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Ⅴ:幽霊

 幽霊が、食事をしている。キースははす向かいに腰掛け、ほとんど音も立てずに朝食を摂っている、銀髪の青年をちらちらとうかがっていた。ゆっくりとした動作でパンを小さく千切り、口に運び、何度か咀嚼そしゃくしてから紅茶の入ったティーカップをゆっくりと口元に運ぶ。先ほどから淡々と繰り返されるその動作は、まるで精巧な人造人間ホムンクルスを見ているようだった。その青年がキースを視界に入れたのは、昨夜のたった一度だけだ。このリビングでルイスに紹介され、初めて顔を合わせてから、まだその声を聞いたことはない。

青年は睫毛まつげを覆うほどの重たい前髪の下から、見ず知らずの少年の顔を、瞬きもせず、ただじっと凝視した。静止した藍色の瞳に感情はなく、性別や年頃すらもわからないその容姿に、キースは目を奪われ、言葉を忘れた。陶器のような肌にはしわ一つ寄らず、動作が少なく、呼吸しているのかすらも疑わしかった。青年は少年の紹介を大雑把に聞かされると、突然無駄のない動きできびすを返し、ルイスの呼び止めにも応じず、廊下の向こうへと姿を消したのだった。




 車を降りる際、再び歩けなくなったキースはルイスの腕に抱えられ、石畳と針葉樹を模した人工植物の間を行き、まるで本物のような樹木の香りに気を取られていると、突然、赤茶けた煉瓦造りの家の前で降ろされた。生まれて初めて目の当たりにする木製の玄関に、少年はまた感動の声を漏らした。擦り硝子と黒鉄くろがねで造られた、小人が棲んでいそうなポーチライトに招かれ、足元に座る大きな黒い犬の像が、凛々しく胸を張った執事のように出迎えてくれた。黄金色こがねいろのあたたかな光を浴びて、美しい曲線と凹凸を用いたシンメトリーの彫刻が施されたその扉は、重厚な薔薇色に輝いている。目を凝らすとそれが“生きていた証”があちこちに浮かんで来て、少年は思わずそっと手を延ばした。その横でやたらと時間をかけてカチャカチャと鍵を開けていたルイスが、やっと細かな傷の付いた古金色こきんいろのドアノブに手をかけた。


「言っとくが、あいつはちょっと変わってるんだ。驚かないでやってくれ」


キースが頷くのを待ってから、ルイスはやけにそうっと扉を開けた。緊張と不安と興味が廻る中、少年は開いていくドアの向こうの隙間を恐る恐る覗き見ていた。すると、広がった薄暗がりの中に、白く細長い何かが見えた。ルイスの腕の下から、さらに顔を覗かせて目を凝らすと、もやの中から飛び込んで来た不気味な瞳と目が合い、思わず呼吸が止んだ。


「おいヴァルス、またそんな格好でうろついてるのか、風邪ひくぞ」


その声に反応して、佇んでいた幽霊は瞬時に壁の向こうに消えた。ルイスの背後で唖然と立ちすくみながら、キースは息を整え、冷静に今見た白いものをもう一度よく思い返してみた。あの異様な細さはおそらく服を着ておらず、両手を下げて横向きに立ち、顔だけこちらに向いていた。その顔は白くぼやけてよくわからなかったが、見開かれた瞳が湿った光を不気味にたたえ、首に白いタオルか何かを垂らしていたのだ。驚かせてしまったのだろうか、とんでもない速さで陰に消えた。

悪い予感がすべて的中したルイスは、固まるキースを見下ろし、眉根を持ち上げると、半ば投げやりのため息混じりに言った。


「あいつはヴァルス。会話はできるが、話すのが苦手なんだ。まあ、気長にやってくれ」




 薄いレースのカーテンが音もなく揺れていた。少年はさほど広くないダイニングに置かれた四人掛けのテーブルに着き、フォークを片手に耳を澄ましていた。壁に掛かる太陽のような大時計の針は、寸分も狂うことなく律儀な音を刻み続け、バターナイフと陶器が重なる時や、ティーカップがソーサーと触れ合う瞬間に新しい音が生まれる。そして今、キースは食事の手を止めて、リビングの奥に見える暖炉に視線を奪われていた。


あれは、夢だったのか、それともこれが夢なのか。


少年がぼんやりと見つめる先で、折り重なった黒い薪がパチパチと音を弾かせ、火花を散らした。本当に夢を見ているような、不思議な家だ。どの扉も、窓枠も、壁の腰板までもが、よく磨かれたあたたかな木材で造られていて、扉や硝子窓付きのキャビネットはどれも古金色こきんいろ蝶番ちょうつがいで繋いであり、開くと甲高い小動物のような声を出す。扉には美しい流線を描くドアノブや、植物をかたどった金属の取手が付いており、そのひとつひとつを間近で見たくなるほど、どれも趣向を凝らした貴重な作品だ。博物館で過ごしているような夢心地を現実に引き戻すのは、シンク、それから今朝ルイスが乱暴に扱っていた小さなフライパンくらいだった。声やセンサーで動かせるものは何もなく、水すらも蛇口を捻らなければ出てこない。「食器は自分で洗え」と、スポンジと洗剤を使った非効率的な洗い方までルイスに教えられた。何もかも自分でするのがこの家のルールだそうだ。そんなルイスは先ほど、目玉焼きと少し焦げたベーコンをフライパンに乗せたままテーブルの真ん中に置いて「ミールはこれだ、ミルクは冷蔵庫フリッジ。パンがいいなら自分で焼け」と、キッチンの隅にある小さなトースターを親指で示し、会話すらままならないふたりを残して、どこかへ消えてしまった。


 急にヴァルスが席を立ったので、キースはまた息が詰まるほど驚いた。首から足元まで芯が通ったようにスッと立ち、驚く少年に目もくれず真っ直ぐシンクの方へ向かっている。手ぶらで一体何をするつもりなのかとキースが注意深くうかがっていると、ヴァルスはカウンターを通り過ぎ、木製の高杯たかつきに飾られた果物には触れず、シンクの上に並ぶ、シンプルな彫刻のキャビネットを開いた。そして上の棚から紅い瓶を取り出すときびすを返して真っ直ぐ戻り、ほとんど音も立てず、元の席に落ち着いた。その迷いのない静かな所作をキースはもはや美しいとすら感じていた。爪の切り揃えられた細い手指を揃えて瓶を開けると、青年は紅く艶のあるそれをひとすくいし、おもむろに紅茶の中に入れ、陶器と金属が生み出す心地置い音を奏でながら、金色のスプーンを揺らして優雅に掻き混ぜた。紅茶はみるみるうちに鮮やかな紅玉色に華やぎ、青年はその魅惑的な紅い飲み物をゆっくりと薄い唇に運んだ。すっかりとりこになっていたキースは、ふわりと香る甘い匂いに惹きつけられ、思わず言葉があふれ出た。


「それ、なに?」


自分の発した言葉で、キースは我に帰った。重たい銀髪の下から藍色の瞳がじろりと動いたからだ。少年はたじろいで唾を飲み込み、恥ずかしさと居心地の悪さからおずおずと目を逸らした。

怒らせてしまった。

おそらく不快なのだ。急に知らないヤツが家に上がり込んで来て、泊まり込み、厚かましく食卓に座り一緒に食事まで摂らされている。図々しく我儘わがままを言って彼らの生活に割り込んでしまったのだ。食欲が失せ、席を立とうとした視界の端に、何故か紅い瓶の影が入り込んだ。すぐに引っ込めたその腕を辿ると、無表情の青年が真っ直ぐこちらを見つめていた。しかし青年は一向に何も言わず、すぐにまた静かに食事の続きをはじめた。戸惑う少年の目の前にぽつんと瓶が佇んでいる。浮かせた腰を戻してから好奇心のままに紅い瓶を手に取り蓋を開けると、キースは大きく息を吸い込んだ。芳香な甘い香りが胸いっぱいに広がり、身体中の緊張が溶けてゆくような心地に酔いしれ、少年は恍惚こうこつと舞い上がった。そして宝石のように煌めく紅い湖にスプーンを差し入れ、ひと口味わうと、その豊潤な甘酸っぱさにキースの心はうっとりと花開いていった。

 

 ヴァルスは、そのジャムをとても幸せそうに味わっている少年を、ただただじっと観察していた。髪の毛や皮膚の状態を見るかぎり、おそらく何かの病気なのだろうが、錠剤や液体食ばかりの栄養管理食が自分と同じで口に合わなかったのだろう。ルイスから詳しく聞いたわけではないが、一旦そう結論付けた。他人を巣に入れることを嫌うあのルイスが何のつもりでこの少年をここに連れて来たのか、興味がないわけではなかった。しかし、この家の主人である彼に逆らう気など毛頭なく、異議を唱える気も皆無だ。ヴァルスは紅茶を最後の甘い一滴まで音も立てずに飲み干すと、皿とティーカップを持って席を立った。するとそれに気づいた少年もすぐさま立ち上がり、口に何かを入れたまま、すぐ背後に回ってついて来た。


「僕が洗うよ」


何を慌てているのか分からないが、急に接近してきた少年と肌が触れそうになったので、ヴァルスは反射的に身を引いて適切な距離を取った。キースという名の少年は驚き、心配そうな表情で振り返っている。


「ごめんなさい・・・大丈夫?」


その潤んだ黒い瞳で迫られたヴァルスは一度だけ頷き、素早くその場を離れると、真っ直ぐシャワールームへと向かった。何故か脳裏に、忘れたはずの声が微かによみがえって来る。


また、あの場所にいる。


 取り残されたキースは、独り蛇口に手を伸ばした。レバーを倒すと、弧を描いて俯く細い蛇口から、流れ出た水が冷たく手の甲を伝った。しばらくそうしていると。それは人肌のような、あたたかなぬくもりに変わってゆく。ふたり分の食器を洗い終えると、ルイスに教わった通りに皿とカップのお湯を切り、清潔な布巾で水気を取った。食器をしまおうとキャビネットに手を伸ばしたが、あと少しのところで届かない。痛みを堪え、爪先に力を入れようとしたその瞬間、突然ガクンと体勢を崩した。皿を台に転がし、カウンターに肘をぶつけ、床に肩が触れた寸前でぐらりと首がしなり、頭が宙に浮いた。


「どうした、何を泣いてる。どこか痛むのか」


ルイスの声にたずねられて、キースは自分が涙を流していることに気がついた。何故泣いているのか考えようとしたが、あやふやでどれも答えにならず、考えようとすればするほど、抑えきれない涙がとめどなくあふれ出てくる。見兼ねたルイスは、それ以上何も訊かず、声もなく泣き崩れる少年の頭をそっと、その胸に引き寄せた。

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