6.0:放課後のピアノ・デュエット
小人になってみたい、とカノンは夢想したことがある。
あるいはネズミ。あるいは子猫。なんでもいいから、小さな生き物。
どうしてなのかといえば、白と黒に艶光りするあの鍵盤の上を駆け回って遊んでみたかったから。
踏んだら音が出る。
色々な彩りの音楽が聴こえてくる。
そんな遊び場は、きっと楽しいだろうと夢を見た。
つまり、カノンはピアノが好きだったのだ。
カノンの家にはキーボードがある。母が買ってくれた電子のものだ。灰色の金属の色はくすんでいて、古びた腕時計のように独特の貫禄がある。
埃を被らせることなく、常にピカピカにして、それでいて二箇所くらい故障して音が出なくなっているじゃっかんのポンコツ状態。それほどになるまで使い込んでいるのは、本当の意味での彼女の趣味なんてそれくらいしかなかったから。
カノンが挑戦してきたことは、多すぎるほどにたくさんある。
一輪車にハマったり、縄跳びを練習してみたり。おもちゃのマイクを片手に毎日お風呂場に侵入して(独特のエコーがかかるのが楽しいのだ)熱心に歌ってみたり、クッキー作りに凝ってお小遣いを料理本と小麦粉と砂糖とその他諸々の材料に溶かし込んだりした。ちょっと面白そうだと思うとすぐ行動に移す彼女は、怖気付くことなくなんにでも手を出してみる。
しかし、どれも長続きしないのだ。
結局のところ、うまくいかないからイライラして、すぐにやめてしまう。
移り気な彼女は、中途半端なところでポイと放り投げ、次へ行くことをもためらわない。
ピアノはなぜ続いたのか?
かなり重大な疑問なのだが、これはきっと母親が理由にあるのだとカノンは思う。
幼い頃は、練習なんて嫌いだった。最初は楽しくぽんぽん鍵盤を押して遊んでいたのが、例の如くだんだんつまらなくなってきたのだ。しかし母親はそんなカノンの怠惰を許しはしなかった。
やりたくないと泣いても、叫んでも、母親はカノンの首根っこを掴んでピアノの椅子に座らせ、それでも逃げ出そうものなら鬼のように恐ろしい顔で叱りつけた。
そもそもあなたがやりたいと言ったのだ、先生に練習すると約束したのだから責任を取りなさい、他はやめてもいいが一つくらいは続ける根性を持て。言い方は様々だったが、普段温厚で何事も寛容に許してくれる母が、この点に関しては異様に厳しかった。
怖くて怖くてたまらなくて、カノンは涙でぐしゃぐしゃな顔で、震える指を動かしながらピアノを弾いた。
弾きさえすれば、下手でもミスがあっても母は怒らないのだ、と知っていたから、上手く弾こうとも思わなかった。
それでも、続けるうちに少しずつ上手になった。
結局のところ、長い時間一つのことに集中していれば、一定の水準までは到達するのだ。
別に、カノンに眠っていた特別な才能が開花した、などという事実はなかったのだと思う。
たまたま、カノンが、そしてカノンの母親が選んだのがピアノだったというだけだった。幸いカノンはピアノを徐々に好きになった。腕前が上がれば、相応に楽しくなったから。母親は自分で弾くことこそなかったが、カノンが演奏する曲を聴くのは好きなのだと、その横顔を見ていれば伝わってきた。
そういうわけでカノンにとって、ピアノだけは、サボってはいけない何かだった。というより、そもそも古いキーボードそのものが母親という存在の証明だったのだろう。家のドアを開けた瞬間の安堵、そして透明な鎖。抑圧と保護を両立させる唯一無二の場所。それと同じ香りを、彼女はキーボードのスイッチを入れた瞬間にも感じるのだ。
母親を好きでいるうちは、ピアノだって好きなのだ。
「お母さん。合唱祭で伴奏することになった」
「おー良かったじゃん」
「うん」
真っ先にカノンが報告したとき、母親はなんともおおらかに喜びを表現した。カノンはゆっくりと説明を加え、母親もそれに相槌を打つ。
合唱祭だと、課題曲と自由曲の二種類を歌うんだけど。私はその、課題曲のほうを担当するんだよ。
へえー。
やっぱりみんな大体は自由曲を弾きたいっぽくて。他の人と比べられるのが嫌なのかな。それか、他の人と被るのがつまんないのかも。でも私はこだわりないから、自由曲の伴奏はもう一人の子に譲ったの。
そっかぁ、色々考えてるんだね、あなたも。
カノンは黙って、曖昧に微笑みを浮かべた。
……そうだよ、と。
答えたのはカノンの心の中でのみ。
声に出す気にはなれなかった。代わりに彼女は、心の中から母親に呼びかけるようにして、続きの言葉を強く思い浮かべた。
そうだよ。私は色々なことを考えているの。
周りのみんなが想像するより、ずっとたくさん。複雑なことを。
私の心の中は、ただ地味でピアノが好きなだけの女の子じゃないの。
私の名前はカノン。
唯一無二の、カノンなの。
自由曲を担当するのは、同じクラスの中で最もピアノの上手な男子だった。彼はサックスも吹けるし、“遊び程度に”ギターと三味線を習っていて、なんと自力で作曲もしているらしい。
両親がミュージシャンだというのだから、筋金入りである。
あれで勉学のほうの成績も良くて、運動神経もまあ悪くはないのだから、なんともまあ隙がない。
ちょっとナルシスト気味なのは玉に瑕だが、逆にカリスマ性があるともいう。
そんな彼に当然のように「俺は自由曲のほうがいいな」なんてキラキラした目で言われては、こちらが断れるはずもなかった。
だって、彼と自分なんて。
技量が違う。
修練の差が違う。
血や才能が違う。
音楽への愛も違う。
プロを目指している彼と自分では圧倒的に差がありすぎて、比べることすら烏滸がましい。
本当は、自由曲のほうがカッコよくて、好きだと思った。あの伴奏を弾いてみたいと思った。だけど彼に譲るのはこの世のことわりだとすら思えるほど自然なことだったから、「ちょうどよかった。私は課題曲の伴奏やりたいって思ってたんだ」なんて小さな声で言って、誤魔化してしまった。
本来なら、課題曲も自由曲も、両方の伴奏を彼が担当することになってもおかしくはなかったのだ。しかしできるだけ多くの生徒に特別な立場を経験させるために、伴奏者は基本的に二人用意するという伝統があった。二人目がどうしても用意できない場合のみ、一人が担当することになる。
カノンは勇気を振り絞って手を挙げた。
伴奏に挑戦したい人はいますか? はい。私、弾きたいです。
そんな意志を込めて、震えそうな腕を、まるで平然としている調子に装って、必死に上へと伸ばしたのだ。
きっとこの勇気が出せたのは、最低限、他のクラスの生徒と同じか———それより上手に弾くことはできると、確信していたからだった。
そうでなければ、ありえないことだった。
自信というものは、ある程度の部分が事実に裏打ちされている。
カノンには努力ができる。それを、カノン自身はよく知っていた。
ピアノに限定されるかもしれないけれど、毎日毎日、必死になって弾くことができる。
灰色にくすんだキーボードで、本物のピアノを弾く子供たちの多くよりも上手な演奏技術を身につけることができる。
負けない。
他クラスの、ごく普通の伴奏者たち。プロのミュージシャンとして生きていく覚悟なんてない、普通の畑の子供たちの中でなら、カノンは負けない。
クラスメイトに後悔はさせない。
彼らがカノンを承認したことを、苦々しく思うことだけは絶対にない。
私は負けない。
負けてなるものか。
「あー、そっか。カノンさんの家にはピアノがないんだねぇ」
「電子のはあるんですけど……」
「でもほら、それぞれの教室に貸し出したあの小っさいやつとほぼ同じ型のなんでしょ? そりゃ一般家庭にグランドピアノを期待しているわけじゃないけど、アップライト型サイズの電子ピアノってわけでもないとなると、ねぇ……」
授業終わりの鐘が鳴り、生徒がガヤガヤとおしゃべりをしながら教室へ帰っていく。
黒板のそば、楽譜を胸に抱えるカノンの前で、うーんと悩み声を出しているのは、音楽科の教員だった。
「でも。家での練習は、問題なくできます」
「まぁ。それが条件で伴奏者を募集したわけだからね。ただ、一部のCとAの音が出ないんでしょ? いかにあなたの技量に問題がなくてもさすがに」
「ピアノ教室に通っているので、二週間に一回は本物のピアノにもさわれます」
「いやでも……むむぅ」
音楽科の教員に注進したのは、カノンと同じ委員会に所属するクラスメイトだった。彼女との会話で、カノンはポロリと漏らしたのだ。キーボードが古くて音が出なくなってきた、という愚痴を。冗談めかして。
そうすると、彼女は真面目な顔で考え込んだ。
そして言った。
私はそれ、先生に相談するべきだと思うけどな。
そうして今日の授業の終わりに、まっすぐに彼女は教室の前に立つ先生の元へ歩いて行ったのだ。カノンに目配せをしたときの彼女の目が、『あなたの代わりに私が言っちゃうよ』と語っていた。
そして少し彼女と話をした教員が、カノンを手招きした。
帰り支度をしながらもこうなる事態を見越してぐずぐずしながら様子を伺っていたカノンは、素直にそれに応じた。
その後友人は教室を出ていき、カノンと先生の二者面談が始まって、いまに至る。
カノンの家はそれほど裕福ではなかった。広さもなければ、壁の分厚さもそこまで期待できなかった。よって、彼女が使っているのは、机の上に置いて弾く形のものである。子供でも一人で持ち運べる程度の重量しかない、安いピアノ。
もっとも、ピアノを買うことが不可能だということはない。音量が自由に調節できる電子ピアノ、弾き心地が限りなく本物に近いもの、そういった製品を一つ買うことくらいの余裕はある。
もしも本当に必要ならば。
できるのだ、その程度。
母親がカノンにそれを贈らないということは、そこまで切羽詰まってはいないということの証明に他ならなかった。
だって、大丈夫なのだ。
ピアノ教室で弾く時間もある。もしその時間すらなかったとしても、結果はそれほど変わらないはずだ。
きっとカノンは問題なく、合唱祭の伴奏を乗り切るだろう。
彼女の母親が買ってプレゼントした、特別な楽器。苦しくて辛くて、それでも愛と幸福に包まれた、思い出の結晶。その宝箱みたいな一つだけに頼って、カノンという名の少女は試練を乗り越える。
それでも。
教員には教員の、葛藤があった。
情と理の狭間にある何かを追って、教員はカノンの表情を読み取ろうとする。
結局、教員はカノンに一つの提案をしてきた。
「カノンさん。放課後にちょっと、音楽室で自主練とかしてみません?」
学校のグランドピアノに触れて、慣れておかないか。
要するにそういう提案であり、カノンには現状、断るべき理由は何もなかった。
特別扱いを知られてはまずいので、これは私たちだけの秘密だと教員は言った。
「秘密、ですか?」
「う……まあ。できるだけは」
完全に隠し切ることは不可能である。というか、そこにこだわる必要性もない。
諸々の条件を鑑みて、結局カノンはありがたく教員からの申し出を受け入れた。




