Ⅺ:毒蛇
用意周到なその紳士は、粗野な男の急なご所望により瓦落苦多で即興を講じる羽目になり、些か気分を害していた。地上巣本部に戻って着替えを支度する猶予も儘ならぬため、一張羅のスーツで卑しいコソ泥のように資材を集め、あくせくと院内を駆け巡り、道化師の真似事まで演じなければならない。濛々と立ち昇る白煙を背に長い廊下の突き当たりに立つ黒衣の紳士は、丁寧に切り揃えられた爪の神経質な指に懐から取り出した清潔なハンカチを当てがい、壁の中に一段奥まった赤いパネルに触れた。
節操なく散らかすと掃除屋がとやかく吼え集るのであまり派手な演出は避けたいところだが、後始末は立役者に引き取っていただくとしよう。周囲を警戒し頃合いを見計らってパネルを押し破ると、不穏な警報音が成り響き、天井から現れたスプリンクラーの雨が紳士を避けて降り注いだ。すると瞬く間に方々の部屋から看護師や奉賛者たちが右往左往しながらわらわらと炙り出されて来た。飛沫の死角からその様子を眺め見ていた紳士はハンカチを口元に用意し、品良く尖った細い鼻腔から大きく息を吸い込むと、飽くまで冷静に声を張り上げた。
「みなさん落ち着いて!ただちに患者をシェルターに移送してください!防煙マスクを持って、さあ早く!」
狼狽えるばかりの看護師たちは鶴の一声に判断力を取り戻し、声を掛け合いながら雨の中、各々の個室へ散り散りに駆け込んで行った。その騒ぎを尻目に、紳士は足元の消化器で小火を始末し、独り隠密に奥の隔離病棟へと向かった。
静粛な廊下にコツコツと踵を踏み鳴らす音だけが、ひと足毎に張り詰めた弦音の如く響いている。姿勢を正し、独り身を引き締めて歩調を乱すこともなく目的の扉へ直進すると、人感センサーに反応した一枚目の自動ドアが左右にさっと開き、紳士を足止めすることもなく易々と中へと招き入れた。その先の小さなエントランスホールのような小部屋に立つと、澄ました半眼で二つの行手をそれぞれ一瞥した。左手は“面会室”という名の監視室、正面には何の表示もない堅固な鋼鉄の扉が引き返せと言わんばかりに立ち塞がっている。紳士はその厚顔な扉の前に爪先を揃えると、何喰わぬ顔で白襟の下に羽根を隠した蝶ネクタイを整え、左端のセンサーパネルに手を翳し、前髪を丁寧に後ろへ均してから扉の中央の丸い眼球のようなカメラに顔を寄せた。
片眼で覗き込む文字列の空間に、管理者であり、現在長期不在中の医者のIDが表示され、間も無く開かれてゆく厳重な二重扉の狭間を見上げながら、紳士は苦労して書換えた認証コードの成果を独り薄笑みで讃えた。
安全で孤独な玉座の間に眠る、“幻の姫”に相見えようとは、何とも光栄なことだ。
鋼鉄の扉が重々しく上下に開かれ、次に現れた分厚い鉛の防護扉が両側に裂けると、眩しいほどの真っ白な部屋へと厳かに導いた。四角いパネルに張り巡らされたあまりに潔癖な空間に、紳士は思わず眼を細めた。無機質な一面のパネルの隙間には、細いライトに加え殺菌灯らしき光源が見える。何の凹凸もない無愛想な部屋だが、万が一のため、このパネルの裏にはあらゆる“対策”を潜めているに違いない。または、何の飾り気もないこの異様なほどに殺風景な空間は、中央に眠る禍々しい展示物のような生ける糸繰人形 ─── あの“幻の姫”を引き立てるためであろうか。
夥しい機器と垂れ下がるコードに装飾された白い祭壇のようなベッドから、ドレスにしては質素な病衣と細く萎びた足首が覗いている。紳士はその様子を遠巻きに眺めつつ念入りに薄手の手袋を装着すると、落ち着いた足取りでゆっくりと歩み寄り、その異様な御飾りの数々を鑑賞した。足首に見えた白い枷は、膝、骨盤、手首、肘、頸をも掴んでおり、肉を失い骨と皮と化したその身体はサポートベッドの言いなりのようだ。上部の生命維持装置らしき天蓋からは、細く絡み合う管やコードが幾筋も垂れ、鼻、腕、胸のあたりを這い巡りあらわな血管のように蔓延っている。うねる黒髪はほぼ抜け落ち、爛れた口元は蛇腹の太いホースを咥えていた。
コツ、コツと踵を鳴らし、眠れる“姫”の全貌を観覧しながら徐々にベッドの方へと近づくと、突如、眼窩に沈む瞼が見開き、唯一動かせるのであろう眼球だけがぐるりと回った。浮腫んだ白眼を剥き出しにして、高潔な黒い瞳が静寂を破った侵入者をじろりと睨んでいる。終末期とは思えぬほど、貪欲な目つきだ───。紳士は無礼な姫を冷ややかに見下すと、切り揃えた眉を持ち上げ恭しく会釈を差し上げた。節度のある距離を保って軽い挨拶を済ませると、踵を返して扉の施錠を確認し、隅にぽつんと据えてあった小さな椅子の座面をささっと払い、行儀良く腰掛け、品良く背筋を伸ばして膝を組み重ねた。そして、窓もない懲罰房のような部屋を憐れみながら、役者が揃うのを優雅に待った。
「医者にしては“派手な”格好だな、サーペント」
礼でも、詫びでも、労いでもなく、悪趣味な中古車と下品な私服で現れた粗野な男の第一声はそれだった。“ちょうど”不在の医者の代わりに慌てふためく看護師たちを手引きして、すべての人間を円滑に地下シェルターへと移送したうえ、先刻訪ねて来た見窄らしい子どもと愛想もない幽霊を出迎え、目的の場所へ道案内までして丁重にもてなしてやったというのに、相変わらず何とも恩知らずな男だ。波風立たぬ表層の下で静かに憤慨している紳士は尖った鼻から、短いため息を吐いた。
「着替える暇もなかったのか?避難は無事済んだんだろうな」
サーペントは真横で減らず口を叩いている男に顎を突き出し、呆れ顔で小頸を傾げた。
「日頃の不摂生が祟って風邪でも引いたのか?ジャッカル。その“鼻”が唯一の取り柄だったろうに、残念なことだ」
吊り上がった眉をさらに吊り上げ、紳士は黒いガウンの上から頸に下げている長い聖帯をこれ見よがしに翻した。鼻先を叩かれ鬱陶しそうに顔を顰めて横目で睨んだ際に、その紫紺の聖帯の先に縫い付けられた金糸の“印”が眼に留まり、ヴェルフィンが何故名指しでこの男を指名したのか、ジャッカルは今さらながらに理解した。
「 ─── 先導者か。相変わらず、いい趣味してやがる」
「医者よりは仕事が少なくて済む」
「最期に見るのが、お前の顔とはな・・・」
サーペントは、まだ何か言いたげな口振りで黙り込んだ男をちらりと蔑視した。くだらない戯れ合いの合間にも、ジャッカルは視線の先に全神経を注いでいる。今にも硝子を突き破りそうなほど研ぎ澄まされたその気迫は、傍らのサーペントをも緊迫させ、狭く薄暗い面会室の空気は硬く張り詰めていた。
「二重存在の件だが、お前はどう読む」
「壊死を装って摘出したのだ。IDチップが無くともあの“眠れる姫”にここを移動する術はない。我々が観ているマリー・マイトナーは事実上既に“死亡”している。信じる者だけがその存在を認める、つまりあれは“神”か“亡霊”だ」
「サロメがマリーの名を引き継いだのか」
「あるいは、そのチップを埋め込んだ“皮下組織”を文字どおり肌身離さず持ち歩いていたか・・・いや、その場合は個別のIDと重複データが存在する。やはり、ひとつは処分したのだ」
ジャッカルは眉間を歪め、平然と気味の悪い想像を語る涼しい顔の男を横眼で睨み、またすぐに視線を戻した。“神”とはあまりに大層だが、世界でも数少ない特級科学研究所貢献員の称号を持ち、厳重な隔離施設で寝たきりになってもなお、おそらくはその頭脳や功績に憧憬や尊敬を抱いて多くの“信者”や“後継者”が訪れて来ていることは確かだ。嫌疑が何であれ、その点に於いては認めざるを得ない。
「ずいぶん馴染んでるようだが、とっくに先回りしてたってわけか?」
「 あの女に、もはや成す術はないが、念には念をだ。血の気だけが自慢のアルファ部隊と違ってガンマ部隊は周到かつ、粘り強い」
「毒を与えてじわじわと弱るのを待つ─── お前に相応しい名だな“毒蛇”」
ジャッカルは監視窓の向こうを睨み据えたまま鼻で嗤った。その鋭い視線は、ようやく辿り着いた獲物に張り付き、斑の皮膚に浮き上がる血管の脈動すらも逃さず捉えていた。強靭な精神力か、はたまた運命の悪戯か、死に抗い続けた成れの果ては、あの夜眼にした神足融の無惨な亡骸を彷彿とさせる。
あの痛たましい姿は、傍に立ち尽くす少年の瞳に、どう映っているのだろうか ───。
サポートにベッドから少し離れた場所に佇んでいる少年は背を向けており表情の一切は窺えない。その背後にはヴァルスが護衛のように張り付いている。
分厚いマジックミラーの硝子越しに会話もない三人を辛抱強く監視していると、キースがわずかに動きを見せ、緊張が走った。瞬発的に身を乗り出すも、未だ微動だにしない隣の男に出鼻を挫かれ、サーペントは咄嗟に迷い止まった。毛を逆立てた鷲のように険しい横顔の出方を探るその間にも、少年が黒いジャンパーの左裾に、今にも手を差し込もうとしている───。悠長な男と少年の動きを気忙しく追っていたその時、少年のすぐ後ろで動いた新たな気配にはっとした。
「待て、ヴァルス、まだ動くな」
ジャッカルが鋭く吼えた。すると前髪の下から覗く紺碧の瞳が一瞬こちらを見遣り、壁に向かってわずかに頷くと腰に回した手を慎重に下げていった。すぐさまキースと女の様子を確認し、ジャッカルは軽く胸を撫で下ろした。勘付かれた様子はないようだ。キースは監視されていると知りながらヴァルスを連れ、ここまで導いた。その真意が必ず何かあるはずだ。この機会を、この最後の機会を、逃すわけにはいかない。キースか、マリーか、どちらかが口を割るの待つしかない。ジャッカルは自らの本能的な直感と感覚に従い、その危険の限界の瀬戸際まで彼らを泳がせようと断固意を決していた。
「 ─── 何故そんなにも信頼を置いているのか気が知れないが、私からひと言、忠告しておく。“あれ”は不安定だ。危険因子だぞ」
肝を冷やして気分を害したサーペントの高飛車な助言には耳を貸さず、ジャッカルは素知らぬ顔でマジックミラーの隅々を探るようにじっくりと見回しはじめた。硝子の嵌った縁を覗き込み、手の平でその段差を撫で、折り曲げた指の背で硝子傍の暗い鉛色の壁を軽く叩いた。無視された紳士は、その不可解な行動を白い目で眺め、愈々怪訝に眉を顰めた。
「この壁は頑丈か?」
「・・・見てのとおり防護壁だ。何を懸念しているのか知らないが、声は漏れてはいない」
一方的な会話に一層機嫌を損ねたサーペントは、あからさまなため息を隣人に向けて吹きつけた。ただでさえ無粋で無礼で無口なこの男が、無視まで決め込んだとなると、また独り勝手な企て目論んでいるに違いない。
狭苦しい監視室に暑苦しい独断的な男と肩を並べていることに嫌気がさしてきた紳士が腕を組み直していると、不意にジャッカルが緋いジャケットを跳ね上げ、何やらごそごそと動き出しはじめた。
背中に手を回し指先が金属に触れると、その感触を確かめずっしりと重い“愛銃”を徐ろにベルトから引き抜いた。硬く引き締まった力強い手には、近代では類を見ない美しい木目のグリップがしかと握られている。その重みは、初めて手にしたあの時よりも、随分と手に馴染んだように感じられる。歴史を語る、幾つもの古傷が刻まれた銀色の銃身を静かに眺め、ジャッカルはふと、片頬を弛めた。
見せるものすべてに心を躍らせ、無邪気に手を伸ばす、きらきらと輝く純粋なあの顔が、何故か今、ふと浮かんできた。
「何だ、その骨董品は。店を出る時ライターとでも取り間違えたのか?」
サーペントの退屈な挑発で我に帰ると、ジャッカルは身に染みた手順通り慣れた手つきで弾倉を取り出し、弾数を確認してからスライドを引き、薬室を覗き見て滑らかに装填を終えた。
「お前の額で、試してみるか?」




