Ⅳ:獣たち
「夫婦喧嘩だって?」
銀色の四角いイヤーカフ型の無線から聴こえた声は、路面走行用のエンジン音と風を巻き込み、やけに遠く感じた。その快活な声の主は、どうやら既に任務を終え、見晴らしのいい場所で帰路のツーリングを愉しんでいたようだ。相棒の競速単車で疾走する、俊足の獣の姿が目に浮かぶ。
「ああ、見せかけか本気の痴話喧嘩かどっちだっていい。手掛かりが途絶えた。生け捕りにして神足融の口から危険因子を一網打尽にする計画が台無しだ」
通信元の男は直感通信端末のスクリーンに映し出された、任務を終えたはずの見飽きた資料を片手にエンジンを切った愛車の中に独り閉じ籠っていた。虱潰しのような面倒ごとを心底嫌う男にとって、すべての資料を辿って整合性や相違点を探る地道な作業は、始めては見たものの早々に嫌気が挿していた。しかしあの時鼻先を掠めた“違和感”の正体を確かめずにはいられない ───。
「珍しくついてないじゃないか。誰かに先回りされたのか?」
「ほかに首謀者が居るって言いたいのか?それならもっと“地味”にやるだろ」
要もなく屋根を開けた開閉転換車のドアに後頭部を預け、助手席の向こうに脛を組んだ長い脚を投げ出し、バスタブに浸かるような格好で、だらしなく天井を仰いで右手で頭を抱えた。躯体が剥き出しのダクトや配管が迷路のように入り乱れる天井は、まさに迷宮入りしそうなその“違和感”を表しているように見えてくる。
乾いた草原のような人工芝の拡がる地で競速単車に跨っていたヴェルフィンは、その気重な沈黙を察すると帰路に逸る気を冷まし、身体を起こして手元のギアを切り替えスピードを徐々に緩めて停車した。そして、早々に切るつもりだった短気を改め、無口で不器用で独り善がりの八方塞がりな男の泣き言に、少しだけ付き合ってやることにした。
「女の身元は?」
「マリー・サロメ・マイトナー・神足、自然保護回復強化区域の特級科学研究所貢献員だ。所長の旦那と並ぶ酔狂な科学者さ」
「そいつが回収した子どもの親だってことも、間違いないんだろ?」
「確かだ。照合結果も出てる。過度な整形と染髪の痕が気にはなるが、隠す気も無い。あのやり口から見ても、謀略や目眩しじゃないなら神足の趣味か、女側の依存だな」
「怨恨ね。だけど腑に落ちてないってわけか。 ─── 愚痴を言うために連絡したんじゃないんだろ、ジャッカル。要件は?」
図星を突かれた男は、無人の薄暗いガレージでサイドミラー相手に片頬を歪めると、眼を滑らせていた直感通信端末をダッシュボードの上に放った。
「そっちはどうだ、全員片付いたか」
「もちろん、抜かりはない」
「助手や親近者はどうした」
「リストにあった獲物だけだ。それ以外は手を出してない」
「なるほど、規則通りってわけだな」
「─── 何だよ、無駄足だったってのか? あいつらの研究施設まで独りで探りに行けって言いたいのかよ、特攻でもして来いって?」
すぐさま爆竹のように怒り散らした溌剌な声は、蜘蛛の巣のように煩わしく纏わりついていた靄を吹き飛ばした。その明快な反応を期待して、つい癖の悪い悪戯心を擽られる。ジャッカルは独りニヒルな笑みを浮かべた。
「そう熱くなるなよ、冗談だ。任務に完璧は無い。俺たちはウロボロスの腹の中でイタチごっこをしてるのさ」
「相変わらず渋いこと言いやがる」
不機嫌に鼻を鳴らし、またしばらく推し黙っているジャッカルの思惑を勘繰りながら、ヴェルフィンは要塞のような豪邸の建ち並ぶ、広大な郊外私有区域を睨んでいた。
何処からともなく浮上する危険因子を追えど潰せど途方もない。しかし、これは決して根絶ではなく“共存”のためだと、湧き立つ苛立ちを抑え込んだ。
この世界には、完璧な悪人も完璧な善人もいない。
かつて凶荒の齎した無情な争いに怒りに狂い、手のつけられない狂犬になりかけていたのだと、まだ幼かった時分に同じ声が語っていた。もう二度と、あんな時代には戻りたくないのだと ───。
「ヴェルフィン、聴いてるか、まだ境界放水地の辺りに居るだろ。その近くの、ある病院を調べて欲しい」
「あいにく、今日は報告と休養で忙しくてね。潜入調査なら専門家に頼みなよ。サーペントとは仲良しだろ」
任務終わりの慣れない物憂さを吹き飛ばす爽快な時間を邪魔された挙句、悪戯に、この世界の不毛さを掘り起こされたヴェルフィンは、すっかり臍を曲げていた。
すぐにギアを切り替え、既にヘルメットの通信部に指を構えている。
「おい、あいつはよせ、ほかの ───」
「繋いでおくよ、じゃあな」
即座に無線を切って片足を下ろしたまま、前方に聳え立つ石柱の単結晶のような高層ビルの群れを睨み据えた。しばらく葛藤したのち、吐き棄てるようにため息をついて鼻梁の根本に皺を寄せると、砂埃を舞上げながら大きく旋回し、中央都市に背を向けた。
そして姿勢を下げ、装甲覆の黒馬のような愛車と一体化すると、俊足の獣は一瞬で風になった。
八つ当たりしすぎたな ───。
そう気づく頃には通信は虚しく切れており、取り繕うにも手遅れだった。
曲者揃いの潜入部隊の中でも絶対に借りだけは作りたくない男“サーペント”を差し向けてくるあたり、その咄嗟の仕返しのセンスにはお見事と言わざるを得ない。
しんと静まり返った空気の止んだ薄暗いガレージで短く切り揃えた金髪を掻き荒らした。
問題は、あの子どもだ───。
問題は、あの子どもだ───。
鋭い眼つきの苦い表情で、男は頭上の入り組んだ迷路を仰いだ。




