(18)前例
クレランス学園の敷地内には厩舎が存在し、そこで学園所有の馬車を引いたり生徒の馬術の授業に使うための馬が飼育されていた。その馬達は専属の者達に管理されていたが、ごく稀にそうでない者も厩舎に入り込んでいた。
「まさか『制服を汚すわけにはいきませんから』と、着替えを貸していただけるなんて、本当に助かりました。さすがに靴はサイズが合うものはありませんでしたが、紐で足首に括り付けていただきましたから何とかなりそうですわね。終わったら、改めてお礼を言いますわ」
にこやかに語るマグダレーナは、近くの作業棟の一室で着替えた厚手のシャツとズボン姿だった。
汚れを落とした清潔な物ではあったが耐久性第一の素材とデザイン、しかも着古したそれを平然と着込んでいる彼女を見て、エルネストは片手で顔を覆いながら呻くように悪態を吐く。
「いい加減にしろ。君は、どこまで周りに迷惑をかける気だ……」
その非難めいた台詞に、マグダレーナは驚いたように言い返す。
「まあ! 他の誰かに言われたのならともかく、そんな事を殿下に言われても何とも感じませんわ! 現にこちらを貸してくださった方は『エルネスト殿下がされているので、他に同様な事をしたいと言い出す方が来た時用に準備しておいた』と仰っておられましたよ? 諸悪の根源の方が、口にする台詞ではありませんよね?」
面と向かって暗に「お前のせいだ」と言われた彼は、さすがに苛立ちながら反論した。
「だからと言って、そんな作業着を着て厩舎の仕事をするとか、公爵令嬢のする事ではないだろう! 君には常識というものがないのか!」
「王子殿下のする事でもありませんわよね? ですが現に行なっている王子殿下が存在しているのですから、公爵令嬢でも気まぐれを起こすかと皆様が納得してくださっただけです」
「ああ言えばこう言う……」
反論を封じられたエルネストは、微かに歯軋りをさせて黙り込む。そんな彼に向かって、マグダレーナは満足そうな笑みを浮かべながらわざとらしく感謝の言葉を口にした。
「本当に、殿下には感謝しておりますのよ? 屋敷では使用人達にやらせてくれと頼んでも、両親に激怒されるので絶対にさせてくれないのが分かり切っていますから」
「……普通はそうだろうな」
「さあ、殿下。いつまでもぐだぐだ仰っていないで、作業の内容を説明してください。所定の時間内に頼まれた作業が終わらなければ、仕事をくださった皆様のご迷惑になりますわ」
「勝手に押しかけて来ておいて、どうしてそこまで偉そうなんだ……」
ブツブツと文句を口にしながらも、確かに周囲に迷惑をかけるのは不本意だったエルネストは、これまで何度もやっている作業内容をマグダレーナに手早く説明する。それから二人は、分担して作業を進めた。
(こんな姿を家族や使用人達が目にしたら、悲鳴を上げて卒倒されるか、お腹を抱えて爆笑されるわね)
改めてサイズが合わない大き目の革靴を含めた全身を見下ろしたマグダレーナは、思わず笑い出したくなった。しかしここで笑い声を上げたりしたらエルネストの機嫌が更に悪くなるのが確実であり、ぐっと堪えて作業に集中する。
(乗馬はするけど、馬がどんな所でどんな風に暮らしているかなんて知らなかったわ。これを食べるのね)
マグダレーナは、飼い葉桶に馬の餌である牧草や干し草を台車からフォークで移し入れ、端から順に移動していく。その合間に、横目でエルネストの様子を窺うと、彼は外で水を汲んだ水桶を黙々と厩舎内に運んでいた。
(一応、紳士ではあるみたいだし。嫌味を言われても別に気にしないで流していたら、完全に諦めたらしいわね)
女性である私に力仕事をさせないのは感心だわと、口に出したら彼に怒られそうな事をマグダレーナは考えた。そしてさりげなく声をかけてみる。
「本当に殿下のおかげで、得難い経験をさせていただいております」
「そうか。それは良かったね」
「殿下は、本当に良く分からない方ですね。捻くれているのか物好きなのか、何か信念がおありなのか教えていただけませんか?」
「捻くれて、物好きなだけだよ。それが何か?」
「そうですか。それでは養育係の方が、そのようにお育てしたわけですね」
「……何が言いたいんだ?」
ただでさえ友好的とは言い難かったエルネスト周辺の空気が、ここで僅かに不穏な空気を醸し出し始めた。しかしそれは予想されたことであり、マグダレーナは落ち着き払って話を続けた。




