第33話 Lion②
応接室へ流れる空気は、先ほどまでとは微妙に変わっていた。
ルシアンの突然の求婚劇で張り詰めていた緊張は消えたものの、代わりにどこか居心地の悪い静けさが部屋を支配している。
そんな空気など意に介した様子もなく、ミレーヌは優雅な所作で顔を上げた。
「改めまして、皆様。ご挨拶が遅れました」
ふわり、と花が咲くような笑み。
「ミレーヌ・オルブライトと申します」
声音も柔らかい。姿勢も美しい。教本に載せたいくらい完璧なお嬢様だった。
……見た目だけは。
私は先ほどからこいつに胡散臭さを感じている。前世でいえば『SNSは見る専なんです』とか言いながら、裏アカで悪口投下してるタイプだ。
「このたびは突然押しかけてしまい、申し訳ございません」
ミレーヌは申し訳なさそうに目を伏せる。
「父から、殿下がお近くに滞在されているなら、必ずご挨拶へ伺うようにと言われまして」
「わざわざ来てもらって悪かった」
リオンも困ったように頷くしかない。伯爵の名前を出されると無碍にはできないのだろう。
「いいえ」
ミレーヌは穏やかに微笑んだ。
「婚約破棄の夜以来、お顔を拝見できておりませんでしたので……殿下がお元気そうで安心いたしました」
婚約破棄。その言葉が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなる。
ガレスが咳払いをし、アシュレイも気まずそうに視線を逸らした。
ルシアンだけが興味深そうに二人を眺めている。
「そういえば、君は、あの夜会にもいたそうだな」
ルシアンが何気ない調子で口を開いた。
「はい」
ミレーヌは恥じらうように微笑んだ。
「恐れ多くも、殿下のお隣へ立たせていただいておりました」
「なるほど」
ルシアンは納得したように頷く。
「王家としても、オルブライト伯爵家とは以前から良好な関係を築いている。立場としては自然だな」
……ん? 自然? 何が?
私が首を傾げていると、扉際に控えていた使用人たちの間から、押し殺した囁きが漏れ聞こえた。
「あの方が、噂の次期婚約者候補なのですよね……」
ちょっと待て。誰がそんな噂流した!?
思わず声を上げそうになる。だが、ミレーヌは聞こえていないふりをして微笑み続けていた。
……いや。違う。絶対聞こえてる。
聞こえていて、この空気を利用している。なんなら噂流したのこいつじゃないのか。
「オルブライト伯爵家との縁談なら悪くない話だ。父上も反対はされまい」
そう言いながら、ルシアンは弟の表情を窺うように目を細めた。
「兄上、そういう話ではありません」
リオンの表情が曇る。
「そうか?」
「……」
リオンは否定したそうに唇を開いたが、結局何も言えなかった。有力伯爵家の令嬢を、王太子が人前で露骨に拒絶するわけにもいかないのだろう。
「殿下」
ミレーヌが控えめに声を掛ける。
「ご迷惑でしたら、わたくしはすぐ北領へ戻ります」
「……いや」
わざとらしい殊勝な態度を見て、リオンは慌てて首を振った。
「せっかく来てくれたんだ。ゆっくりしていけばいい」
その一言だった。ミレーヌの笑顔が、ほんの僅かに深くなる。
「ありがとうございます」
嬉しそうに頭を下げる姿は、誰が見ても可憐な令嬢そのものだった。
……私以外には。
あの一瞬。あいつ、絶対勝ったって顔した。
先ほど感じた胡散臭さが、確信に変わった。
◇
その日の午後。
領主館の庭園を一人で歩いていると、不意に後ろから鈴を転がすような声が聞こえた。
「リゼリア様」
振り返ると、先ほどまでと変わらぬ可憐な笑みを浮かべたミレーヌが立っていた。
「先ほどは、ご気分が優れないように見えましたわ」
「……別に」
にこにこと笑いながら歩み寄ってくる。嫌な予感しかしない。
だが、ここで逃げれば負けた気がした。
「先日の婚約破棄、わたくしも胸が痛くなりました」
「はぁ?」
この話題を何度も持ち出してくる時点で、悪意しかないだろ、こいつ。
「でもご安心ください」
そして、先ほどまでの柔らかな笑みが、すっと消えた。
「リオン殿下はわたくしが幸せにしますから」
「……あ?」
「あらやだ怖いわ、義姉様」
一瞬、意味が分からなかった。
義姉? 誰が? 私が?
ミレーヌはくすくすと楽しそうに笑う。
「ルシアン殿下と婚約なさったら、わたくしの義姉様になるということでしょう?」
……何だこいつ。こめかみがぴくりと動く。
ミレーヌは悪びれた様子もなく続けた。
「ルシアン殿下でも構わないのでしょう? お義姉様でしたら、顔が良ければ誰でも構いませんものね? 『リゼリア様はお顔立ちのよい殿方に弱い』と、社交界でも有名ですもの」
頭の中で何かが切れた。
「お前」
一歩踏み出す。
「今、喧嘩売った?」
「まあ。誤解ですわ」
ミレーヌは少しも怯えない。
「事実を申し上げただけですわ」
「……何が言いたい?」
「わたくしは、殿下を幸せにしたいだけです」
煽るように目を細める。その挑発するような表情に、余計に腹が立つ。
「お義姉様のように、自分の都合で振り回したりはいたしません」
「上等じゃねぇか」
私が距離を詰めても、ミレーヌは逃げなかった。むしろ楽しそうに口元を隠す。
「まあ。本当に悪役令嬢そのものですわね」
さらに一歩踏み込もうとした、そのとき――。
「リゼリア様!」
遠くから使用人の声が聞こえた。
瞬時に、ミレーヌの表情が、ふわりと花が咲くように変わる。
「まあ」
ころりと声色まで変わる。
「リゼリア様ったら、お話が面白くて、つい長話をしてしまいましたわ」
使用人が近付いてくる。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「申し訳ありません。わたくしがお引き止めしてしまって」
ミレーヌは申し訳なさそうに笑う。
……演技うっま。
さっきまで私を煽り散らかしていた女と同一人物とは思えない。
使用人は微笑ましそうに私たちを見る。
「お二人とももう仲良くなられたのですね」
「ええ」
ミレーヌは即答した。
「これから仲良くさせていただく予定ですもの」
そう言って、私だけに聞こえるよう小さく囁く。
「……ねぇ、お義姉様?」
ぶん殴りたい。本気で。
◇
夕食の席。昼間のことなど何もなかったように、ミレーヌは終始にこやかだった。
リオンも居心地悪そうにしているが、露骨に避けることもできない。そんな空気を見かねたのか、ルシアンがワイングラスを置いた。
「馬車の手配が整うのは明後日だそうだな。せっかくだ、明日は街へ出ないか」
穏やかな声が食堂へ響く。
「街へ?」
リオンが聞き返す。
「ああ。劇団が巡業に来ているそうだ。たまには息抜きも必要だろう」
「素敵ですわ!」
真っ先に反応したのはミレーヌだった。弾んだ声まで癪に障る。
「ぜひご一緒させてください」
「もちろんだ」
ルシアンは頷く。そして何気ない調子で言った。
「では、私はリゼリア嬢をご案内しよう」
「え?」
「リオンはミレーヌ嬢を頼む」
「…………」
リオンの表情が固まる。
「兄上、それは……」
「お前は王太子だろう。客人を放っておく気か?」
一方でミレーヌは満面の笑みだった。
「よろしくお願いいたします、殿下」
何でそうなる。いつの間にダブルデートが成立したんだ。
隣を見ると、リオンも明らかに困った顔をしていた。
……いや。逆にこの状況を利用しよう。
私は心の中で、いかにこの憎きミレーヌを出し抜くかだけを考えていた。
◇
その夜、私はノアの部屋の扉を勢いよく開け放った。
「ノア!」
ベッドの上でお菓子を食べながら本を読んでいたノアは、私を一瞥する。
「ノックしてください」
ノアは露骨に不機嫌な顔をするが、私は無視して不敵に笑った。
「作戦会議だ」
ノアは本を閉じ、早くも疲れた顔でため息をついた。




