6.1:放課後のピアノ・デュエット
音楽室は、校舎の一階に属している。
窓を開ければすぐ下に雑草が生えて風に揺れている。縦に長いものが生えていれば、手を伸ばしてそれに触れることもできる。
そんな場所。
見上げれば薄暗い空があって、それは暮れてゆく世界の証。
ぽっかりと卵みたいに月が浮いてくるまで、一体どのくらいの時間がかかるだろう?
カノンは、音楽室の入り口に立っていた。
教室の端っこに置かれたグランドピアノは、真っ黒に艶光りしていて美しい。学校そのものの歴史を感じさせるほど古く、少し擦れている脚の先っぽが見え隠れしていることも、たまらなく愛おしかった。
もしかすると、とカノンは思う。
スポットライトに照らされ、ランウェイを闊歩していくモデルの気持ちは、こんな感じなのだろうか?
今のカノンのような高揚を。光に向かって歩く奇跡を、その胸に感じるこの特別を。
この世界中で、味わったことがある人は、いったいどのくらいいるのだろう。
掃除の時間も終了し、誰もいなくなった音楽室へ足を踏み入れる。
たったそれだけ。
何も特別なことはしていない。
それでもカノンは、まるで夢を見ているようだった。
「………」
歩き出せば、たどりついてしまった。
驚くほどにあっさりと。
黒い椅子を引き出し、ゆっくりと座ってみる。
位置を微調整すると、床と椅子の足が擦れてギシギシと奇妙な音が鳴った。
ピアノに手を添えてみる。
真っ白に磨かれた歯のように美しい白鍵。間に添えられたのは、鋭利な印象を与える黒鍵。
左右への広がりは無限のようで、底なしの海を前にした幼児のように、カノンはひととき途方に暮れた。
広い。
広すぎる。
ピアノが広いのではない。
きっと、音楽室というこの空間が、あまりにも広いのだった。
緊張で全身の骨格を強張らせながら、カノンは最初のキーへと素肌を触れさせた。
静かに弾き始める。
さっそくこけるようにミスタッチをする。立て直す。無理だ。またミスタッチ。ここは私のいつもの土俵じゃない。怖い。暗い。何も見えないんじゃない。全部が鮮やかに見えすぎて飲み込まれる。
よかった、ここで一回弾くことを経験しておいて。
本番の舞台にいきなり立っていたらと考えたら、本当に怖かった。弾き終えた途端に貧血でバッタリ気絶していたかもしれない。
それぐらい、何もかもが違う。
違いすぎる。
……ああ。とカノンは思った。
同じだ。
他人と自分のピアノの技量を比べたときもそう思った。
世の中には『違いすぎて埋められない』ことが、びっくりするほど多くある。
みんなごく自然に諦めることを、カノンはどうしてだかあっさりと捨てることができない。忘れようとして、それでもずるずるとしがみついて引きずられているそれの存在を、いつも背後に忍び寄る影のように感じている。
———忘れたい。
カノンはピアノを演奏した。
一気に最初から最後までを通した彼女は、継ぎ目を途切らせることなく、流れるように再び最初のメロディを弾き始めていた。幾度と間違えたことも、強弱を意識し忘れて流したことも、リタルダンド記号があるのにモデラートの速度で弾いてしまったことも、全部を水に流して演奏を続けた。
———忘れたい。みんな忘れてしまいたい。
———流そう。水に流してしまおう。そうしたらきっと、余計なことなんて全部忘れてしまう。
いつしか音楽室は、淡い青色の水で満たされ始める幻想に包まれていた。海の声? それとも、雨の音? わからない。細かい泡がシャボンのように弾けて、炭酸ジュースのように優しく上へと立ち上る。
最初は水に浸されていたのは、足のくるぶしまで。
それがだんだんと上がっていった。
だんだんゴムが伸びてきている白い靴下が、水面下へと沈む。
制服のスカートの裾が濡らされる。いつか体全部が呑み込まれて、ぷくぷくと口から泡を吐きながらピアノを弾くようになるのかもしれない。
ゆうらりと薄青色に染まった音楽室の中で、カノンはひたすらに鍵盤ごとピアノを傀儡にしてしまったように怒涛の演奏を続けている。
ぴょんっ!
……と。
ふいにそこへ飛び込んできた小さな影が、カノンが急激に左右へと動かした手の甲を、器用に飛び越して避けた。
えっ、何? 蝿!?
カノンは演奏の手を止めることこそなかったものの、ぎょっと驚いて目を見開いた。
胡麻粒のようにツヤツヤと濡れた瞳が、あどけなくカノンの顔を見上げていた。
(あれ。もしかして……ネズミ?)
ネズミだった。
体は黒っぽい灰色。長いしっぽがついていて、鼻先には髭。さっきは蝿かと思ったが、さすがにそんな小さな虫よりは大きく太った哺乳類。
鼻をひくひくと動かしながら、ネズミはチラッとカノンとアイコンタクトを交わし、……かと思えば、鍵盤の上を跳ねるように駆け回り始めた。
幻想の水はすでに鍵盤のあたりまで上がっている。
ネズミは水色と白色の飛沫を星のように跳ね散らかし、ぴょんっと宙返りなどして、ちょこまかとダンスを披露する。
それと同時に、ネズミが踏んづけた鍵盤は、澄んだ音を鳴らして不思議な音楽を響かせた。
いつしかカノンとネズミは、息ぴったりに連弾を始めていた。
まるで楽譜を読んでいるかのようにネズミは先回りして、カノンの音と一緒に綺麗な和音が響くようなメロディを踏んづけていた。いや、あるいはネズミは楽譜なんて全く無視しているのかもしれない、とカノンは思った。
ネズミは好きなように駆けているんだ。ただ心の赴くままに踊っているんだ。けれど音はどんな音とも本質的に友達だから、優しく受け入れながら響いてくれる、それだけの話なのかもしれない、と。
転がるように二人は音楽を演奏した。
止まることなんてあり得ない。最後まで弾いたら、すぐさま最初に戻って弾き直しを始める。
永遠に音楽を続けていたい。
カノンは胸の中を刺されたことを忘れて眠る人間のように、必死になって願っていた。
ずっとここで、ネズミと一緒にピアノを弾くんだ。他のことは何もいらない。ただ私はこうしていたいんだ。
だって、こんなに楽しいんだから。透明なんだから。何もかもを忘れて、背を向けて、振り捨てて。そうして宇宙の彼方へだって飛んでいけるロケットに乗ったような。そのぐらいに夢のように陶酔しているんだから。
……だから。
だから、神様。
私を音の世界に連れて行って。
「いいの?」
ピアノを跳ね回りながら、そういったのはネズミだった。ピアノの演奏が轟々と鳴り響いているというのに、その素朴な声は不思議とはっきりと聞こえてきた。
ネズミの目を見ていると、カノンはどうしてだか、母親の顔を思い出した。
「いいの? カノン。硝子坂中学校一年三組三十番、西田カノン」
くるくると、ネズミの顔が変化する。
担任の先生。委員会活動を一緒にするうち仲良くなった友人。音楽の先生。隣の席に座っている野球少年。ピアノの先生。自由曲の伴奏を担当する男の子。いつも帰ってくるのが遅いお父さん。小学校の頃は仲の良かった一輪車仲間。ピアノの先生の子供で今年社会人デビューしたというお姉さん。近所のカレー屋さんの店主。隣の家のちょっと怖い顔のおじさん。それから、それから……
カノンの耳には、雨音がずっと聞こえていた。
水に満ちた教室。けれどこれは夢の中の光景だから、これで溺れることも、服を濡らして風邪をひくこともない。
手の中に掬ってみてもきっと、これを飲むことすらできないのだ。
いいの?
こういう世界で、ずっとずっと生きていくこと。
それを決める覚悟は、あなたにあるの?
……あるわけがない。
カノンは寂しげに、目を細めた。
いいの? と、もう一度聞いてきたネズミに対して、カノンは黙って首を横に振った。
ネズミは、「じゃあ」とカジュアルに言った。
「さようならだね」
「……また会える?」
「会えない」
「そっか。……結局、青春の構成要素って、漏れなくそういうものなのかもね」
カノンの言ったことがよくわからなかったのか、ネズミは瞬きした。
カノンのほうも、深く考えず衝動的に放った独り言について、詳しく解説する気はなかった。
ネズミは一際大きなジャンプをすると、空中でくるりと宙返りを披露した。
そして軽いポンッという音を立てると、薄くたなびく煙すら残さずに、綺麗さっぱりと消えてしまった。
あっという間にいなくなってしまったのだ。
あっけなかった。
カノンはふとピアノを奏でる手を止めて、窓の外を見た。音楽室の外側で、しとしとと雨が降っていた。テニスコートやグラウンドからは、運動部の掛け声がまだ響いている。この程度の雨では練習を中止しない、体育会系の根性が透けて見える。
不思議な気持ちだった。
カノンは、室内に幻想の雨すら降らせてしまったのだ。
誰にも頼まれていないのに。濡れるならば自分なのに。
それなのに、音楽室を偽者の水でいっぱいにしてしまった。
彼女と同じことをする人はきっと学内のどこにもいないはずなのに。それでも、本物の雨の中で大きな掛け声をかけている誰かの声に耳を傾けているうち、なんだか孤独感が薄れていく。そんな気がした。
それからカノンは、しばらく静かに練習を続けた。
ミスタッチをしやすい場所は、何度もゆっくりなぞるようにして指に馴染ませる。強弱の具合も納得がいくまで繰り返してみる。
音量の小さなキーボード、そして比較的鍵盤の重い音楽教室のピアノに慣れていた指には、少し押しただけでカーンと澄んだ音の大きく響くこのグランドピアノは劇薬のように感じられた。
しかし人間は慣れるものなので、すでにカノンは音楽室の楽器に染み込むように馴染んでいた。
音楽の先生が来て、「そろそろ切り上げてもいいかな?」と尋ねたとき、カノンはすぐに頷いて立ち上がった。
「どうかな。練習にはなった?」
「はい、とても助かりました」
「それはよかった」
教室の明かりを消しながら、カノンは「先生」と呼びかけた。
「ん、何?」
「私の夢が二つできました。一つ目は、いつか一人暮らしをして、本物のピアノを買うことで。二つ目は、音楽の先生になることです」
「へ、あっ、……う、うん。それは、うん、応援してるよ……?」
ありがとうございますと返事をしながら、カノンは思わずクスッと笑ってしまった。
この目の前に立つ音楽科の教員が、かつてどのような動機を抱いて教師などという職業を目指したのか。カノンは全く知らない。だって他人のことだから。
同じように、カノンの心の中でどんな変化が起きたのか、この人が知ることはないのだ。心と心は、共有できないものだから。
この人は永遠に、困惑すればいいのか、感動すればいいのか、よくわからない雲の中で迷うしかない。
それでも、人間と人間は響き合う。
お互いに響かせ合う。
そういうものだ。
「さようなら」
「はい、さようなら」
カノンには、新しい夢ができた。
それを叶えるために今を生きると決めた。
未来は誰にもわからないけれど。
それでも、今のカノンは、心に爽やかな風を吹かせていた。
まるで雨の後の青空のように。水で磨かれていった魂がピカピカと鏡のきらめきを見せる。
(今夜はカレーかな)
母親の作る手料理の味を想像しながら、カノンはゆっくりとした足取りで帰路についた。




