鳴り響く。

 と同時に全てがくるくると一日を平穏無事に過ごすための方向を目指して回り出す。


 憂鬱? なんですかそれ。不登校なんてそれ食べ物ですか美味しいんですか? 死にたくないが生きたくもないなんてそれどこの国の哲学書に書いてある言葉ですか、へーつまんないが口癖なんて残念な人もいたもんですね。

 えっ、それ全部私のことだって? あっはは、冗談言ってんじゃねーですよ、まったくあんたは変な人だなあ!


 社会に適合する人格にカチッと切り替わる。中学校に足を運んでいるんだから、そこに行きたくないなんて思考は余分である。給食が美味しいなら食べればいいし、美味しくないと文句を言うぐらいなら有言実行して食べなければいいのである。勉強したくない? ならばそれで結構。でもテストで良い点数を取りたい? なんだなんだ、それこそ勉強すればいいだけではないか。意味のないぐだぐだで時間を無駄にしないでいただきたい。



 社会適合モードに切り替わったさくらは、言葉と行動が異なる人間が大嫌いである。自分自身、そんな人間にはなりたくないと考えているし、それゆえ己の信条を実践するように振る舞う。振る舞いというのは体の動きや口先だけではなく、自分の心もそこに含まれている。


 ふむふむ、なんでそんなことができるのかって?

 逆に問いたい。

 なぜこんな簡単なことが実行できないのか。


 ピーマンが食べられないことを友達に馬鹿にされるのが嫌だ、と思ったならば。それを食べる瞬間だけ、ピーマン大好き人間に心の底から変身してしまえばいい。


 本当は勉強したくないのに、親が良い学校へ行けとうるさいから勉強している? 反抗すればいいだけではないか。満点以外を取れば叱られるんだとしょげてる暇があれば、外の景色を見て雲がドラゴンの形しているなぁとか考えていればいいのである。


 映画を見に行きたいのに金欠で見に行けない? 本気で行きたいなら友人に借金でもして後で返せばいい。そこまでする必要はない? それならどうせ大して興味のある映画ではなかったんだろう。


 なあ、そうではないか?

 不満や文句を垂れるぐらいなら、周りの環境か、自分の心。そのどちらかを変えていけば、常に満足に生きていけるのではないか?


 ……真昼のさくらは、心と体が常に仲良しでいられる自分が大好きだ。

 けれどそれが、朝の憂鬱を助長する要因になっているかもしれないことも、薄々自覚している。




「つばさくん、なんか最近疲れてる?」

「え、そう?」

「ヨーグルトのカップ捨てられてたけど。集めてるんじゃなかったの」

「……しまった。忘れてた」

「やっぱり変だよ。風邪でも引いた? それとも、怪我でレギュラーおろされて落ち込んでるとか?」

「は? なんで?」

「片方だけ肩が下がってるからちょっと思っただけなんだけど……」

「………」


 なんでもそつなくこなす弟のつばさくんが、最近ちょっとしたことでボロを出すようになった気がする。最近と言っても、ここ数日から一週間ほどのことである。何かあったのかと思って問いかけてみれば、どうやら本人には心当たりがあるようだった。


「まあ深くは聞かないけど」

「うん」

「それはそうと何があったか全力で探るけど」

「別にいいけど無駄だと思うよ」

「ほう。では当ててやろう。恋愛関連か?」

「……どうやったらそんなトンチンカンな答えに辿り着くのかな。ポンコツ姉」


 ため息を吐くつばさくんの表情は、やはり疲れて見える。

 いよいよコイツどうしちゃったんだと思いつつ、さくらは蛇口を捻って水を出し、歯ブラシを濡らした。シャコシャコと軽快なリズムで磨きながら、流し目で弟を観察した。


 そのときだった。

 ふと気になった言葉が、勝手にさくらの口をついて出てきた。


「つばさくんって、生きてて楽しい?」

「は?」

「いや、ごめん。変なことを聞いた」

「………」


 おかしなものでも見るような目で、弟がこちらを見上げている。彼はしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。


「楽しいけど」

「そっか」

「姉ちゃんは?」

「……楽しいよ」


 弟は、特に表情を変えなかった。

 ただ、コップに挿してある歯ブラシを一本抜いて、さくらと同じように水に濡らした。


 そして、小さな声で言った。


「俺が思うに、姉ちゃんはもっと無駄なことに打ち込んでみるべきだと思うけどな」



 ……無駄なこと。

 たとえばそれは、ヨーグルトのカップを集める、みたいな?


 直接問い返すことはしなかったが、さくらは何となく、弟の言いたいことを理解できたような気がした。

 何のために生きているのかわからないのだ。それだというのに、何かのために生きようとするのが間違っている。

 だから前提を壊すべきだ。

 どうでもいいものに目を向けよう。とんでもなくつまらないことを、全力で愛してみよう。

 初めは難しいかもしれない。だってそんな生き方、一度だって試したいと願ったことはなかったから。


 でも、今日はなぜか、ふと思った。


 疲れたな。と。

 つばさくんも疲れた顔をしていたからかもしれない。

 さくらはもっと、楽に生きたいという願いを抱いた。


(ペットボトルのキャップでも、集めてみようかな)


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