Ⅶ:白い悪魔
あの、冷たい照明は嫌いだ。
やわらかな琥珀に炎える鈴蘭のランプを見つめ、キースはベッドに力無く横たわっていた。あの家から持ち出したこの黒いジャンパーと、真鍮の撓う|茎葉の先に咲く磨り硝子の灯だけが、少年にとって、今確かに感じられる唯一のぬくもりだった。
ルイスから“ここを使え”と無愛想に与えられた小部屋は、錆びた銅を思わせる一面の深い緑青の壁と、焦げた赤土色の腰板に囲まれていた。森の色彩が包むその小さな部屋のほとんどを、神殿の柱を彫り起こしたような空っぽの重厚な衣装箪笥と、誰にも使われない大きな三面鏡を広げた猫脚の化粧台が占めており、ベッドから見える景色はそのどちらかだった。
少年は白い母猫に甘えるようにフードに巻き付いた化繊のファーに頬を埋めた。今日も、あの蒼白い施設で散々質問責めに遭った。機械たちと行った連想ゲームや、好きなもの選んでゆくだけの奇妙な検査と、仮想空間で行われた製作実験の時間は面白かったが、部屋から出る際に検査官の引き攣った生々しい人間の笑顔を見てしまい、それまでの愉しさは一瞬で無に帰した。
やさしさい人造人間から丁寧に足指の治療を受けている間、ルイスはまた何も言わずに何処かに消えた。
思わず看護用人造人間のやさしさに縋りつきそうになったが、“人間に対する全肯定と看護”をプログラムされた、嘘を吐く自由も無い完全無欠の笑顔に、手を延ばしかけた少年の心は冷静に後退りした。
みんな、親切だった───。
もし感想を求められるなら、そう答えるだろう。しかし、誰もが淡々と搬送装置に載せた“対象”に付き添う流れ作業者のようで、無感情に盥回しにされた少年には、うらぶれた虚しさと寂しさだけが残っていた。
あの場所にいるすべての人間が“神足融の息子”だということを知っている。だからみんな興味を持ち、だからこそ、生かされているのだ。
コンコンコン。
鳥が訪れたかのような硬くまろかやな音に、キースはシーツに頬を滑らせて戸口の方を見遣った。開け放した扉から足音も無く半身を覗かせていたのは、薄い灰青のハイネックを着たヴァルスだった。その寒々とした服の色も相俟って上半身だけが石膏像のように妙に白く浮かんでいる。そして白銀の重たい前髪の下から覗く眼は、相変わらず無言でじっと凝視してくる。その無表情を見返しながら目を泳がせていると、キースはふと、その手に何か透明なものが握られていることに気がついた。
ヴァルスは少年と、懐古品の展示室のかような生活感の無い部屋の様子をしばらく窺ってから黙って踏み入ると、ベッドから少し離れたところに立ち止まり、起き上がりかけた少年の前に薄紅色の小瓶を不安定に置いた。そしてすぐさま背を見せ、廊下に出ようと歩き出した。
「待って」
ヴァルスは足を止めた。しかし振り返ることはなく、要件が告げられるのをその場で待った。
「ありがとう───」
少し振り返ると、ぼさぼさ頭の痩せこけた少年の、何故か物哀しく微笑む顔がそこに在った。その、誰にも必要とされず無下に捨て去られた仔猫のような姿は、ヴァルスの足を留まらせ、掠れかかった曖昧な記憶を呼び起こし、不思議と無意識に吸い寄せていった。身体の赴くままに脚を動かすと、理由もわからぬまま、ベッドの少年から少し離れたところに落ち着いた。
守秘義務は鉄則だが、接近禁止とも、会話禁止ともされていない。
今、自分がここにいることに、問題はない。
青年は黙々と状況を整理すると、背筋を伸ばして無心に壁を見つめはじめた。
「─── 僕の両親は、研究と実験ばかりしてた。“眠らされている過去の力を掘り起こして、未来の地球のために活かすんだ”って」
どれほど時間が経ったのだろうか。ヴァルスは鏡台やサイドテーブルの上に時計を探しながら、この部屋には置いていなかったことを思い出した。少年はそっぽを向いてヴァルスとは背中合わせに座っている。何の意図もなくベッドに腰掛けたものの、徐ろに起き上がってきた少年の動向に、毛が逆立つように逐一背筋が緊張したが、さほど近づいてくる気配はなかったので、特に身動きを取ることもなくヴァルスはその行動を放っておいた。
また少しの間、ふたりとも重く黙り込んでいた。部屋には時々気不味そうにシーツが擦れる音と、ふたつの微かな息遣いだけが、ただひっそりと存在していた。静寂の中で、不意にキースがか細い声を発したので、ヴァルスは聴き耳を立て単語を整理しながら意識だけを背後に傾けた。
「─── 大勢、人や動物を、死なせたんだ。森を回復させるのだって嘘だ。みんな禁足地に、自然保護回復強化区域に入るためだったんだ。森や動物のことなんてどうでも良かったんだよ。みんな、研究のことしか・・・自分たちのことしか考えていなかった・・・最期まで、ずっと・・・」
キースは何度も涙を呑み込んだ。声にしたくない、認めてしまうのが恐い───、その不安は永い間恐れていたとおり、自らの発した言葉によって少年の頸にきつく襲いかかった。それでも、ただ独り真実を語れるはずの自分が、誰にも知られず、このまま有耶無耶に消えて失くなるのだけは、どうしても悔しくて仕方なかった。
やさしかったはずの、父の重みがまだこの身体中に残っている。
微笑んでいたはずの、母の怪たたましい声がまだこの耳に残っている。
「どうして、僕を産んだんだろう───。僕は、居ない方が良かった。僕は、要らなかったんだよ。なんで僕はあの時、死ねなかったんだろう───」
閃光が走った───。
青年はバネのように強張る右手をゆっくりと持ち上げ、胸元にあてた。骨か、筋肉か、内臓か、その奥の深い深い何かが震え始め、歪んだ顔が次々に浮かび、その悲鳴が聞こえ、その光景が悍ましい顔で襲い迫って来る。
「・・・白い悪魔・・・みんな・・・壊した」
キースは戦慄した。そのわずかな単語が何を意味しているのか、少年には運命のようにまざまざと理解にできた。固唾を呑み、声を確かめるようにヴァルスの方を振り返ると、茫然自失の青年は壁を見つめ、瞬きもせず小刻みに身体を震わせていた。乾いた薄い唇と細い陶器の顎だけが、壊れた機械のように、ぽつぽつと意味深な言葉を零し続けた。
「・・・白い悪魔・・・白い光・・・みんな、消えた」
───白い悪魔。
それは、かつて父親が、その誕生を“偉大なる息子”と讃えた存在。
いつかのあの日、偶然にも目にしてしまったその資料写真には、ただ“功績”とだけ見出しがついていた。工場施設、夥しい機材、数式、実験風景、不気味な防護服、病理標本、そして、研究者たちが単なる記録として並べた“死の一例”は、幼い身体の細胞に本能的な恐怖を植え付けた───。
その、人であったものと融け合うどす黒い瓦礫に埋め尽くされた、あまりにも酷い街の凄惨さは、少年の瞼の裏に焼きつき、脳裏にこびり付き、何度も悪夢に魘された。
あれはまるで、地上の地獄、そのものだった。
そして、この青年はきっと───。
「・・・ごめんね、ヴァルス ・・・ごめんなさい─── 」
キースは溢れ出した涙に溺れながら切れ切れの言葉を繰り返し、見開いた瞳で壁を見つめ、震え続けている青年に寄り添おうと、おずおずと手を延ばした。そして、ようやくその背中に指の先が触れたその途端、青年は突如立ち上がりドアを跳ね開けて部屋を飛び出した。
灰が降り注ぐ絶望の街を駆けた。瓦礫に皮膚を削がれ、撓垂れ掛かる融けた屍を押し退け、煤と化した肉塊を踏み、折れた骨片が足を刺してもなお、ひたすら、ひたすら、その扉が見えるまで走り続けた───。侵蝕された朦朧とする意識で、辛うじて外廓が残る古屋に逃げ込むと、指や甲をぶつけながら闇雲な手探りでバルブを捻った。
洗わねば、洗い流してしまわねば───。
降り注ぐ雨に縋るように頸を伸ばし、頭から真水を浴びた。清らかな雨は身体中に張り付いていた煤や、血肉や、街や、顔をどろりと融かして頬に垂れ、腕に滴り、足を滑り、赤黒い血溜まりとなって渦を巻き、悍ましいすべては、どろどろと排水口の中へと流れて行った。
” ─── 大丈夫?”
降り注ぐ水と壁の向こうから、透明なやさしい幻聴が聞こえた。青年は吐息と共にその顔を浮かべ、濡れた額を冷たいタイルに押し当てた。
「ごめんなさい───」
その言葉が何の意味も為さないことは識っていた。もう何処にも、行き場も逃げ場も与えてくれないことも。誰の、何のためにそうするのかさえも解らない。それでも繰り返し、繰り返し、その言葉をいつも呪いのように呟いていた。それは、少年の世界を覆い尽くす終わりのない辛さと苦しみの中に、涙のあたたかさを齎し、微かな安らぎに触れさせてくれるような気がしていた。
少年は虚しく取り残された手の平で宙を掴んだ。きつく握り締めると指先と手の腹にほんのりとぬくもりが感じられる。その手をもう片方の手で胸に抱き留めると、唇を振るわせながらシーツを手繰り寄せ、その渦の中に頽れる胎児のように身体を丸めた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい」
その亡霊に捧げる悲痛な贖いは、締め忘れられた蛇口から落ちる水滴のように、誰も居ない廊下の先の暗がりの中で、いつまでも、いつまでも、ぽつり、ぽつりと、滴り続けた。




