7.1:踏切、待ちぼうけの亡霊
「こんにちは」
その少女の声は、くらげが喋ったのかな、と思うくらいに宙に浮かんでいた。ふわふわしていること、まるでパフェのクリームのよう。鈴や雲の絵の中の世界には、こんな風に話す女の子が住んでいるのかもしれないな、なんて思う。
どうにも現実感がなくて、まおはぼんやりと立ち尽くしていた。
「あなた、誰? あなたも、ひとりぼっちなの?」
まおは、言葉をなくしたような気持ちだった。カカシみたいに、その場の地面に立ち尽くす。
それでも、返事はしなくてはならないと思った。
自分の口が自分の口ではなくなったようで、どこか他人事に彼は唇を動かした。
「……よくわからない。名前は、さすがにわかるけど。一人かどうかっていうのは……ずっと一人でいるような気もするし、そうじゃない気もするから」
「ふうん。私たちは似た者同士ね」
「きみも?」
「そうよ。私はね、自分の名前すら知らないわ」
「ぼくは……」
名前は覚えている。忘れていない。少なくとも、まだ。
ぼくの名前は、まお。
一瞬、それを伝えることを迷った自分がいた。けれど結局は、口にした。
少女は、うんうんと頷いた。
「まろやかな感じがして、いい名前ね?」
きっと彼女は、日の降り注ぐように笑ったのだった。白い花がふわりと咲いた。つゆがこぼれた。そんな感じ。
「見せてちょうだいな。まお。あなたの手がぎゅっと大事に握りしめているものを」
「大事に? ……ああ、これか」
「そう。それよ」
「わかった」
どうしてだかわからないけれど、少女はまおが持つ、サイダーの空き瓶が欲しいようだった。お祭りの屋台で、さっき買ったもの。
別に、大事に握っていたわけではない。そう見えたとすれば、落として割れてしまわないように、気をつけて握っていたというだけのこと。
素直にまおは少女へ瓶を差し出した。
少女は、するりと手を出して、その瓶を受け取った。……いや、受け取った、というのは少し語弊がある。すうっとその細くて小さな指が五本生えた片方の手を、瓶に近づける。まるで空気を掴むようにして、夢を撫でるようにして。
そうして、静かに彼女の指がガラスに沈んだ。
障害物など存在していないかのように、彼女の手はガラスの壁をあっさりと通過していた。
少女は落ち着いた声で言った。
「捕まえたわ」
何を?
透明な丸いガラス球を。
サイダーの瓶の中の、透明なビー玉。栓の役割を果たすそれを、少女は指で摘んでずるりと中から取り出した。
得意げな声音だった。
なんだか彼女が幼く見えた。
「はい、あげる」
「……ありがとう」
理屈なんてない。
それが、恋の始まりだった。
心臓の掻き鳴らす音楽が、電気くらげに刺されたように痛みを増した。
この子を見ていることが愛おしくて幸福で、それなのに今までで一番辛かった。
人間が死ねるとしたら、恋や愛に殉じること以外にはないんじゃないかと思った。
大好きの言葉が絶対に言えないのに、そればかりが胸の中の薪となって燃えている。身を焦がすこの気持ちを、知りたくなんてなかったのに、知る前には戻れないのだと彼は宿命的に知った。
「ねえ。まお?」
「うん」
「私がさっき買ったレモンパイ、食べてくれない?」
「……なんで?」
「買ってから気づいちゃったの。レモンの皮が入っていないって。私は苦い味を楽しみたかったのに、まぁ残念。きっと甘ったるくて少し柑橘の香りがするくらいなのよ。すごくがっかりしたわ」
だから、代わりに食べて欲しいの。
不躾なお願いだけど、いいかしら?
もちろん、と答える代わりにまおは黙って頷き、手を差し出した。
少女がどこに隠し持っていたのか、薄いビニール袋に包まれたレモンパイを引っ張り出して、そこに置いた。
こんなもの、売店に売っていたっけ?
まおは少し疑問に思ったものの、おとなしくそれを受け取った。いただきます。小さく呟くように言って、パクリと口に含む。
甘酸っぱいような独特の爽やかな香りが口に広がる。
「油っぽかったりしない? 大丈夫?」
「いいや。おいしいよ。本当にきみが食べなくていいの?」
「うん」
「ぼくが貰ってばかりだな」
「いいのよ。私がいらないものをあげただけだもの」
「サイダー瓶のビー玉も?」
「いらないわよ。出せるかどうか、試してみたかっただけ」
そう。ならいいんだ。
まおは言った。
そして、どこか足元がふわふわしていることに思い至る。歩きすぎておかしくなったのか。そんなことを思う。
けれど、きっと、そんな事実はどこにもなかった。
何かをしすぎて、自分が変化をしたのではなかった。
最初の一歩。その世界観に触れてしまう、染まってしまう。そんな、一線を気軽に超えてしまった瞬間があったのだった。
———失敗した。
いつ?
わからない。
でも、とにかく、失敗した。まおは、好きになる人を間違えた。
きっと触れてはいけなかった。言葉を交わしてもいけなかった。目を合わせた時が、しくじりの始まりだった。
失敗だ。失敗だ。失敗だ。
「まお。あなたは、私の友だちになってくれるかしら?」
「……友だちって、さ」
まおは、どうにも薄く淡く、この世界から存在を消してゆくような自分の二本の脚を見下ろしながら囁いた。
「こんな……こんな、関係性で。なれるものだっけ?」
「ごめんなさい。何かが悪かったのかしら」
「……わからない?」
「わからないわ。そうね、だから教えて欲しいのよ。私はあなたに対して、何か間違えちゃったのかしら」
教えてくれたら、ちゃんと学習して二度としないようにするわ。と、その少女はあっけらかんと言う。
まおは両手で顔を覆った。その腕も手も、彼の頭の部分ですら、ゆっくりと薄まってゆく。消えていく。
あの世のものを食べて帰れなくなる。そんな神話によく似たことが起こっている。
騙されたのだ。
魅力で惹きつけて、私たちは一緒なのよと囁いて親近感を呼び起こし、するりと毒を食餌に紛れ込ませる。
それでも、まおは彼女を嫌いになれない。
恋は盲目。何が原因でどのような結果になったのか。全部わかっていても、医者に治せない病気は存在する。
まおは彼女を非難できない。
だって彼にも悪い点はあったから。それは重々承知している。
ああ、だからそうして幼児みたいに無邪気にこてんと首を傾げられては、もう何も言えなくなってしまう。
「教えてくれないの?」
「………」
「まあいいわ。友だちになれなくっても、先生になってくれないのだとしても、別にいいのよ。だって、また別の人のところに行って、やり直してみればいいんだもの」
少女の言葉に、まおは顔を歪めた。
だめだった。本当に、これはもうだめだった。彼女は致命的に何もわかっていない。このまま彼女を解き放ってはいけないこと。それだけは確かだった。
「待って」
諦めの微笑みを浮かべようとした少女に、まおは声をかけた。
「ん?」
「一つだけ」
一つだけ、提案をさせてくれ。そう、まおは言った。
失敗だらけだった自分にできることは、そのくらいしかないとわかっていたから。
「一緒にいるだけの関係性。友だちでも先生でもなくて。隣にいる……それだけなら、いい。ぼくは、そうしたい。きみは?」
ともに時間を過ごす間に、何かが変化すればいい、とまおは思ったのだ。
そうでなくとも、少女が寂しさを埋めるため、見境なく誰かを現実から夢へと引き摺り込んでゆくことを止められる可能性があった。
要するに、まおは少女の見張りをするつもりだったのだ。
彼自身は、彼女の罠に嵌った。もう手遅れだ。しかし、他の未来ある子供たち、彼らが生きる現実を、奪わせるわけにはいかないと。そう決意した。
少女は、くるりと白い日傘を回した。
その下に覗く顔はまだ見えない。
「まお。一つだけ勘違いを正しておくわ。私が手を下さなくても、たくさんの人が勝手に“向こう側”へ吸い込まれていくのよ。だから私の勧誘を、害悪行為だと思わないでちょうだいね?」
「それでも。きみのレモンパイがなければ、ぼくはまだ家族と一緒に過ごせるはずだった。違うか?」
「それはそうね」
「だからぼくは、きみのやったことをどうしても許せない」
「残念だわ」
悪魔の毒牙は柔らかな赤子の肌を貫いた。
脆弱だったまおの心はズタズタに引き裂かれ、この現実世界に踏みとどまることができなくなる。
肉体が透明になる。
夢の世界こそが現実になる。
幽霊に近い存在になる。
少年が、透明の国へと、引き摺り込まれていく。
「じゃあ。行きましょう。一緒に来てくれるのよね、まお?」
「うん」
———風に誘われたのだ。と。
踏切のそばですうっと消えていった少年は、噂された。
ガラス玉が抜き取られたサイダーの空き瓶が、乾いた音を立てて地面に転がった。




