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Ⅲ:女医

 ひと仕事終えた証に、女医は赤いフレームのメガネをそっと外した。ガラス越しに映る点滴に繋がれた黒髪の少年に同情を隠せなかったが、心を繋ぎすぎないよう、いつものように唇を少し引き締めた。


「検査の結果、癇癪かんしゃくや強い抵抗の傾向はなし。今のところ危険因子ではないわね。でも今は軽度のショック状態で不安定よ。当然だけど恐怖でパニックを起こしているの」

「落ち着いてるように見えるけどな」

「そうね、心拍数は落ち着いてる。むしろ弱いくらい。だけどかなり呼吸が浅いわ。苦痛に耐えるために心をとざしてるのよ。身体に虐待の形跡があった。父親から非道い暴力を受けていたようね」


女医の椅子に腰掛け、脚を投げ出してくつろいでいた男は、思わず顔を上げ眉をしかめた。


「母親の間違いじゃないのか、父親は研究でほとんど不在だったはずだ」

「いいえ、間違いないわ。監視のデータでは、彼は集団教育クレイシュには不参加で、外出も訪問者もなし。接近できたのは父親のみ。ちなみに夫婦生活の方は冷め切っていたようね」


ますます眉間にしわを掘り込み、物言いたげな顔で見据える男を女医はあっさりとかわした。


「資料は概要だけよ。任務には重要じゃないでしょ」


正論で彼女に敵うはずはない。この冷徹さと明晰さを買われて彼女はこの保安人事部のヘッドを任されているのだ。男は軽く首を傾げ、潔く身を引いて質問を改めた。


「チップは?」

「まだよ、あなたから話して。私は警戒されてるわ」


肘掛けに置いていた手で気重な額を撫で、少し考え込んでから男はゆっくりと立ち上がった。

ガラスのドアが開く微かな音に少年は虚ろな目を開けた。もう一度瞬きをし終えると、ベッド脇から大柄の男少年を見下ろしていた。その瞳は白いライトのせいか、空のように青く穏やかに見える。その後ろでは、頬にかかる軽やかな巻き髪の女医が凛とした赤い唇でそっと少年に微笑み、点滴筒の流量をチェックしていた。男は少し首をかがめ、少年の瞳を覗き込んで、細く小さなカプセルを少年の目の前に差し出した。


「キース、君は賢いからこの状況を理解しているだろう。これは、発信機だ。君がどこで何をしているか俺たちが把握するために必要なものだ。俺たちにも同じものが埋め込まれている。君は俺と、ここの存在を知った、だから ───」

「監視するため。裏切らないように」

「そうだ。そしてこれは、互いを護るために必要なんだ」


その言葉を受けて、キースは少し目を伏せて黙り込んだが、やがて重く頷いた。男は少しの間、乾涸ひからび、ささくれ立った唇をつぐみ俯いている少年を見つめた。しかし相応しい言葉は見つからず、代わりに大きな手の平をキースの胸元にそっと置いた。


「これは大切なことだから、今すぐに答えなくていい。落ち着いてよく考えてから決めるんだ。君はこれから、どちらかの道を選択することになる。俺たちの仲間として生きるか、それとも、一元の世界で生きるか」


「戻りたくない」


突然、声を上げたキースに、男は女医と顔を見合わせた。女医の鋭い視線が無言で警戒を促している。男はその警告を冷静に受け止め、飽くまで穏やかに締めくくった。


「そうか、わかった。でも、いつか気が変わったら、その時はいつでも相談してくれ、いいな」


キースはまた伏し目がちに頷いた。女医は傍に用意していたシリンジを手に取ると「少し横を向いて」と、やさしく少年に指示した。素直に首を寝かせたキースは目を閉じ、その時を待った。癖のあるキースの襟足をめくり、麻酔を塗布してから、女医は先端を斜めに削ぎ落とした太い注射針をそっとあてがった。その瞬間を幾度となく見て来た男は、また複雑な心境にあった。安心、安全、管理、監視、規則、どんな理由であれ、これが本当の自由を奪うということに変わりはないのだ。声を上げることもなく乗り越えたキースの黒髪を、女医は一度だけやさしく撫でた。


「終わったわ」


重苦しい大役を終えた男は、大きく息を吐いて煮詰まった空気を吹き飛ばすと、かがめていた身体を起こし、ニヤリと片頬をゆがめた。


「それじゃあ、改めて自己紹介といこう、俺はジャッカルだ。よろしくな、キース」

「私はカレンドラよ、カレンでいいわ」

「あたたかい部屋を用意してもらえ、キース。今夜はよく眠れよ」


突然解ほぐれた雰囲気に、キースは茫然ぼうぜんと二人の顔を見つめた。社会基盤施設ソサイエティの中心部に入り、巨大なビル内の研究施設のようなところに連れて来られたかと思えば、すぐに白衣の人々に引き渡され、衣服を脱がされ、治療され、検査と問診が始まり、点滴を打たれ、ベッドに拘束され、ガラス張りの部屋に軟禁された。これから新しい地獄が始まるのだとばかり思い込んでいた。気を張り詰め、覚悟していた少年の緊張は一気に弛み、氷は溶け、今にも崩れてしまいそうになった。

 カレンドラに後を頼むと、ジャッカルは処置室を出た。女医の椅子に投げていた緋いジャケットを肩に掛け、あたたかいシャワーとベッドに思いを馳せながら揚々と廊下を行き、正面のエレベーターに手をかざした、その時だ。


単身部屋セルも、共同部屋ドームも嫌なんですって」


振り返ると、不本意な声量を張り上げた女医に支えられて、病衣姿のキースが膝を振るわせ虚弱な足で立っていた。ジャッカルは半分振り返ったまま立ち尽くしていたが、呆れ顔の彼女が何を言わんとしているのか、やっとピンと来た。


「・・・うちには無愛想な先住が居るんだ、カレン、お前の家なら」

「あなたがいい」


その小さな声とは裏腹に、太く真っ直ぐな眉と黒目がちな瞳が、その頑なな決意を強く訴えていた。繊細そうな少年への返答に困り果てているジャッカルの背後でエレベーターが到着し、そっとゲートが開いて、静かに乗客を待っている。

断れば、落ち込むのか暴れるのか、嫌われるだけなら、まあいいのだが。

これまでに何度となく子どもを保護したが、大抵は怖がり泣かれることも少なくはない。多少懐かれることがあってもそれは防衛本能によるものだと男は理解していた。それが避けられるどころか、ましてやこんな展開になるとは予想も覚悟もしていないうえ、カレンドラからじっとりとした目でにらまれていることも、困惑が増幅している要因だった。


「まったく、どんな口説き方したらこんなに慕われるのかしら。いいこと? この子、身体の方は重症なのよ。今は気付薬と点滴のお蔭でどうにか歩けてるけど、栄養失調に貧血、低体温、皮膚炎に、凍傷も酷いわ。いい加減な食事なんてさせないで、ちゃんと食べさせるのよ」


カレンドラは芯の通った低い声で言い並べながらコツコツとジャッカルに詰め寄った。その白衣の後ろについて迫って来た黒い瞳にもじりじりと追い詰められ、ジャッカルはついに観念し、薄い眉を持ち上げて、もはやおどけるしかなかった。


「キース、よく聴いて、このおじさんはとんでもなく人たらしなの。たぶらかされちゃだめよ?」

「おい、子どもに変なこと教えるなよ」


ジャッカルは閉じかけたエレベーターにもう一度手をかざしてゲートを開けると、キースを先へ促して、その後へのっそりと乗り込んだ。


「きちんと毎日欠かさず診せに来てちょうだい、いいわね、ルイス」


去り際に白衣をひるがえし、念を押すカレンドラに片手を上げて返事をすると、同時に最後のゲートが閉まった。カプセルエレベーターは乗り手の心情などつゆ知らず、ゆっくりと速度を上げ、着々と仕事をこなすべく上階へと二人を運んだ。静かに宙を滑る音が、蒼白い円筒の空間を薄い膜のように包んでいる。ジャッカルは頭上に表示された無機質な数字を無心に見つめながら、想定外の新たな作戦を疲れた脳内であれこれと練り始めた。


「ルイス?」

「ああ、ジャッカルはコードネーム。俺たちは互いに本名を明かさない。そのうちもらえるさ。カレンとは昔馴染みでね。まあ、俺のことは好きに呼んでくれ」


ルイスと呼ばれた男は、半分上の空でため息混じりに微笑んだ。キースは気のない男の方をちらりと見上げると、すぐに初めて乗る最新型のエレベーターに目移りした。マット加工の滑らかな金属素材に触れ、ハニカム構造の天井に見惚れ、マイクロチップ認証型の無駄のないパネルデザインに持ち前の興味をそそられた。この男のやさしさはきっと、すべての子どもに向けたものだろう。もしくは単に、仕事上の責務を果たしただけにすぎない。しかし、少年はこの男の不器用な笑顔にすっかり気を許していた。

あの赤い車に、もう一度乗りたい。

紺碧の夜空を見上げ、風を切って走った。あの時間が、何よりも忘れられず、いつになく愉しかった。

あの時、男は“ジャッカル”ではなかった。あれがきっと“ルイス”なのだ。

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