7.0:踏切、待ちぼうけの亡霊
桜が襖に描かれた絵のようにふわりと花咲き、街を覆い尽くす。
草木も鳥も虫も人間もどこか浮かれたようなこの季節に、この行事は催される。
「はるまつり!」
「そうよぉ、お神輿見てく?」
「それよりあれ食べたい!」
「しょうがないなー。まおくん、花より団子が欲しいんだなぁ」
「だんごじゃないよっ」
「わかってるってば。ただのことわざ。わかる? こ・と・わ・ざ」
春夏秋冬、それぞれ四度の祭りが開催されるこの土地で、まおは生まれ育った。
一番好きなのが、春の祭りだった。
ひなあられに似たカラフルで軽い米菓子が売られていて、それが美味しいというのが主な理由だった。
ことわざ、という単語を覚えたのも。花より団子、ということわざを覚えたのも。全部、その日のことだった。母が手を繋いで大混雑の道をすいすいと導いてくれた光景を、はっきりと記憶している。
当時父と離婚した直後のこと。子供を育てる責任を、たった一人で背負ったばかりの母だった。
きっと心細かったことだろう。不安でいっぱいだっただろう。
お金も十分じゃない。男の子が成長して抱く悩みに対して、果たして自分だけで寄り添えるのかもわからない。何より自分が倒れたら、この子は一体誰に託せばいいのだろう?
しかし母は一切弱音を吐く姿を息子に見せなかった。
まおが覚えているのは、陽だまりに佇み、白い空から降り注ぐ光をいっぱいに浴びて笑っている母の姿ばかりだった。
スーパーの買い物カゴと、ネギと大根と、チョコレート色の塗装のママチャリ、それから趣味の囲碁の盤や碁石なんかを隣にはべらせて得意げにニコニコッと口端を持ち上げる、そんな姿が何より似合う人だった。
一緒にいて、これほど隣の人を安心させる才能を持つ人はそういない。
それがまおの、自身の母親に対する評価だった。
「春祭り一緒に行く〜?」
「いや。友達と約束してるから。今年はいいや」
「おっけい」
まおが歳を重ねるにつれ、母親と過ごす時間は減っていった。
どうしてか、と聞かれれば。なんとなく、とか、自然に、という抽象的な言葉での説明にしかならないだろう。
“友達と約束してるから”
そんなの、真っ赤な嘘だった。
嘘をつくと鼻が伸びるんだぞ、と言われて本気で恐怖していた時代はとうに過ぎ去った。
今はもう、とにかく一人でいたかった。
誰もいないところで風の味を感じていたい。雨の雫が作る波紋を眺めるだけで、一日中の時間を費やしてみたい。羊の数を数える夢を見ていたい。
だからまおは、外出するとき、母親の同行を断るのだった。
ちなみに。
ひとりぼっちの時間というものは、必ずしも周囲に人間がいないところでばかり手に入るものではない。
むしろ、たくさんの人影が、そのざわめきがあるところに、魂は本当の孤独を感じるのかもしれなかった。
まおの魂はずっと孤独に惹かれていた。
大勢の人間が、かぼちゃの群れみたいにウロウロと訪れる春祭り。
そこに、かぼちゃのうちの一人として彷徨い込んで、何をするでもなくぼんやりと時間を使いたいと彼は思う。
ペラペラの財布を適当にポケットの底に突っ込んだだけの格好で、まおはその年の春祭りを訪れた。
途中で、なんとなく行きつけの保護猫喫茶に行ってみたいような気持ちになった。
どっちにしよう、と彼は少し迷った。
春祭り? それとも、猫カフェ?
けれど結局、遠くまで歩くのが面倒だったので。
まおはやっぱり、春祭りの会場へと足を向けたのだった。
それが彼の運命の分かれ目だった。
ちょっと休憩しよう、とまおは思って、ふらりと売店の並びから外れた方面へ歩いた。向こうにはベンチか、よりかかれそうな街路樹か、とりあえずそういったものがあったはずだからと。
人ごみに酔っ払って頭がぼうっとしている。
それより歩き詰めだったことが問題だ。
まおは近頃明確に慢性的な運動不足だったので、すでに足腰がふにゃふにゃになっていた。
お昼ご飯も食べなきゃな、と、彼はぼんやりする頭で考えた。とりあえずあっちこっちを何度もふらふらと往復しただけなので、何も食べ物を買っていない。喉が渇いて、サイダーの瓶を一本買っただけだった。
焼きそばにしようか、パンにしようか、この際お祭りなのだから、いっそのことお菓子だけでもいいか。空っぽになったサイダー瓶を片手で揺らしながら、色々なことをとりとめなく考える。
そのとき、澄んだ音が隣で響いた。
———カン、カン、カン
思わず振り向く。
細くて黄色と黒の蜂のボディみたいな模様のある棒が、ゆっくりと水平方向へと下りていく。
そこを通ろうとするたくさんの人々が、いったんその歩みを止める。危険を警告されて素直にそれに従い、待ちの体勢に入る。
それは踏切だった。
しばらくすると電車が通過する。危ないから、歩行者の通行止めをしている。そんな、ごく普通の踏切だった。
そのはずだったのだ。
「え……」
まおは、一瞬目を見開いた。
あれは……なんだ? 逃げ遅れ? それとも。
遮断機が下りたその瞬間に、キラリと煌めくように出現した人影があった。
なんとびっくり、踏切の真ん中に。
アスファルトの灰色と、敷かれたレールの鈍い金属光沢がキラリと光る。
美しいレース編みのある半透明な日傘をくるり、と回す。透明なみずくらげの肌をそのまま取ってきたかのように儚げな清純さ。
それはきっと、一人の少女の幽霊。
顔は隠れて見えない。
それなのに一瞬、まおの目には少女の唇が笑ったように見えたのだった。
ごオォおうん、おぉん
ぴィン、キキィ、ぐがぁわぁあー
ごとんごとんごとんっ
あっという間の列車の通過だった。
わんわん反響して響く轟音は曖昧なメロディのダンスみたいだった。
実際、どんな音が鳴っていたのかなんて、よくわかっていなかったのかもしれない。
轢かれた、と思った。
でも、きっとそうじゃなかったのだ。
後から気づいたけれど、その少女の髪も服も、列車が吹かせる猛烈な風に煽られて、まるで揺らぎすらしていなかった。
それからも、少女は踏切の遮断機が下りるたびにその姿を表した。
あそこで死んじゃった幽霊なのかな、とまおは思った。
でも、それもきっと違ったのだ。
少女はまるで、“ここに立っているの、もう飽きちゃったわ”とでも言うように、ふらりとその場を離れてしまったから。
少女は、まおのほうへ向かって歩いてきた。
目が合ったのだ……。と、なんとなくまおは思った。
相変わらず彼女の顔は白い傘と帽子の影に隠されていて、それが確信できるはずはなかったけれど。それでも、まおの考えは、きっと勘違いではなかった。
白い傘は、まおの前で歩みを止めた。




