9話
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夢だった。それは、はっきりとわかった。
けれど、あまりにも鮮明な夢だった。
——狭い部屋。カーテンの隙間から差し込む、朝の光。壁には、可愛らしい動物の柄をした点滴スタンドが立てかけられ、机の上には、文庫本が積み上げられている。手に取った一冊の背表紙には、見覚えのないはずの、けれど確かに読めてしまう文字で、タイトルが刻まれていた。
『聖女は隣国で幸せになる』
——ああ、これ、好きだったやつだ。
そう思う自分がいた。私であって、私ではない、誰か。
指先が、ページをめくる感触を覚えている。いや、正確には、指先ではない。もっと平たく、冷たい、四角い板を、指で滑らせる感触だった。「スマホ」という言葉が、脳裏を掠める。
物語の筋書きが、あらすじのように、頭の中に流れ込んでくる。
悪役令嬢アリシア・ヴェルモンドが、根も葉もない噂を理由に婚約を破棄され、国境の向こうへと追放される。絶望の中、彼女は自分に眠る「もう一つの血」——聖女の力に目覚める。隣国で出会う寡黙な騎士に助けられながら、彼女は少しずつ、本当の自分を取り戻していく。そして最後には、彼女を陥れた祖国の陰謀を暴き、隣国で、新しい幸せを掴む——読者からの評価が高かったのは、婚約破棄の場面よりも、むしろ、その後に描かれる、追放先での穏やかな日々と、静かに育っていく恋の描写だった。
——名前、なんだったかな。ルシ……
思い出そうとした瞬間、頭の奥に、ずきりと鈍い痛みが走った。まるで、これ以上思い出すことを、体そのものが拒んでいるかのように。
そこで、記憶は、ふつりと途切れた。
*
次に浮かんだのは、また、あの白い部屋だった。
けれど今度は、少しだけ、長く続いた。
腕に刺さった管。窓の外に見える、灰色のビル群。傍らの椅子に座っているのは、目の下に濃い隈を作った、中年の女性。壁にかけられた、四角い箱のような時計。見たこともないはずのそれらが、なぜか、正しい名前と共に、頭の中に並んでいく。
「——ちゃん、聞こえる? お母さん、ここにいるからね」
お母さん。
その言葉に、胸が締め付けられた。私の母は、幼い頃に病で亡くなったはずだ。優しく、けれど遠い記憶の中の人。なのに、今、耳元で響いているこの声は、まったく別の「お母さん」の声だった。
——ずっと、入院してたんだよね、わたし。
——受験、諦めたくなかったから、無理して、勉強してて……
——最後に読んでたの、確か、あの小説。スマホで、続き、気になって……
断片的な記憶が、水面に浮かぶ泡のように、浮かんでは消えていく。
体調を崩しがちだった一人の少女。長い入院生活。看護師が検温に来るたびに感じていた、微かな恐怖。窓の外を歩く、健康な人々への、言葉にできない羨望。そして、そんな日々の中で、唯一の楽しみだった、スマホで読む小説投稿サイトの、お気に入りの一作。悪役令嬢が婚約破棄をきっかけに真の力に目覚める、あの物語——。
——結末、読めなかったな。
最後に浮かんだのは、そんな、ひどく他人事のような呟きだった。それから、ひどく苦しそうな、何度も繰り返される呼吸の音。そして、唐突に、すべての音が、遠ざかっていった。
*
がばりと、体を起こした。
心臓が、早鐘のように打っている。全身が、汗ばんでいた。
窓の外は、まだ夜明け前の、薄闇に沈んでいる。ルカは、隣の寝台で、すやすやと眠ったままだった。
——今のは、何。
震える手を、自分の顔の前にかざす。見慣れたはずの、けれど、今はどこか他人のもののように思える、自分の掌。
夢の余韻は、これまでのどの幻視よりも、生々しかった。匂いまで覚えている。消毒液の匂い。誰かが差し入れてくれた、オレンジの匂い。もう一人の「自分」が生きていた日々の、些細な感触の一つ一つが、今も皮膚の裏側に、こびりついているようだった。
思い出したのは、断片だけだ。それでも、確信できることが、一つだけあった。
私は——「アリシア・ヴェルモンド」として生まれる前に、別の生を、生きていた。
そしてその生の中で、私は、この世界の——少なくとも、この世界に似た物語の、行く末を、知っていたことがある。
『聖女は隣国で幸せになる』。
悪役令嬢アリシアが、婚約破棄をきっかけに、聖女の力に目覚め、隣国で真実を手にしていく物語。
——では、私の人生は、その「物語」となぞられているというの?
いや、違う。それだけでは、説明がつかないことが多すぎる。ルシアンという名前は、確かに、あの朧げな記憶の中にあった、寡黙な騎士のものに似ている。けれど、細部は、まるで違う。あの物語で語られていたのは、もっと単純な——聖女がただ一人の少女として、幸福を掴むだけの、優しい話だったはずだ。
子供を攫う教会。聖封じの鎖。呪印で死んだ男。「三人目」という言葉。
こんな、血生臭い展開は——少なくとも、私が読んでいた記憶の中には、なかった。
——物語は、もう、「私の知っている先」を、外れている。
その事実が、恐怖よりも先に、奇妙な高揚感を連れてきた。
知っている物語を、なぞるだけの人生ではない。ここから先は、誰も知らない、私自身の物語だ。
「……セシル」
小さく、その名を呟いた。
もし、あの物語の「聖女」がセシルなのだとしたら。彼女もまた、何も知らずに、物語という枠の中で、演じさせられているだけなのかもしれない。あるいは——彼女自身が、すべてを知った上で、その役割を利用しているのか。
今の私には、判断のしようがなかった。
——三人目。
その言葉が、また、頭の中で反響した。あの物語の記憶の中に、そんな設定があっただろうか。必死に記憶をたどってみるが、浮かんでくるのは、やはり断片ばかりだ。ただ、一つだけ、引っかかることがあった。
——確か、続編の予告か何かで、ちらりと見た気がする。「隠された三人目の聖女」……そんな煽り文句を。
読み進める前に、入院生活が、唐突に終わってしまったから。その先がどんな物語だったのか、私は、知らない。
つまり——この先の展開は、私の記憶にある「物語」の続きではない。誰も知らない、まっさらな未来だということだ。恐ろしくもあり、同時に、不思議なほど、心が軽くもあった。少なくとも、決められた不幸な結末に、怯える必要はない。
窓の外が、少しずつ、白み始めている。
私は、震える手を、そっと握りしめた。もう震えは止まっていた。代わりに、腹の底に、静かな熱が灯っている。
——大丈夫。前世の記憶がどうであれ、今、ここで息をしているのは、私自身だ。
誰に定められた筋書きでもない、自分の意思で、この先を選び取っていく。
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