Ⅹ:揺動
鋭い風が頬を冷たく叩いている。空は重く頭上にのしかかり、太陽は流れる雲間に明滅の亀裂を見せ、時折その弱々しい姿を現した。キースは着古した黒いジャンパーのフードを引き寄せ、やわらかな人工の毛並みに冷え切った頬を埋めた。郊外私有地の景色はもう見たくない。その記憶に刻まれた短い生のすべてを呼び起こす。サイドミラーに映る中央都市が小さく過去に遠退いてゆく。虚ろな物哀しさに吹かれいると、不意にあの夜の情景が、通り過ぎる景色の上に重なって想い浮かんできた。
あの、土星の環のような壮大な水流の音、最下層道路から見上げた空中で絡み合う白蛇の管状道路、犇く高層集合住宅の規則的で緻密な窓、蒼白い光を纏った神秘的で幽玄な社会基盤施設の高層ビル。金属が生んだ巨大な結晶のような精巧な都市。そして、その人口都市を縦横無尽に滑走する、博物館から飛び出してきた夢のような赤い車 ───。
あの車窓から眺めたそのすべてが、本当に、本当に美しかった。
あの場所を訪れることは、もう二度と、ないだろう。
次第に色を失い寂れてゆく景色の中に不自然に生い茂る人工植物に護られた集落のような隔離施設がちらほらと視線を引いた。“貢献者”たちの棲家、郊外私有地の終わりが近づいた証だ。覆われた樹々の狭間に見え隠れする装飾窓が並んだ優雅な凸型の建造物は、突き抜けた塔の先端に懇願の目印を掲げ、まるで天にその手を延べるように、ひと際高く空へと聳え立っている。その懸命な姿を見つめていると、鬱屈した気分がさらに澱みへと引き摺り込まれるようだった。
前方に弧を描く境界放水地の彼方に視線を移した。広大な大地に根を張り廻らせ青々と茂る針葉樹と春を待つ枯草の景色を眺めな見がら深く冷気を吸い込むと、生きた枝葉の匂いが鼻腔の奥に微かに届いて来るような気がした。───決して忘れたくない、懐かしい匂いだ。
自然保護回復強化区域での記憶は、もう十年も前に止まっている。
美しいはずの記憶はいつのまにか遠く隔たれ、いつのまにか、胸の奥に絡まりつく糸になった。
締めつけられるのは、もう嫌だ───。
ルイスは何も言わず、在るが儘を受け入れてくれた。
何も叱らず、押さえつけず、罰することもなく、自由を選ぶことを赦してくれた。
しかし、それは新たな糸となり、胸深くに纏いつき、またキリキリと締めつけはじめている。
渦巻く物憂い思考を払おうと、キースは靡く前髪を避けて運転席の方を振り向いた。
「ヴァルスの故郷には、何があったの?」
青年は前を向いたまま、視線をわずかに動かした。出発の際に小型一般移送車は自動操縦に設定したはずだが、不慣れなのかヴァルスはT字型のハンドルに両手を置き、フロントガラスに身体を向けて同じ姿勢をずっとシートに固定している。キースは灰青のコートに隠れた細い腕をちらりと見て、肩が凝らないのだろうかと訝った。
「 雪、山、草・・・ヤギ、オオカミ─── 」
ヴァルスは純粋だった。欲しいと言えば差し出し、行きたいと言う場所に連れ出し、訊れば何でも率直に応える。その恐れも躊躇いもない素直さは嬉しくもあり、何処か少し不気味でもあった。
この青年は、何か大切なものが壊れているのかもしれない。
少し気を引こうと血の気のない陶器のような横顔をじっと見つめてみても、気にする様子も振り向こうとする気配すら見せない。薄い唇が機械のように、問いに対する応えをぽつぽつと呟いているだけだ。
キースはまたぼんやりとフードに頬を預け、ふたりきりの車内にしゃぼん玉のように浮かぶ言葉ひとつひとつに耳を傾けた。草原、山々、樹々、鳥たち、獣たち─── 目に映る荒野の中に、動植物と人々が共に暮らしているお伽話のような理想郷を重ね、その叶わぬ寂しさに少しだけ顔が綻んだ。
「 ─── 素敵だね。僕はずっと郊外私有区域で育った。ほとんど出たことがないんだ。小さい頃は、まだあの〝外”と自由に行き来できたのに、もうできなくなった。勝手な大人たちが増えたせいだよ」
何故ヴァルスは、幸運に恵まれた土地を離れたのだろうか。故郷を懐かしいとは思わないのだろうか。それとも、そう思えない記憶の方が多いのだろうか。青年の口から、“家族”という言葉は聞こえなかった。
不意に、酷く発作を起こして部屋を飛び出たヴァルスのことが脳裏に思い出された。あの日のことを思い返すと、今も胸が苦しくなる。
ルイスは、一度もあのことに触れたことがない。
青年がシャワーばかり浴びていることも、時には服を着たままびしょ濡れで佇んで居ることも、心配どころか気にも留めない様子で平然と過ごしている。
「───ソーニャ」
思わず振り向き、何の脈絡もなく発された単語に、キースは小頸を傾げた。それは人の名だろうとは思ったものの、ヴァルスが誰かの名を口にするのは初めてだ。あまりにも凄惨な過去を今なお生き続けている青年に、失った人々のことなど無粋に訊ねられるはずもなかった。軽薄で無知な好奇心を見せればきっと、針の先に立っているような均衡の精神を、荒ぶる波の中に突き落としてしまうに違いない。悶々と思い廻らせながら静かにその続きを待ったが、言葉はそれを最後にぷつりと途切れてしまった。もどかしくなったキースは、純粋な興味と欲求に押し負けて、慎重におずおずと疑問を投げかけた。
「ソーニャ・・・は、そこに居たの? そのひとは今、どうしてるの?」
「 ─── 死んだ、ルイス、殺した」
衝撃が砕け、何かが、ばらばらと音を立てて崩れ堕ちた。
涙も流せず笑うことすらできない青年の理由を知るべきではなかった。
何故自分が生かされているのか、考えるべきではなかった。
“死神”のやさしさなど、信じるべきではなかった。
死を呼ぶのは、“白い悪魔”だけではなかった。
本当の“死神”が、現れたのだ。
これは偶然ではない、こんな偶然などあり得ない、まさか、“白い悪魔”を呼んだのは ─── 。
手がおろおろと宙を彷徨い、頸の後ろの小さな瘡蓋に爪を立てた。
“俺たちの、仲間として生きるか”
絡まる糸が喰い込み、震える心臓が大きく脈打ちはじめている。それはいずれ凍てつき、壊れゆくことを警告しているかのようだった。
「ふたりが動いた」
その連絡が入る頃には、ジャッカルは既に居住区域を出ていた。地上巣本部に寄る時間を惜しみ、装備も軍用装甲車も置いてきた。防弾繊維のインナースーツの上に緋いライダージャケットだけを羽織り、助手席には先ほどダッシュボードから取り出した愛銃の .44自動拳銃と小型のバレットケースを転がしている。わざわざ夜明前を狙って送られてきた、慇懃無礼でまわくどいサーペントの音声データを一時停止し、無線から聴こえる理知的な低音の心地良い声に集中した。
「マリーとサロメは別人よ。一卵性双生児だったの。どおりでDNAが一致するわけね。やられたわ」
「まさか出生記録まで探し当てたのか?」
「さすがに無理よ、とっくに焼失してるわ。彼女と親密な関係にあった整形外科医が吐いたと擬態部員から報告が入ったの。あなたも受け取ったでしょ」
男は、先ほどの気に障る音声データを脳内で巻き戻し、サーペントが念入りに育て上げたであろう、擬態部員の周到で狡猾なやり口を想像して閉口した。
報告によると“マリー・マイトナー”個人の名は事実上存在しない。神足融を所長とする自然保護回復強化を目的とした科学研究所と、社会基盤施設の情報保管庫にはサロメと同化した、マリー・サロメ・マイトナー=神足副所長としてのデータがひとつの個体識別用集積回路で管理されていた。事実上不可能である二重存在としてこの集結共和都市に存在し続けた、その巧妙な手口は不明だが、予め個別のデータを消去し、IDを偽装した上でサロメと共有していたであろうことは間違いない。
地下巣本部はその実証と消えた獲物の痕跡を探るため、削除データの復元試行と並行して、全研究員リストの地道な洗い直しと個々の動向を根気よく追跡した。その結果、あるひとつの数値が違和感として浮上してきた。一部の研究員たちが、限定されたとある施設に集中して足繁く通っているというものだ。さらにそれは治療や施術目的ではないという不可解な共通点を伴っていた。科学研究所との癒着の可能性も疑ったが、神足融は一度もその場所を訪れた形跡がない。
この不自然な事実から、その施設こそが獲物の潜伏先と睨み、そして現在、最終確認を行うべく水面下でγ(ガンマ)部隊が動いているというのが、現状のあらましだった。
ジャッカルはその報告を、まるで答え合わせのように聴き流していた。勤勉で着実な同朋たちの苦労など露知らず、その場所を誰よりも先に射抜いていたからだ。しかし、それを鼻に掛けるような性質でもない。何故かと問われれば“野生の勘”だとでも応えただろう。
ひと角の人間でもなければ、消え逝く者たちへの、関心は低い ───。
死は逃げ隠れする必要のない最上の隠れ蓑となる。しかし、屍肉を喰らう獣まで顔を連ねる獣たちに“諦め”という言葉は存在しない。喩え死の淵に迫ろうとも、大地の底に逃れようとも、獲物となった者に自由の運命などあり得ないのだ。
「 ─── それで、俺が撃ったのは?」
「サロメの方よ。顔を変えて、神足融の怒りを買ったようね。 ─── あの男がキースに執着するようになったのは、おそらく、そのせいよ」
ジャッカルは思わず、反吐が出そうだ、と唾棄した。
”完璧な悪人も、完璧な善人もいない”
いつか、ヴェルフィンに語った台詞が、荒ぶる獣の心に還って来た。
「 ─── まったく、そう願いたいね」
ミラーを睨んで独り呟き荒々しくギアを切り替えると、シートに背を押し当て、引き締めた腕を真っ直ぐ張り、ハンドルを力強く握った。
「カレン、β(ベータ)に医療班の要請を頼む、悪いが急いでくれ」
「─── あなた、終末期患者病棟で、一体何をする気なの?」
「見届ける」
女医にそう告げると赤い車は一気に加速し、ジャッカルは猛スピードで郊外私有区域の大地を駆け抜けた。




