Ⅸ:残照
ヴァルスはソファに座り、電光の反射すらない真っ黒な大型モニターを眺めていた。左手には天井から床まで届くヘアラインの壁が整然と並んでいる。右手には銀色の太いポール状の物があるが、何の機能を備えているのか手掛かりとなる特徴はなく用途は不明だ。防犯目的か窓らしきものは見当たらない。壁面上部に横長の細い隙間が見えるが、あれが窓だとするなら、まるでこの部屋は懲罰房だ。あの高さでは肉眼で外の景色を見ることは到底できない。
δ(デルタ)部隊が清掃済とはいえ、一切の生気もなく、殺風景で、無機質で、機械的で、ここはあまりにも“死”に近い。
───これが“家庭”か。
偽装用でないのなら、あらかじめ死を想定して整理したのか、それとも、ただの人の寄り付かぬ家だったのか ─── 答えは多岐にわたる。そして、どれも不正確だ。
退屈したヴァルスはリビングを見渡し、仮想空間訓練で会得したばかりの手順を脳内でシミュレートしはじめた。来週に控えている β部隊での実践訓練より先に、実際の現場に入れたのは好都合だ。
先ずゲート、アプローチ、エントランス周辺には、目視だけでも相当数の監視カメラと人感センサーが存在する。各制御システムは指紋、虹彩認証型。すべて生体認証登録が為された人間でなければ操作不能。正面からの侵入は困難と判断。遠隔停電によりすべての信号を遮断し、屋上から侵入。凡そ五秒後に予備バッテリーが起動。セキュリティセンターに自動送信される侵入者情報は、γ(ガンマ)部隊の擬態部員が事後各所で抹消。ここでは、万が一アラームが鳴り出した場合を想定すべきだ ───。しかしそれには対象がいなければ進まないことに気がつき、ヴァルスの思考は再び停止した。
ゆっくりと頸を回して、音のしない巻貝の化石のような白い螺旋階段の方を振り返った。
探し物は、まだ見つからないのだろうか ───。
深閑と静まり返った薄暗い部屋で、少年は独り暗闇と向き合っていた。立ち尽くすその手には古ぼけた一枚の写真がぶら下がっている。あの時ルイスは“スカベンジャーズが来る”と言ったが、部屋は踏み荒らされた形跡もなく、ベッドの皺すらも変わらず、クローゼットの暗闇も在りのままを遺していた。
そこには、たった一度だけの、幻のような記憶を大切ぬにしまっていた。
誰にも見つからないように、その奥深くにしまい込み、見つけて貰えるようにと願っていた。
少年は、待った。
傷つき、病み、痛みに斃れかけてもなお決して諦めず、暗闇の底で一条の希望を持ち続けた。
しかし、想い焦がれたその時は、永久に訪れなかった。
何故ならそれは希望ではなく、ただの理想や期待にすぎなかったからだ。
本当はその瞬間を、恐れていただけなのかもしれない。
現実を受け入れ、真っ向から向き合うことが、とてつもなく恐かったのだ。
やっと、そう認めることができた ─── 今やっと、覚悟が決まった。
待っていても来ないのなら、自ら歩んで行くしかない。
すべては、そうするしかないのだ。
キースはざらざらと沈む暗闇に手を伸ばすと、封の開いた一通の手紙と、小さな黒い箱をそっと手した。
繰返し続ける単調な針の音は永遠さえも感じさせる。滔々と流れゆく時は無情にも、すべての熱を静かに奪い去る。黄金色に照らされる白い皿はとうに冷え、昼間レフが差し入れた肉は、硬く乾きはじめていた。男は気の進まない食事を蟠る胃の中に流し込み、荒々しく水を煽った。グラスの傍から注ぐ視線は無意識に尖りを帯びている。それを知ってか知らずか、時空の隅で蹲る少年の横で、青年がひとり、淡々と食事を進めている。
レフが最後まで顔色を窺いながらそそくさと店を出たのち、ルイスはカウンターに残り、独り資料を開いていた。少年たちが戻るまでの間、そうして暇を潰すつもりがどうも手につかず、憂さ晴らしに境界放水地まで愛車を走らせた。
滑走する管状道路の中から蛇腹の防護膜越しに、人と車両が蟻のように行き交う居住区域の景色に眉を顰め、渋滞する水門橋を通過すると、ギアを浮揚滑走モードから路面走行に切り替え、屋根を開けた。そして殴りつけるような風の中、今度は広大な人工芝に覆われた郊外私有区域の奢侈な豪邸たちを横目に睨んだ。
次第に緑が薄れ、路は道でなくなり、やがて赤い車は砂塵を巻き上げ枯れた大地の上を走っていた。片腕を窓枠に凭れ掛け、鬱念と苛立っていたルイスは人間の気配が途絶えた景色にようやく肺の奥底から息を開放した。
枯草が転がり砂埃の舞う大地は、前方を取り囲むフェンスを境にばっさりと途切れている。それは、先鋭的文明の終わりを意味する、集結協和都市の果てだ───。
物々しく張り巡らされた厳重なフェンスの手前に愛車を停めると、ルイスは緋いジャケットの襟を立て、乾いた風に眼を細めた。足元で地水溝の深淵に飛沫を噴き上げて降り注ぐ洪水の轟音が大地の底から鳴り響いている。眼を閉じると大地の雄叫びが骨を伝い、胸の奥を深く揺さぶるようだ。黄金の睫毛をゆっくりと持ち上げ、車を降り徐ろにボンネットの上に腰掛けた。
そうして時を忘れ、巨大な滝に護られた遠くの楽園、自然保護回復強化区域の空に舞う小さな鳥たちを眺めていた。
隔たれた地で戦ぐ金色の枯草に、かつては触れられたはずの届かぬ景色が重なってゆく。吹き荒ぶ冷たい風に打ち拉がれ、沈みゆく肥大した太陽が彼方の地平に融けるまで、ルイスはその景色の中に生きていた。
「帰ってきたわ」
カレンドラからの端的な報告を受けて現実に舞い戻り、ルイスは高速道路を飛ばして先ほど帰宅した。追跡装置によりカレンドラにはすべての行動が筒抜けのはずだが、誰もいない寂れた土地で男が何をしていたのか理由を訊ねて来るほど野暮ではない。訊ねてもはぐらかされることを読んでいるのか、それとも単に無関心なのか。
ルイスはくだらない思案を廻らせながら、古金色の鍵穴にキーを差し込んだ。些かぎこちなく玄関を開けると、普段どおりの歩調で廊下を軋ませ、習慣どおりダイニングに入って冷蔵庫から水を取り出し、いつもどおり行儀悪く立ち呑みながら疲れた様子で部屋の中を歩いた。
まるで台本に忠実な役者にでもなった気分だ。
そして何気ない素振りでリビングを覗くと、少年は暖炉の前のカウチに膝を抱えて座り、何食わぬ顔で出迎えた。
「おかえりなさい」
黒い瞳が見せる小さな動揺には、自認した罪悪感と許容を求める甘えた思念が混じっていた。
強請る相手を選んだのか ───。
その子どもじみた無垢な狡さが気に喰わなかったが、今動けばその“意図”を見失う。
“泳がせておけ”
カレンドラに向けた自らの声を反芻し、男は冷静に“ルイス”を演じた。
「喰わないのか」
キースはおずおずと上目遣いで目を合わせ、またすぐに逸らした。
こんな調子で様子がおかしくなったのは、三人で食卓に着いてからだ。レフお手製の肉の塊を温め直し、わざわざ多少の野菜を添えて立派に盛り付けた皿が、手付かずのまま少年の前で萎びている。
「そいつは本物だぞ」
俯く少年は義務的にフォークとナイフを力なく握ったまま、一向に動かす気配がない。
「ごめんなさい・・・」
「調子でも悪いのか?」
少年は横に頸を振る。外食でもしてきたのかと口走りかけて、咄嗟にヴァルスの顔を見た。その実直な瞳に濁りはなく、報告以外に何か隠している様子もなさそうだ。
気まぐれなのか、我儘なのか、考えたくもない。
賢い頭で、何かの心理戦でも企んでいるのか。
不貞腐れた顔を見飽きた“ルイス”は、ため息を呑み込み、やさしさの残り滓を自棄気味に投げつけた。
「肉が嫌なのか? それなら、何でもいいから好きなものを喰え。お前が喰わなきゃ俺は酷い目に遭うんだぞ」
演者らしく大袈裟に手振りをつけて言うと、キースは顔を伏せたまま、笑いを堪えて微かに頬を持ち上げた。その初めて見せるあどけない表情に思わず犬歯を見せて、ルイスはすぐに我に返った。
何を、笑っていやがる。
その矛先は誰に向かうのか、鳩尾で苛立ちが沸々と煮えている。しかし今夜に限っては、そうさせる要因がほかにもあることは明らかだ。
だが、絆されるな ─── お前に引き鉄が引けるのか。
少年に笑いかける男の中で“ジャッカル”が眼を光らせ、人知れず唸り声を上げていた。




