告白
「今年の夏ぐらいは帰ってきなさいよ」
少し早い初夏の台風、もとい姉はお決まりの文句とともに、旦那と娘の元に帰っていった。
別に家族のことは嫌いじゃない。姉だって苦手なだけで嫌いじゃない。
仕事が忙しいというのはいいわけだ。姉の言う通り私がいなくても仕事は何にも問題ない。
ただ母と姉からの圧。そして地元で知り合いに会う可能性。それらと実家に帰ることの天秤が釣り合わないだけだ。
最後に帰ったのは祖父の葬儀の時だった。
遺棚から一冊の文庫本を取り出す。もう四年はこの棚に収まっているはずなのに、嗅ぎなれないけれど懐かしい匂いのする本。
これは祖父の遺品だ。
『告白』著者は湊かなえ。
亡くなった祖父の部屋に置いてあった文庫本。
死因は老衰。九十を過ぎても毎朝の散歩を欠かさない健康体だった。その日もいつもの日課である散歩を終え、朝食を食べ、居間でテレビを見ていたらしい。昼前、見回りにきた地域の相談員がちゃぶ台に突っ伏している祖父を発見した。
「あんたはおじいちゃん似よね」
親族たちは私のことをそう称していた。
どうやら、物静かで人の輪に加わらず一人で過ごすのが好きなところなんかが似ているらしい。別に私は好きで一人でいるわけじゃないのだけれど。
けれど、子供の頃の私はそんな祖父のことが苦手だった。
母方の祖父。
小学生ぐらいまでの頃は家が近いこともあって、姉とふたりで両親の仕事が忙しい時などは預けられることも多かった。
当時は祖母がまだ存命で、この祖母がやはり母の母であり、姉の祖母と言うに納得の女性だった。
祖母が焼いてくれるホットケーキが好きだった。アイスが食べたいとぐずる私の手を引いて近くの商店まで散歩したことも覚えている。姉が勝手に私のアイスを食べたのだ。「何日までたっても食べないからいらないのかと思ったの」そんなことを言っていたのだって覚えている。
祖母は喋り出すと止まらない人だったけれど、優しくて大好きな祖母だった。
しかし祖父の印象は薄い。
まず喋っているところを滅多に見ない。「ん」とか「あぁ」とかだけだ。
今思うと祖母と祖父は数十年も一緒に暮らしているのだ。会話しなくてもお互いのことがわかるのだろう。
あれ? けれど誰が相手でも祖父は喋っていなかったような。
祖母は回遊魚のような人で、いつも何かしらしていた。家庭菜園、編み物、干物、掃除、常にエプロンと頭巾をかぶった祖母の姿が印象にある。
対して祖父は白シャツにチノパン姿で座椅子に座ってテレビを見ている姿しか印象に残っていない。
夕方になると祖母が「ほら爺さん、テレビかえるよ」と言って私や姉が好きなアニメ番組に切り替える。
そうなると祖父は無言で書斎に引きこもってしまう。
よくわからない人だった。
ハシビロコウみたいなそんな人。
祖母が亡くなってからはほとんど母の実家に帰ることはなかった。
いや、一度だけあった。
中学生の頃。
両親は仕事、姉は部活の合宿。
「一人で大丈夫だって」
「ボヤ騒ぎ起こした娘の言うことは信用できないわ」
それは先月、カップ麺用のお湯を沸かそうとしてキッチンの天井が真っ黒になってしまったのだ。そのことを母は根に持っている。ちなみにあれから十数年経った今もだ。
祖母がいなくなった家はとても静かだった。
居間でテレビの音をBGMに本を読んでいた。
すると、ちゃぶ台の上にファイルが置かれた。
祖父がそのファイルを顎でしゃくる。
開いてみると、中身は出前のチラシを挟んだものだった。
「……どれでもいいぞ」
「それじゃ、ちゃんぽんにする」
「あぁ」
「……」
「……」
私が電話するのか、と立ち上がって祖父を振り返った。
「おじいちゃんは?」
「同じのでいい」
テレビでは確か、そう高校野球の中継をしていた。
「……アニメじゃなくてええんか」
「うん」
中学生になった私はアニメというかテレビもあまり見なくなっていた。父と姉はニュース番組とアイドル主演のドラマ番組を巡って喧嘩していたけれど、私は部屋で本を読んでいる方が好きだった。
祖父はそのまま甲子園で汗を流す高校球児を眺めていた。
「……」
「……」
ちゃんぽんの味は覚えていない。もうすでにあのお店も潰れてしまっているだろう。大して美味しくなかったことだけは覚えているもの。
結局、お互い無言で麺を啜り。
「じいちゃんは寝る」
「うん。おやすみ」
「……あぁ」
それが祖父のことで唯一覚えている思い出。
だからだろうか亡くなった時も、祖母の時のように涙が止まらないということはなかった。
祖母の時は参列者も多かったが、祖父の時は親族ぐらいだった。
「あら、やだ懐かしい」
「なになに」
母と姉は遺品の整理をしながらアルバムやらなにやら出るたびに騒いでいた。
私は祖父の部屋に足を踏み入れた。
ベッドと衣装棚。それから小型の液晶テレビがあるだけの部屋だった。
そんな部屋の片隅。
そこに数冊の文庫本が積み重なっていた。
一番上の本にのみ栞が挟んであったので、読み終えたらそこに積んでいたのだろう。
どんな本を読んでいたのだろう。正直、祖父の好みが想像できなかった。少しの好奇心と罪悪感を持ちながらひとつひとつタイトルを確認した。
うーん。
どれも有名な。それこそ書店で見かけないことはないような話題作ばかりだった。
しかも共通点は話題作というだけ。ジャンルもバラバラ。普段読書はしない人が暇つぶしに買った、というようなラインナップだ。
少しの落胆と安堵。
「あっ」
最後、一番下の本を見た時に思わず声が漏れた。
告白。著者、湊かなえ。
あの日、私がこの家で祖父とちゃんぽんを食べた日に読んでいた本。
奥付の刊行日は二〇一〇年の初版版。
告白は当時映画も公開され人気を博していた。その増版ペースから考えれば、祖父はあの後、すぐに購入したのだろう。
どうして祖父はこの本を手に取ったのだろう。
読んでどう感じたのだろう。
私に似ていたらしい人。
もうこの本の感想を聞くことはできない。
けどきっとこの本には、祖父が手にしていた時の風景も、音も、そして気持ちも残っている。
十冊ほどの本の中から、私はその告白の文庫本だけを家に持ち帰り遺棚へ収めたのだ。
未だにこの本は祖父の思いや、気持ちを私に『告白』してくれることはない。




