亡霊は夜歩く
「本当、いい加減に帰ってきなさいよ。母さんや父さんだってもう若くはないんだから、少しは大人になったところ見せて安心させてやなさい」
姉の小言が始まる。
場所は私の住んでいる千葉のマンション。
リビングで姉と昼間に東京駅で買った甘味を肴にお酒を飲んでいた。いや、付き合わされていた。
私はこの姉が幼い頃から苦手だ。
私は幼い頃から何事も熟考を重ねるタイプ。
そんな私を鈍臭いと捉えている姉は、何かと世話を焼いてくる。
同じ血、同じ家で育ったはずなのにこうも違うのか。
「東京でしたいこともないんでしょ。この部屋だって住所は千葉なわけだし」
時計をちらりと見る。軽くお酒が入っているせいか姉の小言が止まる気配はない。
空のグラスに手酌でお酒を注ぎたしていく。あぁ、それ高いのに、という私の言葉は聞こえていないようだ。
「お義兄さん放っておいていいの?」
「大丈夫、大丈夫」
「リリちゃんだって」
「はぁ~、リリももう中学生よ。逆に喜んでるわ。むしろ私はあんたの方が心配よ。小学生ぐらいから何も変わってないんじゃない。本ばかり読んで」
「……」
話題を変えようとしたが、結局は私への小言に戻ってくるのだ。
年に何度かこうして私の様子を見にやってくるのだ。姪っ子のリリが生まれて数年は来なかったのだが子育ても一段落ついたのか、はたまた自分の息抜きのためかここ最近は泊まりがけでやってくるのだ。
「……仕事が忙しいの」
「休みが取れないわけでもないでしょ。あんたが休んで困る人もいないでしょうに」
そう言われるとぐうの音もでない。
別に仕事への熱意も、思い入れもない。ただ実家へと帰らずこの街にとどまる言い訳としてでしかない。
「ぐずぐずしているだけなら、私が飛行機のチケットも買って送るわよ」
姉の中で私はいつまでもランドセルを背負った子どものままなのだ。
「もう、帰るときは自分で帰るから放っておいて」
「ちょっとあんた。あぁ、もう」
「明日から仕事なんだからもう寝たいの」
尚も小言を続けようとする姉から逃げるように寝室へと逃げ込む。
流石に眠るのも同じ部屋なんて耐えられない。こういうときはこの部屋を借りたことをうれしく思う。
姉はまだ言い足りないのか扉の向こうでブツブツと言っていたが、隣室の今は姉用の客室となった書庫部屋へと引っ込んでいった。
ふぅーっと一息つく。
ベッドのサイドテーブルには何冊かの本を積んである。姉がいる間は極力書庫部屋には立ち入りたくはない。だからすでにこちらの部屋に何冊か運び込んでいるのだ。
これらは遺棚に並ぶコレクションではなく、私がかつて読んでいた本だ。
その本の山から一冊手に取る。
『亡霊は夜歩く』著者は、はやみねかおる。
はじめて読んだのは小学生の時だった。
学校の図書室で『そして五人がいなくなった』を読んであまりの面白さに次の貸し出しまで待てず、お小遣いを握りしめて買いに行ったのだ。
その時に買ったのは新書サイズ。私が今、手にしているのはその数年後に講談社文庫版として再版されたもの。
この物語を読んでいて思い返されるのは、懐かしい夜の感覚。
今では本を読んで宵っ張りなんてのはいつものことだが、子供時代は時計の針が夜十時を過ぎた後は未知の世界だった。
そこは大人の世界だった。
早く寝なさい、という母の声。すでに中学生だった姉は寝る気配もなくテレビを観ながら友達とメール。父は何も言わずビールを飲んでいた。
そんな彼らを背に私は本を持って部屋へ向かった。
布団にくるまり、ポケットライトの光で本を読む。
あの時のドキドキ。物語の世界に没入しているドキドキと、十時以降の世界に起きているドキドキ。
まさに物語の世界、非日常に飛び込んだようでワクワクドキドキしていた。
それがこの物語への記憶。
次はこの本自体の記憶だ。
中学を卒業して高校進学を控えた春休み。
私は再びこの『亡霊は夜歩く』に出会った。
文庫版として再版されていたのを書店でみかけた。
懐かしい、と思わず手にしていた。高校進学のお祝いに親戚からもらった臨時収入でお財布は学生時代で一番富んでいたのだ。
私はその足で駅前のショッピングモールにあるフードコートへと向かった。
あの頃の私はまぁ、あれだ年頃の子なら誰もが罹る病気だったのだ。
喫茶店でブラックコーヒーを飲みながら静かに読書する、という雰囲気に酔っていたのだ。
しかしあの中途半端に田舎な街にそんな上等な店はなく、フードコート内のハンバーガーチェーン店のコーヒーで満足するしかなかった。
けれどまだ子供だった私には家や図書館、学校以外のそういう場所で読書するというのが格好良くてたまらなかったのだ。
うぅ、もう三十も超えたというのにこの本は未だに私へ精神的ダメージを与えてくれるのね。
構わず本のページを捲る。
物語の語り手である亜衣にクラスメイトの麗一がちょっかいをかけているシーン。
あの頃、名探偵夢水清志郎の推理と不可思議な事件たちに夢中だったけれど、同時にこの亜衣と麗一のロマンスにもドキドキしたものだ。
そんなことを思い返していたからだろう。
次に思い返されたのは美作さんの顔。
中学時代のクラスメイトでとても綺麗で、いつだってクラスの中心的な女の子だった。
三年間同じクラスだったけれど会話したのは数回しかなかったと思う。
「あっ、卒業式以来だね!」
フードコート、そこのカウンター席でコーヒーを飲みながら『亡霊は夜歩く』を読んでいた。すると突然かけられた声にびくっと顔を上げた。美作さんの顔がすぐ横にあった。
「今ねミカやサーちゃんたち2組のみんなでカラオケ行くんだけど、どうかな? ほらここの四階にあるとこ」
フードコートの外に見知った顔が群れていた。
美作さんを中心としたグループの子たちや、そこに近しいグループの子。男子の姿も数人見受けられた。その中にはバスケ部の風間くんもいた。
彼の姿を見つけて、顔が赤くなった。それを隠すように顔を伏せた。
「ご、ごめん。友達と待ち合わせてるから」
「ん? そっか。ごめんね! あっそうだメルアド交換しておこうよ」
家族含めて両の手で足りるアドレス帳。そこに美作さんのメールアドレスが追加されるのは、なんとも不似合いだった。
「お互い高校進学しても頑張ろうね」
「あ、う、うん」
笑顔で手を振りながら集団のもとに去っていく美作さんに、恐る恐ると手を振り返す。
彼女たちの姿が見えなくなると同時に私はまだ半分以上残っていたコーヒーを捨てて、フードコートから逃げるようにして家へと帰った。
え? 待ち合わせはいいのかって? それは断るための嘘だ。きっと美作さんだって分かっていたのだろう。
「うぐぅぅうう」
本を閉じて、枕に顔を埋める。
なんとも言えないうめき声が漏れてしまう。
この本に込められた記憶はまさしく私を苦しめる。
喉の渇きを潤そうと周囲を見渡すと朝から置きっぱなしのカップ。持ち上げると漂うコーヒーの香りに私は無言でカップをテーブルに戻す。
ちなみに美作さんとその後連絡を取ることもなかったし、会うこともなかった。
ただ未だに当時の美作さんのアドレスを私は覚えている。
sanataku3206@という文字列。
美作サナ。彼女の下の名前。
そして風間くん。彼の下の名前はタクミ。
数字はふたりの出席番号だ。風間くんが六番。美作さんが三十二。
あぁ、そうだ一度だけ。
それからひと月後に彼女から一斉送信でメールが届いた。
アドレス変更しました。登録よろしくね。
風間くんの名前が消えたアドレスだった。
私は登録し直すこともなく、彼女の名前をアドレス帳から消した。




