Ⅶ:白い悪魔
あの、白いライトは嫌いだ。疲れ果てたキースはベッドに力無く横たわっていた。ルイスに「ここを使え」と与えられた小部屋のほとんどは、深い碧色の壁に囲まれた重厚なワードローブと大きな三面鏡のドレッサーが占めており、ベッドから見える景色はそのどちらかだった。
今日もあの蒼白い施設で質問責めに遭った。奇妙な検査と仮想空間《VR》で行われた実験の時間は面白かったが、検査官の引き攣っていく顔が見えて、愉しくなくなった。やさしい人造人間から足の治療を受けている間、ルイスはまた何処かに消えた。みんな、親切だった。しかし、誰もが淡々と作業をこなし、流れ作業のように盥回しにされた少年には、何処か寂しさだけが残っていた。おそらく、あの場所にいるすべての人間が“神足融の息子”だということを知っている。だからみんな興味を持ち、だからこそ、生かされているのだ。
コンコンコン。
木の板を叩くまろやかな音に、キースはシーツに頬を滑らせて入口の方を見遣った。開け放した扉から半身を覗かせていたのは、灰色のハイネックのセーターを着たヴァルスだった。相変わらず無言でじっと凝視してくるので、その無表情を見返しながら目を泳がせたが、キースはふと、その手に緋い小瓶が握られていることに気がついた。ヴァルスは少年と部屋の様子をしばらく窺ってから黙って歩み寄ると、ベッドから少し離れたところに立ち止まり、起き上がりかけたキースの前に緋い小瓶を置いた。そしてすぐさま背を見せ、廊下に出ようと歩き出した。
「待って」
ヴァルスは足を止めた。しかし振り返ることはなく、少年が要件を告げるのを待った。
「ありがとう ─── 」
少し振り返ると、ぼさぼさの痩せこけた少年が何故か微笑んでいた。その捨てられた仔猫のような姿は、ヴァルスの足を留まらせ、掠れかかった曖昧な記憶を呼び起こし、不思議と無意識に吸い寄せた。身体の赴くままに脚を動かすと、理由もわからないまま、ベッドの少年から少し離れたところに落ち着いた。
守秘義務は鉄則だが、接近禁止とも、会話禁止ともされていない。今、自分がここにいることに、問題はない。
ヴァルスは黙々と状況を整理すると、背筋を伸ばして無心に壁を見つめはじめた。
「─── 僕の両親は、研究と実験ばかりしてた。“眠っている過去の力を掘り起こして、未来の地球のために活かすんだ”って」
どれほど時間が経ったのだろうか。時計を探したが、この部屋には置いていなかったことをヴァルスは思い出した。少年はそっぽを向いてヴァルスとは背中合わせに座ている。起き上がってきた少年の動向にいちいち背筋が緊張したが、然程近づいてくる気配はなかったので特に身動きは取らず、ヴァルスはその行動を放っておいた。それからまた少しの間、ふたりとも重く黙り込んだ。部屋には時々シーツが擦れる音と、か細い息遣いだけが聞こえている。すると、キースが唐突に話し始めたので、ヴァルスは単語を整理しながら耳だけを背後に傾けた。
「─── 大勢、人や動物を、死なせたんだ。森を回復させるのだって嘘だよ。全部、禁足地に、自然保護回復強化区域に入るための口実だった。あのひとたちには、そんなのどうでも良かったんだ。みんな、研究のために・・・・・・自分たちのことしか考えていなかった・・・最期まで、ずっと・・・」
キースは何度も涙を呑み込んだ。
声にしたくない。認めてしまうのが恐い。
それでも、誰にも知られず有耶無耶に消えて失くなるのが、どうしても悔しくて仕方なかった。
やさしかったはずの、父の重みがまだこの身体中に残っている。
微笑んでいたはずの、母のけたたましい声がまだこの耳に残っている。
「 ─── なんで僕を産んだんだろう。僕は、居ない方が良かったんだ。僕は、要らなかったんだよ。なんで僕はあの時、死ななかったんだろう ─── 」
閃光が走った。ヴァルスはバネのように強張る右手をゆっくりと持ち上げ、胸元にあてた。骨か、筋肉か、内臓か、その奥の深い深い何かが震え始め、歪んだ顔が次々に浮かび、その悲鳴が聞こえ、その光景が、悍ましい顔で襲ってくる。
「・・・街・・・白い悪魔・・・壊れた」
キースは戦慄した。その、わずかな単語が何を意味しているのか、少年には運命のように理解できたのだ。固唾を呑み、声を確かめるようにヴァルスの方を振り返ると、茫然自失の青年は瞬きもせず壁を見つめ、小刻みに身体を震わせていた。乾いた薄い唇だけが、壊れた機械のように開き、ぽつぽつと意味深な言葉を零し続けた。
「みんな・・・白い悪魔、呼んだ・・・白い悪魔、呑んだ・・・みんな」
─── 白い悪魔。それは、父親がその誕生を“偉大なる息子”と讃えた存在だった。
本能的な恐怖に、身体中の細胞が怯えた。目の裏に焼きつき、何度も悪夢に魘された。
あの時の凄惨な情景と慄えを、今、脳裏にまざまざと呼び起こしたのだ。
あれはまるで、地上の地獄だった。
かつて、偶然にも目にしてしまった、その複数の資料写真には、“成果”と見出しがついていた。
「ごめんね、ヴァルス・・・ごめんなさい ─── 」
キースは涙に溺れそうになりながら、せめてもの慰めに、見開いた瞳で壁を見つめ、震え続けている青年に手を延ばした。その背中に指の先が触れた瞬間、ヴァルスは突然立ち上がりドアを跳ね開けて部屋を飛び出した。
灰が降り注ぐ絶望の街を駆けた。瓦礫に皮膚を削がれ、纏わりつく融けた屍を押し退け、煤と化した人間を踏み越え、骨片が足を刺してもなお、ひたすらに走り続けた。朦朧とする意識で、辛うじて外廓が残る古屋に逃げ込むと、闇雲な手探りでバルブを捻った。
洗わねば。洗い流してしまわねば。
透明な雨に縋りつくように首を伸ばし、頭から水を浴びた。街も顔もどろりと融けて頬に垂れ、服に滴り、足を滑り、赤黒い血溜まりとなって渦を巻き、排水口の中へどろどろと流れて行った。
”大丈夫?”
壁の向こうから、透明なやさしい幻聴が聞こえた。青年はその顔を思い浮かべ、濡れた額を冷たいタイルに押し当てた。
「ごめんなさい」
少年は、虚しく取り残された手の平で宙を掴んだ。きつく握り締めると指先と手の腹がほんのりとあたたかい。その手を胸に抱えると、唇を振るわせながらシーツを手繰り寄せ、その渦の中に頽れると胎児のように身体を丸めた。
「ごめんなさい ─── 」
その声は廊下の先の暗がりから、いつまでも、いつまでも聞こえた。それはまるで、亡霊に捧げ続ける贖いのようだった。