II:赤い車
聞き慣れない音がする───。布が擦れるやわらかい音に、金属が搗ち合う重たい音が混じっている。少し遠くの方で何か硬い物たちがカチャカチャと揺れているのも伝わってきた。
少年はいつもと違う違和感の中で目が醒めた。腕を広げられないほど身を縮めている事に変わりはないが、足がぶらぶらと揺れ、足首のあたりの骨が時々ぶつかり合っている───薄っすらと目を開けると、痩せこけた自分の膝が見えた。
「息子を確保した。δ(デルタ)、あとを頼む」
少し嗄れた渋い声が聞こえた。虚ろな瞼を上げて見上げてみると、薄色の無精髭を生やした男の顎がすぐそこにある。気づかれないよう息を潜め、そうっと視線を上げてゆくと、鷲のように尖る鼻、陰の深い眼元、さらには、白髪か金髪の短い前髪が逆立って見えた。頭と口元を覆っていた目出し帽の行方を辿ると、それは揺れる足先を包んで巻きついていた。冷えた身体を抱え、男は家の壁伝いに表の庭先の方へと歩いている。
この男は一体誰なのか、何故運ばれているのか、目を開けているのが精一杯で考えるほどの力も湧いてこず、少年は何もかも諦め頸をだらりと垂れるしかなかった。数歩踏み出す毎に立ち止まり、男は少年を抱え直して体勢を整える。その大きな手に、しかと力が込められているのを、少年は薄い衣服の下で繊細に感じ取った。
「俺と、来るか?」
あの時、意識を失いかけた寸前でその言葉が聞こえた。しかし自分が何と答えたのか、それとも答えていないのか、記憶の境が曖昧に、またゆらゆらと歪んでいる。まだ夢と現実の狭間に漂っているようだ。恐怖も、痛みも消え、宙に浮いた奇妙な幸福感に満たされていた。
このまま、眠ってしまいたい。これが最期の時なら、どんなに幸せだろうか───。
少年は何故か懐かしいようなぬくもり包まれ、安らかな運命に、ただその身を委ねていた。
「起きたか? 荷物をまとめろ。悪いが、あまり時間をかけるな。もうじきスカベンジャーズ《掃除屋》が来る」
次に目が醒めた時には、透き通った鋭い瞳が目の前にあった。息を呑む暇もなく腕を捕まれ、少年は軽々と持ち上げられた。身体がふわりと浮いたかと思うと、地面に降ろされた途端ずしりと重力のすべてがのしかかり、支えきれず頽れそうになった少年は、慌てて足を踏ん張った。あ、と思わず悲鳴をあげそうになり、咄嗟に足庇った。しかし、思わずついてしまった黒ずんだ爪先に覚悟した痛みがない。そういえば、何かをちくりと刺されたような記憶が、今ぼんやりと浮かんできた。その頸元を触りながら少年が不思議そうに顔を上げると、男は顎をしゃくり背後の階段へと無言で急かした。少年は不服そうに俯き、上目遣いで奥のエレベーターの方を見遣って、また少し男の顔を窺ってみた。しかし一向に電気を付ける気配もなく、リビングを背に立ちはだかる男の気が変わる様子は微塵もない。その眉間に彫り刻まれた皺と、目尻に被さる重い瞼の険しい視線が問答無用の威圧感を放っており、充満している生臭さの正体も、壁の向こうで争っていた声の結末も、確かめることは一切出来そうになかった。
男に言われるがまま手摺を握って螺旋階段を登りながら、少年はこの先の自分の行く末について考えを廻らせた。
この男はただの強盗ではない───。誰かに連絡していたようだから、どこかの軍隊か、秘密組織の関係者なのかもしれない。銃を持っていたうえ、あの背丈、身体つき、到底子どもが太刀打ち出来るような隙もない。─── 何にせよ、大人しくしていれば暴力を振るわれるようなことは無さそうだ。でもそれも、ほんの束の間のことだろう。これから何処に送られるのか、何をされるのか、そう考えるだけで足取りが重くなる。死神なら良かったのに。どうせなら、早く終わらせて欲しい。
少年はまた闇雲に終焉を願った。ふらつきながら階段を登り切り、二階の突き当たりにある狭い暗闇を目指した。開け放たれたその戸口に立つと、感知式のライトが音もなくすっと点灯した。反射的に眩しく目を細めた少年は右手にあるセンサーパネルに触れ、すぐさまライトを落とした。再び青黒い空間となった独房のような部屋を少年は静かに眺めた。シャッターで締め切られた窓に、黒いモニターだけが佇む無機質な机、そして灰色のベッドとその上で乱れた皺を虚無の瞳が焦がすほどに見詰めた。
随分と前に部屋の扉は取払われ、不機嫌な父親はいつでもそこに入り込めた。ヒステリックな母親もまたいつでも怒鳴り込み、いつでも引き摺り出せるようになっていた。
少年は脳裏で火を放ち、ここで過ごしたあの記憶ごと部屋を轟々と燃やしながら、無表情ですぐ横の壁際に近づいた。壁面に埋まる繊細な擦り傷のようなヘアラインの扉に手の平を触れると、壁に切れ目が生まれ、音もなく浮き上がった扉はスッと右側の扉の上に滑った。現れたクローゼットの物寂しい細長い空間から、ぽつんとぶら下がっていたフェイクファーの白いフードが巻き付いた黒いジャンパーを取り出した。目的を終え立ち去ろうとしたその時、少年は何かに呼ばれてクローゼットの中をもう一度振り返った。その視線の行先、その隅にざらざらと沈む暗闇が名残惜しそうに意識を誘い、黒い瞳を切に惹きつけて離さない───。
しばらく思い詰めたあと、未練を断ち切るように扉を閉じ、少年は男の待つ階下へと向かった。
「それだけか?」
渦巻く巻貝のような螺旋の踏み板の間から、待ち草臥れた男が片足に体重をかけて立ち、腕を組んで見上げていた。ジャンパーを抱え階段を降りてゆくも、一段降りる毎に膝が頼りなく崩れそうになるので、途中から手摺に両手でしがみつき、やっとの思いで下まで辿り着いた。その様子を辛抱強く見護っていた男は少年のすぐ傍に寄り添い、銃を握った右手で少年の背中を支えて玄関の方へと促した。
「この車はガソリンなの?」
唐突な少年の問いかけは物思いに耽っていた男を些か驚かせた。かれこれ一時間以上口を噤んでいたので、てっきりこの少年は口がきけないものと決め込んでいたのだ。
助手席の方を見遣ると、小刻みに針の揺れる丸いメーターパネルや、幾つも並んだ玩具のような銀色のダイヤル、初めて見る形の跳ね上げ式のスイッチに、少年は今にも手を伸ばしそうな姿勢で目を奪われていた。その無垢な知的好奇心に、任務と退屈さで凝り固まっていた男の気分は和み、つい口元が弛んだ。
「いいや、磁気浮上式だ。改造車さ。ガソリン車なんて今時、排気ガス吹かせて公道走らせてたら捕まるぞ」
ニヒルな笑みを浮かべた男の方を少年はちらりと横目で探った。
「車、好きか?」
窓際に片肘を突き、男は真っ赤な旧型車で雪の夜道を滑走している。その口振りと仕草は、まるで仕事を終えて帰路に着く父親の化身ようで、永い、永い間沈黙していた少年に、懐かしい親しみと安らぎをわずかに思い出させた。
「機械が、好き」
「血筋だな」
何気ないその言葉に少しだけ融けかけた心が閉じ、少年はまた固く冷たく凍りついた。
時に偏狂とも嗤れたその趣味に関心を向けられた男は機嫌を良くし、その些細な気配を見逃していた。弧を描く炭素繊維の骨と透明なアクリルの空が連なる蛇腹の景色の向こうに、男は待ち遠しく目を細めた。
「管状道路を抜けたら、屋根を開けてやるよ。最高だぞ」
あの家を出た男は、奥まった物陰に潜む黒いコンテナらしき物の傍に少年を連れて来ると、夜の闇に融け込んでいたカバーを剥ぎ、その下から現れた漆黒のゴツゴツした大きな車へと少年を乗せた。丸めたカバーを後部座席へ投げ込み、続けて黒の目出し帽も投げ入れ、男は勢いをつけて踏み込むと、どかっと運転席へ乗り込んだ。これは軍用装甲車というものなのだろうか、やはり特殊部隊なのだろうか、と、複雑な運転操作計器盤や重装な車内を見渡して勘繰っている少年に行き先を告げる事もなく、男はエンジンを起動すると見事なハンドル捌きで狭い物陰を器用に抜け出し、閑静な住宅の平地を黒い影が颯爽と走り出した。
人気のない土地を贅沢に占領する戸建てが立ち並ぶ、風通しの良い広々とした郊外私有区域を抜けると、間もなく景色は打って変わって密集した蟻塚を彷彿とさせる高層集合住宅が迫ってきた。その郊外と高層集合住宅のと境には、闇に浮かぶ美しい土星の環を思わせる大きな水堀が存在している。その分断された土地を歯車のスポークのように繋ぐのは郊外私有区域の専用区域各所から円形都市の中心地に向けて架かる大きな橋だ。そして、この橋の支えでもあり、この都市の動脈でもあるダムの水門と水力発電システムの施設が橋脚を兼ねてる。
巨大な時計の駆動機構の中に入り込んだような、金属と人工物の織り成す壮大な絡繰の建造物を眺め見ながら、その仕組みを得意げに語る父親の穏やかな声を、少年はその空耳の奥で聞いていた。
どうやら、男が中央都市の方へ向かっているのは間違いない。静かな胸騒ぎを押し隠し、少年は何も訊かず窓越しに橋を渡る暗い水面を見下ろした。
水門橋を降りると、今度は入り組んだ管状道路のインターチェンジが見えて来た。少年が上空で絡まり合う青白い龍のような筒状の道路を見上げている間に、男はチェックゲートを抜け、迷うことなく最下層道路に入り、そのまましばらく高層集合住宅の細い谷間を滑走した。相変わらず人影はなく、ただただ無機質な黒曜の壁や夥しい数の直線窓が流れてゆく。両端に迫り寄るビルの圧迫感を感じながら、少年は何故直行の高速道路を使わないのだろうかと、上層の管状道路を仰ぎ見ていた。
しばらく走ると、また一層大きな水堀と橋が見えてきた。ようやく息苦しかった居住区域の終わりだ。そしていよいよ、空に突き出た鉱物の単結晶のように夜光を反射する、美しい高層ビル群が近づいて来る。やはり社会基盤施設へ入るのだ。
夜に見ると、こんなにも綺麗だなんて───。
少年は不安を忘れ、遠景に浮かぶ蒼白い光を纏った幻想的な都市の景色に見惚れていた。すると男が突然ハンドルを激しく切って小径に入り、手前の鼠色のビルの地下へと車を滑り込ませた。
低い天井に暗いコンクリートの壁、剥き出しの赤茶けた鉄骨が並ぶその有様は、建て壊し忘れた廃墟としか思えないほど寂れ、荒んでいた。旧い駐車場なのだろうか───ほかに停まっている車は見えず、人どころか生き物の気配すらも感じない。
その物々しさに動揺を隠し切れなくなった少年は、シートベルトを握り締めて息を荒げていたが、運転席の男はその様子を気にも留めずに車を降り座席の方を向いて立つと、背中から抜いた黒いハンドガンを放り、複雑なベルトやナイフや形の様々なホルダーがぶら下がる重そうなサスペンダーを外し、ブーツに差し込まれた丈夫そうなズボンを、カチャカチャと音を立てながら手際よく脱ぎ始めた。そしてまたそれらを手荒に後部座席へ投げ込んで、最後に顎の真下まで覆っていた蛇の肌のような光沢を持つインナースーツまで脱ぎ捨てた。少年は息を呑んで、手の届く座席に無防備に転がっている黒い銃を見つめ、時々男の顔色を慎重に窺った。
これは、罠か、テストか、それともただの隙なのか───。敵か、味方か、それすらもわからない。しかしこの男は“そうすること”を望んではいない。今確かなのは、それだけだっだ。
引き締まった筋肉に余す事なく張り付くTシャツと細身のジーンズ姿と云う薄着の姿になった男は、無駄の無い大きな手で黒い凶器を拾い、鋭い瞳で真っ直ぐ少年を見据えながら、何も言わず後ろ手に背中へ戻した。
それから少年を置き去りにして車の背後へ消えて行ったかと思うと、低いエンジン音とともに、どこからともなく旧式の車が走って来た。その姿は、一瞬で少年の心を魅了した。ありふれた流線やドームの車両でもはない、少年の黒い瞳に映るその真っ赤な車は、まるで眩い芸術作品だった。横張りに大きく角張る車体に、前面を殆ど覆ったギラギラと輝くフロントグリル、磨かれた管楽器が突き出たような曲面が光る銀のバンパー、その両脇には対の丸いヘッドライトが二連に並び、車体の真ん中には優美な銀色のラインが風を切るように走っていた。
まるで博物館から抜け出して来たのかと思えるほど美しいその車体に見惚れていると、ゆっくりと窓が開き、男が顔を半分覗かせた。
「降りて来いよ」
薄手の生成りのセーターに緋いレザー調のライダージャケットを羽織った男は、先ほどまでとはまるで雰囲気が変わっていた。獣のような険しさと威圧感が薄れ、無害な落ち着きと、心なしか隣人のような親しみさえ垣間見えた。




