6話
白い、天井。
四角く平らな光の板が、規則正しく並んでいる。
蛍光灯、という言葉が、なぜか頭に浮かんだ。そんな言葉、知らないはずなのに。
鼻をつく、薬品の匂い。
ピッ、ピッ、と一定の間隔で鳴り続ける、無機質な音。
腕が、鉛のように重い。手の甲に、細い管が刺さっている。私の腕は、こんなに痩せてはいなかったはずだ。
「——ちゃん。お願い。お願いだから、目を開けて……」
誰かが、泣いている。
知らない女の人の声。なのに、胸が張り裂けそうになるほど、懐かしかった。
(あなたは——)
*
「——おい。おい、君」
肩を揺すられて、はっと我に返った。
森の匂い。夕暮れの湿った風。目の前には、傷の塞がったルカの腕と、不安そうに私を覗き込む少年の顔があった。
「お姉さん、今、ぼうっとしてた。光が消えちゃったのかと思った」
「え……ええ。ごめんなさい」
傷は、綺麗に癒えていた。癒えているのに、私の掌は、まだ小刻みに震えている。
「大丈夫か」
灰銀の髪の男が、しゃがみ込んで、じっと私の目を覗き込んでいた。
「顔色が悪い。癒しの力の使いすぎか」
「……そう、かもしれません」
嘘だった。力の使いすぎで見る幻ではない。あれは、もっと別の何かだ。知らない場所。知らない声。そのはずなのに、あの天井の光を、私の体は「知っている」と告げていた。
母の言葉が、また、脳裏をよぎる。
——もう一つの血。
けれど、これは、それだけでは説明のつかない何かだった。
「名を、聞いてもいいか」
男は、それ以上、私の様子を追及しなかった。ただ、静かに問うた。
「……アリシア、と申します」
家名は、口にしなかった。母の警告が、無意識に働いたのかもしれない。
「アリシア。俺はルシアン・ヴァルハイト。レティシア国境守備隊の隊長を務めている」
男は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「君の身なりと所作は、隣国アルセリアの貴族のものだ。追放されて、この国境を越えてきた、というところか」
「……ご存知なのですか」
「近頃、関所に入る密偵や逃亡者の報せは、すべて俺のところに集まる。もっとも、君のような客は初めてだが」
彼は立ち上がり、外套の埃を払った。
「詰所に来てもらえるか。あの男たちの件で、聞きたいことがある。それに、ルカの保護も必要だ」
「……わかりました」
私はルカの手を取った。少年の指は、氷のように冷たかった。
*
森を抜けて町へ戻る道は、すっかり夕闇に沈んでいた。
先頭をルシアンが、そのすぐ後ろを私とルカが歩く。縛り上げられた男たちは、兵士たちに引き立てられて、少し離れた後方を進んでいた。
歩き出して間もなく、ルカの足取りが怪しくなった。傷は塞がっても、失った血までは戻らない。私が手を貸そうとするより早く、ルシアンが無言で少年を抱え上げ、そのまま背に負った。
「隊長さん、ぼく、歩けるよ」
「歩けていない。眠っていろ」
ぶっきらぼうな口調だった。けれど、少年を支える腕は、驚くほど丁寧だった。ほどなくして、背中から小さな寝息が聞こえてくる。
「……お優しいのですね」
「そう見えるなら、君の目が曇っている」
「いいえ。私は、人の目を見る訓練だけは、嫌というほど受けてきましたので」
宮廷という場所は、笑顔の裏を読めなければ、生き残れない。その意味では、私は誰よりも、人の本性を疑う訓練を積んできた。
ルシアンは、前を向いたまま、ふっと短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「一つだけ、聞いてもいいか。さっきの、あの一瞬」
「……はい」
「ルカの傷を癒している最中、君の光が途切れかけた。魔力切れの兆候とは、違って見えた。まるで——どこか別の場所を、見ているような目をしていた」
心臓が、跳ねた。
この人は、剣だけでなく、人の機微も、見逃さない。
「わかりません」
私は、正直に答えた。
「私自身にも、何が起きたのか。ただ、知らないはずの景色が、見えた気がして」
「知らないはずの景色、か」
ルシアンは、それ以上は問わなかった。ただ、しばらく黙って歩いたあと、ぽつりと言った。
「聖属性の力を持つ者の中には、稀に、この世界のものではない記憶を垣間見る者がいる。……古い文献に、そんな記述があった。真偽は、知らんがな」
「この世界の、ものではない……」
「気にするな。眉唾の類だ」
そう言いながらも、彼の声には、冗談めかした軽さがなかった。
夜の町の灯りが、遠くに、ぽつぽつと見え始めている。
私は、自分の掌を、もう一度見つめた。あの白い天井。あの薬品の匂い。あの、泣いていた誰かの声。
——あれは、誰の記憶なのだろう。
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