第11話 精霊王は世界のバグを指摘する
部屋の中には、奇妙な静寂が落ちていた。
ついさっきまで互いに殺気を撒き散らし、今にも殺し合いを始めそうだった三人が、揃って床に転がっている。
「……死んでないよね?」
さすがに不安になって尋ねると、窓枠に腰掛けていたフェリクスが、外を眺めたまま軽く答えた。
「死んでたらもっと面倒だから安心して」
「安心できませんけど」
ノアが真顔でつっこむ。まったくもって同感である。
私は恐る恐るベッドから足を下ろした。右足首にはもう何もついていない。外された足枷と鎖が、ベッドの脇に転がっていた。
「……何したの?」
「少し眠ってもらったんだ。あのままじゃ、落ち着いて話もできないからね」
フェリクスは事もなげに言う。
私は床に転がるリオンの頬を、靴先で軽くつついた。反応はない。生きているよな、これ。
「じゃあ、もうみんな元に戻ったの?」
「ううん、全然」
フェリクスは窓枠から軽やかに降りると、気を失っている三人を順に見下ろした。
「今は眠っているだけ。君が変えた感情まで、元に戻したわけじゃないよ。君が彼らにかけた能力の効果を、僕が取り除くことはできない」
「……私の能力」
口にした途端、妙に嫌な響きがした。
フェリクスがゆっくりとこちらを振り返る。金色の瞳から、いつもの飄々とした軽さが消えていた。そこにあるのは、人間とは違う時間を生きる存在特有の、神聖で冷たい静けさだった。
「君、自覚ないでしょ。自分が今、この世界にどれだけ影響を与えているか」
「なに、その言い方」
私が顔をしかめると、フェリクスは小さく肩をすくめた。
「精霊はね、人間の感情を糧にして存在しているんだ」
フェリクスの指先に、淡い光が灯る。
若草色の光は小さな蝶のような形を取り、ふわりと宙を舞った。見ているだけで、不思議と心が安らぐような優しい光だった。
「愛情、喜び、憧れ、希望。そういう前向きで強い想いは、僕たち精霊の純粋な力になる」
ところが、蝶は窓の近くまで飛んだ瞬間、不意に動きを止めた。
窓の外。青空を引き裂く黒い亀裂から、墨のような靄が細く漏れ出している。
靄に触れた光の蝶が、じわりと黒く濁った。
羽が崩れ、形が歪み、やがて小さな光の粒となって消えていく。
「……何、今の」
「逆の感情だよ」
フェリクスの声が静かに落ちる。
「人間の負の感情も、同じ経路を通って精霊へ流れ込む。異常な執着、独占欲、嫉妬、狂気。そして、殺意」
私とノアは、ほぼ同時に足元へ視線を落とした。
「心当たりしかありませんね」
ノアが遠い目で呟いた。
「そういう感情は、精霊にとって力というより毒に近い。内側から濁らせて、少しずつ本来の性質を歪めていくんだ」
フェリクスが指先を払う。消えたはずの黒い光の残滓が、煤のように床へ落ちた。
「普通なら薄まって、精霊界全体の流れに吸収される程度なんだけどね。今は、その限度を超えている。精霊界へ流れ込む感情の量も質も、明らかにおかしい。本来なら、人間一人の感情なんて微々たるものなのに……君の周囲だけ、濃度が異常なんだよ」
「えぇ……」
「特に、その三人」
フェリクスが足元を指差す。
「感情が限界を超えてる」
どういう状態よ、それ。
「しかも、問題は彼らだけじゃない」
フェリクスの声が少し低くなった。部屋の温度まで、わずかに下がったような気がする。
「この世界を動かしている流れそのものが壊れ始めている」
「……流れ?」
「本来なら、この世界は『アステリア・クロニクル』に用意された正規ルートのどれかに沿って進むはずだった」
私は思わず息を呑んだ。この世界の住人であるはずのフェリクスが、当然のようにゲームタイトルを口にした。
「……あんた、どこまで知ってんの?」
「かなり色々と」
フェリクスは楽しそうに笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「でも今は、どの正規ルートにも乗っていない。シナリオから大きく外れたせいで、この仕組み自体が歪みを修正しようとしているんだ」
「……だから、ヒロインの出番を潰しても、婚約破棄は起きたんだ」
思わず口にすると、フェリクスが頷いた。
「そう。起きるはずの出来事を無理やり起こして、正しい流れへ戻そうとしている」
フェリクスは窓の外へ目を向けた。亀裂の周囲には、濁った光が虫の群れのように集まり、空を埋め始めている。
「その修正の影響で、本来なら終盤に起こるはずだった“精霊界暴走イベント”まで、前倒しで始まりかけている。一部の精霊は、もう自分を保てなくなっているよ」
「え?」
私は思わず顔を上げた。
精霊界暴走イベント。それはゲーム終盤、大団円エンドへ繋がる最大の事件だ。
世界各地に空間の裂け目が発生し、そこから暴走した精霊や魔物が溢れ出す。攻略対象たち全員と協力して各地の危機を乗り越え、最後には、人間の感情へ絶望して心を失った『空虚の精霊王』を倒す。それが、『アステリア・クロニクル』の大団円エンドだった。
「……でも、本来の原因は別だったよね?」
私は必死に前世の記憶を辿った。ゲーム内では、空虚の精霊王こそが災厄の元凶だったはずだ。人間の感情を歪め、精霊界と人間界の境界を壊し、世界を滅ぼそうとする存在。
フェリクスは静かに頷いた。
「本来なら、空虚の精霊王の力によって起こるはずだった現象だ」
そこで一度言葉を切り、まっすぐ私を見る。
「でも今は、君の【魅了補正】を起点に、同じことが先に始まっている」
ぞわりと、背筋が冷えた。
「つまり……?」
「今、この世界を滅ぼしかけている引き金は君だよ」
「えぇぇぇ……」
いやいやいや。確かに【魅了補正】は便利だったから乱用した。攻略対象たちを落とすために、感情を誘導したり、増幅したりもした。
でも、そんな世界規模の話になる!? てかこれじゃ、実質私が空虚の精霊王じゃん。
「普通の感情操作なら、ここまでのことにはならなかった」
フェリクスは淡々と続ける。
「でも君は、能力を使って攻略対象たちの感情を変えたうえに、本来のシナリオまで壊してしまった。今は【魅了補正】と世界の修正力が互いに干渉し合って、暴走を加速させている状態だ」
「最悪じゃないですか……」
ノアが額を押さえる。
私だってそう思う。便利な恋愛チートだと思っていたら、実は世界破壊装置でしたとか聞いてない。
フェリクスは、微動だにしない三人へ目を落とした。
「本来の彼らは、この世界を守る側だった」
先ほどまでとは違う、静かな声だった。
「だけど今は、君への感情だけが異常に膨れ上がって、人格そのものを侵食し始めている」
国を放り出したリオン。私のためなら人間も殺すと言ったガレス。私を鎖につないだアシュレイ。目の前で起きたことばかりで、言い返せなかった。
「……うわぁ」
改めて見ると、普通に怖いな?
「このまま進めば、いずれ完全に心が壊れるよ」
フェリクスの口調は穏やかだった。だからこそ、告げられる内容が余計に恐ろしい。
「リオンは、君以外の人間をまともに認識できなくなる。ガレスは、君にとって危険かどうかだけで相手を判断し、敵味方の区別を失う」
フェリクスの視線が最後にアシュレイへ向く。
「アシュレイは……そうだね。君を永遠に安全な場所へ連れていくために、心中を選ぶかもしれない」
「やめて怖い」
私は反射的に言い返した。
普段なら、ここでフェリクスは面白そうに笑う。しかし、今は笑わなかった。
「彼らだけじゃない。このまま負の感情が流れ込み続ければ、精霊界と人間界の境界は完全に崩壊する」
窓の外から、低い軋みが響いた。青空に開いた傷口の奥で、いくつもの黒い影が蠢いている。
「負の感情に呑まれた何万もの精霊が、人間界へ溢れ出す。魔物も増え続ける。そうなれば、どちらの世界も保たない」
フェリクスは、あまりにもあっさりと告げた。
「それが、この世界のゲームオーバーだよ」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。窓の外から響く不吉な音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがてノアが、ゆっくりと顔を上げた。その表情には、これまでの戸惑いや遠慮とは違う、はっきりとした覚悟が浮かんでいた。
「……つまり、もう先延ばしにはできないんですね」
「うん」
「世界の歪みを正して、私たちが選んだ大団円ルートを最後まで進める」
「正解」
フェリクスが、ようやくいつものようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
私は数秒黙り込んだあと、ベッドへ倒れ込んだ。柔らかな寝具へ、顔から突っ伏す。
「嫌だぁ……」
大団円ルートの仕様を思い出しただけで胃が痛い。
各地を巡ってイベントを回収。ダンジョンへ行き、精霊の暴走を止め、最後にはラスボスを倒す。無理すぎる。ずっと家にいたい。
「決まりかな?」
頭上から、フェリクスの楽しそうな声が降ってくる。
「……超めんどくさいけど」
私は枕に顔を埋めたまま、大きくため息をついた。
「推しが解釈違いのままなの、普通に嫌なんだよね」
確かに重い愛は好きだ。むしろ大好物だ。
でも、これは違う。私が好きだったこいつらは、こんな形で壊れる男たちではなかった。
「世界滅亡より、そっちが動機なんですね……」
ノアが呆れ果てた顔をする。
「うるさい」
私が顔だけを上げると、フェリクスは再び窓枠に腰掛けた。そして、まるで舞台の幕を上げるように、私へ片手を差し出す。
「じゃあ――」
その向こうでは、空を裂く黒い亀裂が不気味に脈打っていた。
精霊界の崩壊も、本来のシナリオも、どうやら全部まとめて、私に押しつける気らしい。
超めんどくさい。
けれど、このまま推したちが壊れていくのは、もっと嫌だった。
「――『アステリア・クロニクル』を始めようか」




