8.0:怪物まみれのパレット
何を描いてもお花の絵になる。
……とかなら、まだ良かったんだけど。
クロッキー帳をドサッと机に落として、マキナはうーんと低く喉で唸った。
私は一応、模写を試みたんだよね……?
それも、『文房具を突っ込んであるペン立て』とかいう、いい具合に単純さと複雑さが入り混じった、非常に描きやすそうなモチーフを選んだはずだよね?
自問自答しても、そこにある事実は変わらない。
ついにマキナは頭を抱えた。
それで何かが解決するわけでもないけれど。
それでも、この姿勢をとっている間は、目の前に広げられた自分の絵を見ずに済むから。
簡単に言えば、美術部員のマキナは、スランプにはまりこんでいた。
「わからん……なんじゃこの化け物は……」
それも、何を描いても線が乱れ、全体像を見ると怪物になっている———などという、全く理解不能な泥沼に。
昨日、美術部の顧問の先生にも相談してみた。
しかし明確な解決方法はわからなかった。
能天気な先生は、怪物が力づくで画を乗っ取ったかのような水彩画を見ても、感心したように頷くばかりだったのだ。
「これはこれで、迫力があるじゃん。才能だと思う。コンクールはこの路線で出してみたら?」
「いや、先生……そんな割り切れないですよ」
「えっ、なんで?」
「普通に怖くないですか? 私の指、呪われてません? いや普段オカルトとか信じないし、これも本気で呪いとか言ってるわけじゃないですけど。でも、ここまで来るとさすがに、自分の精神状況含めて心配になりますし……」
「はぁ、なるほど。あー、ごめん。先生腹芸とか苦手でさ。単刀直入に聞いちゃうけど。マキナさん、何か悩みとか心配とかある?」
「だから、これですが」
「む」
描いたものが全て怪物になってしまうこと。それが現在の彼女にとって最大の関心事。
これを除外するとなると……むむ。強いて言えば、あとは定期テストの勉強をするのが面倒くさいとか、家の近くで工事中なのでたまにうるさいとか、その程度だろうか。
怪物絵の原因になるような強烈なストレスがかかった記憶なんて、心当たりが全くない。
というか、ないのが怖い。
どうしてこんなことになっているんだろうか?
「そっかぁ。何も心当たりないかぁ」
「ないです」
「ん〜、じゃあ、放っとこう!」
「………」
「いや。そんな目で見ないでよ! だってほら、思い悩んでも仕方ないことってあるでしょ? マキナさんは芸術家なんだから、たくさん絵を描くことで見えてくる道筋があると思うし。でもそれって結局、今のマキナさんがやってることで。つまり現状維持を続けるしかないってことだと私は結論づけたわけ」
そうじゃないかな?
眉をへの字にして問いかける先生。
確かに先生の言うことにも一理ある。そう思って、マキナは頷いた。胸の中に、納得できていない塊が、生煮えのネギみたいにくつくつしている。それでも、無理矢理に納得したふりをするしかなかった。
だって、他にどうしろと?
どんな解決方法があるというのか?
結局いつも通りにマキナは絵を描いて、それがものの見事に怪物の形を取るのを無力に眺めていることしかできないのだ。
ため息を吐く。
絵を描くことはマキナにとって、とても大切な気晴らしだったのに。勉強のストレスを軽減するどころか、別のストレスを呼び起こしている。
これでは本末転倒だ、と思いながら、マキナはガタンと立ち上がって机を離れた。
伸びをする。
室内でクサクサしていても始まらない。
ちょっと外へ行こう、とマキナは決意した。
———近所の喫茶店で、教員と鉢合わせた時の気まずさについて三十字以内で述べよ。
などという脳内テロップが流れたのは冗談として。(定期テストが近づいてくる憂鬱が影響しているのだろうか? マキナは特に国語が不得意である。日本人に日本語のテストをさせる意味ってあるのだろうか? おそらくあるのだろうが苦手なものは嫌いであり、嫌いなものはだんだん無意味に見えてくるものである)
とにかく、なんとなく空いているカウンター席に座ったところ、ものの見事に知り合い教員の隣を引いてしまったのである。
いやいや、こんな偶然ってあるか?
あったのだから仕方がない。
気づいた瞬間に、マキナは席を立つか迷った。しかしそれではわざとらしすぎるし、もしも……そう、万が一にも「あれ、この子ってうちの学校の生徒じゃない?」などと相手が察してしまった場合、失礼の極みである。そのため、すっと目を逸らして、顔が陰になるようにするというささやかな抵抗を試みた。
そう。これで気づかれないはずである。女子中学生くらいの年齢の子供なんていくらでもいるのだ。マキナはそこまで特徴のある顔をしていないのだから、いくらでも隠し通せるに決まっていた。
……などと考えていたのに、それからおよそ十八秒後。
「あれ」
とかいう、妙に馴染みのある声が隣から聞こえてきたのである。
ちょっと待ってくれ。
なんで気づいてしまうんだ。
必死に顔を反対側に向けているのに、あなたが担当するものすごくたくさんの生徒のうちのたった一人を、どうして見分けることができるのか。
「マキナさんですか」
「……はい」
しかも、名前まで当てられてしまった。もう逃げ場はない。
仕方ないと居直って、マキナはそちらへ顔を向けた。
音楽科の西田先生。妖精みたいに細く美しい声で歌うので、ひそかにマキナは彼女を妖精先生と呼称していた。もちろん心の中限定で。
妖精先生が、こんなところでどうしたのだろう。もしや先生もこのあたりの地域に住んでいるのか。それとも、休日出勤の帰り道だった、とかいうオチだろうか。
妖精先生は、動揺のそぶりも見せずに、淡々と話しかけてきた。
「偶然ですね」
「はい」
「ここにはよく来るのですか?」
「えっと……そうですね。まあまあ来ます」
「私は初めてです。いいお店ですね」
「……はい」
お世辞にも会話が弾んでいるとは言えない。しかし妖精先生は、全くそんな表情をしていなかった。まるで旧知の仲の友人と流暢に喋っているのだ、とでも言うようにごく自然体な様子を崩さない。
教員ってみんなこうなのだろうか? 誰かと話す時に緊張しないことが条件として求められるなら、マキナは絶対に学校教員を将来のキャリア目標にしたくない。
すでに頼んでいたらしいカフェラテを優雅に啜りながら、妖精先生は手元のノートPCをパタンと閉じた。
マキナとの会話に集中しようとしているらしい。
そんな気遣いはいらない、と思いながらも、マキナはこの小柄な大人が何を思って自分に話しかけているのか知りたいような。ちょっとした好奇心のような気持ちが芽生えていることも自覚していた。
ぎこちないながらも、学校外で会った学校関係者二人の会話の始まりである。
「マキナさんって、何か楽器を習っているんですか?」
「はい……えっと、ピアノを。昔の話ですけど」
「やっぱり」
「………」
「定期テストの以前の範囲で、楽譜の記号はとてもよくできていました。音楽史にはあまり興味が持てないようでしたが」
「……すみません」
やっぱり教員って怖い。マキナが縮こまって頭を下げると、「いえ」と妖精先生は首を振った。
「実のところは、私もそうでしたね。フォルテだとか、ピアニッシモだとか。スタッカートとか。ダル・セーニョとか。そういう用語や記号の部分は完璧で、それ以外はほとんど全滅。音楽の先生になるために、後から他は必死で覚えましたけれど」
「そ……そうなんですか」
「はい」
妖精先生は、それからしばらく沈黙した。
結局何が言いたかったんだろう。生徒の立場から考えても、頑張って教員の立場に立って想像しようと試みても、あまりよくわからなかった。
それでも。
こちらからは、顔も名前もはっきり覚えている教員。けれど逆に、生徒側の顔や名前を覚えるのは、きっととても大変だろう。
なんといっても数が多い。そして毎年入れ替わりがあって、百人くらいの新入生が追加でドバッとやってくる。
蟻の数ほどもいるだろうこの生徒たちの中で、そのうちのただ一人に過ぎない自分を覚えていてくれた、ということは。それも、ただ曖昧に顔の輪郭を覚えているというのではなく、その特徴や個性までも記憶していてくれるということで。
嬉しい、と。
思ってしまうのも仕方のないことだった。
しばらくすると、ちょっと顔を赤くして俯いていたマキナの元へと、注文済みのタピオカミルクティーが運ばれてきた。
ありがとうございます、と店員にお礼を言うと、なぜか妙に強張った笑みが帰ってきた。
並べる仕草も、丁寧すぎて硬く見えた。制服も下ろし立てのようにピカピカである。新人なのかもしれない。
それを見て、少しだけマキナの肩の力が抜けた。
隣の先生に、こちらから話しかけてみよう、と思う程度には。
「西田先生」
「はい。なんですか」
「先生って、普段絵を描きますか」
「あまり描きませんね。ピアノや、その他諸々の楽器は演奏しますが」
「それじゃあ、そういうのを演奏している時に。指が思い通りにならないことって、ありますか」
「もちろんありますね」
「呪いをかけられていないか疑うくらい、なんというか、その……異常なほど思い通りにならない、みたいなことは」
「それは……ああ。昔、そういうこともありましたね」
何でもないことのように普段通りの表情で頷かれて、マキナはずっこけそうになった。
今はないらしい。しかし、昔はあったらしい。
あるんかい。自分で尋ねておきながら、マキナは心の中でツッコミを入れていた。
「大学生くらいの頃でしたかね。『猫踏んじゃった』という曲があるのですが。そのリズムしか弾けなくなったことがありました」
「……どうやって治したんですか」
「巨大に膨らみ過ぎたネズミを、猫に変身した自分がぶっ倒す、という内容の夢を見ました。そうすると翌朝からはいつも通りに弾けるようになりました」
「……なるほど?」
あまりにも参考にならない。
しかし、このぶっ飛び具合には、妙にこちらを安心させてくる温かみがあるかもしれなかった。
なぜならマキナ自身も、ぶっ飛んでいて理解不能な状況下に置かれているからである。
「実は私も、その先生のお話と、少し似たようなことになっていて。私の場合は絵なんですが」
「それは困っているでしょう」
「はい。とても。これって、ちゃんと治ると思いますか?」
「永遠に変化しない人間はいないと思いますよ」
「つまり、治ると?」
「はい。あなたが望む方向に変化するか、そうでないかは別として」
口をつぐんだマキナに、妖精先生は「では、もう一つ話をします」と言った。
「私があなたくらいの頃に抱いた夢は、一人暮らしの家に新品のグランドピアノを置くこと。そして、音楽教員になること。この二つでした。しかし今現在は……」
妖精先生は、少し迷うように口を閉じた。しばらくして、先生はもう一度口を開いた。
「もう一人ぐらい、自分の家に人間が住んでくれるといいな。と思っています。加えて、その人に養ってもらうという条件の元、音楽教員の契約は非常勤に変更することができると最高ですね。……要するに結婚願望ですよ。結婚願望」
ぽかんと呆けた顔をしてしまったマキナに気づいて、妖精先生は最後の説明を追加した。二回言われなくてもわかる。どうやら先生は結婚したいらしい。つまりこの人、まだ独身なのか。可愛いし声も美しいしとても楽器が上手に弾ける人だし大勢の生徒の前で舐められずに喋れるなんて、ものすごく貴重な宝石みたいな存在なのに、世の中の男どもは全く見る目がないのではないか?
マキナはため息を吐いた。
自分の悩んでいたことが、なんだかどうでも良くなってきた。……いや、もちろん本当の本当にどうでも良くなったわけではないのだけれど。
ただ、『人生の大きな流れとして振り返ってみれば、今この瞬間の一大事なんてたいしたことではなくなるんだろうな』という予感が生まれてしまった、というか。
「つまり。先生が変わったみたいに、私の心も変化していくと思うんですね?」
「否応なしに。人間ってそういうものです」
「………」
ずず、と妖精先生はカフェラテを啜る。妖精先生の一口は随分と小さいのか、先ほどから彼女のカップから液体が減っていく様子が全く感じ取れない。
自分の手元に視線を落とす。タピオカミルクティーは手付かずで残っていた。ストローに口をつけて、ずぞぞっと啜る。ほんわかあったかくて甘くて美味しい飲み物が、もちもちの感触と一緒に口の中へ吸い込まれてきた。
ふっと一息ついたマキナは、白と黒と透明が混じり合ったような、不思議な色合いのこの飲み物を観察する。じっと眺めていると、横から視線を感じてマキナは顔を上げた。
「それ、美味しいんですか?」
尋ねたのは、妖精先生である。マキナは素直に「はい」と頷いた。美味しいです。すごく。
妖精先生は眉間にちょっと皺を寄せた。
「……しかし、黒い蛙の卵を入れた魔女の紅茶みたいになっていますが」
「でも、甘くてホッとする味ですよ」
「………」
無表情で、妖精先生はタピオカミルクティーを睨んでいた。そしてしばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「今度試してみることにします」
「無理しなくていいと思いますが」
「私は適応できる女なんです」
「そうなんですね」
「はい」
……本当に何もかもがどうでも良くなったような気分である。
それからマキナは定期テストの勉強を黙々と進め、妖精先生のほうもノートPCを再び開いて仕事の作業に移ったらしかった。
先にマキナが席を立ち、一言挨拶をしてからその場を去った。
お気に入りの喫茶店だったのだが、この教員と鉢合わせる可能性が高いというのならできるだけ避けるべきだろう、と考える。先生との会話は想像したより面白かったが、非常に緊張するのだ。こうして店を出てきて、ドッと疲労感を感じるのがその証拠。
肩に掛かったカバンの紐の位置を直しながら、マキナはゆっくりと傾斜のある通り沿いを歩き始めた。




