驚き
連休明けの木曜日。
朝のホームルームまで、まだ少し時間があった。俺が自分の席で教科書を整理していると、教室の扉が開いた。入ってきたのは渡部君だった。
いつもなら、近くにいる生徒と挨拶を交わしながら自分の席へ向かうが、今日は教室へ入るなり俺を見つけ、鞄も置かずに真っ直ぐこちらへ歩いてくる。普段の穏やかな笑顔もない。
「相田君。武尊から聞いたんだけど、雪白さんが山府研究部に入ったって本当?」
「ああ。連休前に入部届を預かった」
渡部君が足を止める。
自分から聞いてきたのに、本当だとは思っていなかったらしい。
「まさか……六家最難関を、こうも容易く懐柔するとは……」
「え。最難関だったの?」
渡部君が目を瞬かせる。
「驚くところは、そこなの?」
「六家に難易度があるとは聞いてなかったからな」
「別に決まっているわけじゃないよ」
「じゃあ、渡部君が勝手につけたのか?」
「僕だけの評価でもないと思うけど」
渡部君は教室の後ろへ目を向けた。雪白さんの席は、まだ空いている。
それを確認してから、声を少し落とす。
「それで、どうやって入部させたの?」
「別に何もしてない」
「何もしてない?」
「ああ」
俺は、雪白さんが入部を決め、入部届を俺に預けるまでの流れを簡単に説明した。
「勧誘もしてない。見学が終わったら、向こうから入るって言ったんだ」
渡部君はしばらく黙った。
「それ、本当に雪白さんの話?」
「同じ教室にいる雪白さんの話」
渡部君はようやく、肩に掛けたままだった鞄へ気付いた。いったん自分の席まで戻り、鞄を置く。それから、また俺の席まで戻ってきた。
確認を途中で終わらせるつもりはないらしい。
「何か理由があったんじゃないの?」
「母さんの次回作に関係するかもしれないから」
「ああ……」
その一言で、渡部君は納得した。雪白さんが母の作品を好んでいることは、この前の反応で既に察していたらしい。
「それなら、見学へ来た理由は分かる」
「入部した理由は?」
「それだけでは説明できないね」
渡部君は少し考える。
「雪白さんは、興味を持って見に来ることはあっても、必要がないと判断した活動に名前だけを置く人じゃない」
連休前、雪白さん本人も同じようなことを言っていた。相田カノンの名前だけを目当てに、部員として名前を置くつもりはない。活動へ参加する意思があるから入部するのだと、はっきり答えている。
「じゃあ、山府研究部に入る価値があると思ったのか?」
「少なくとも、雪白さん自身はそう判断したんだろうね」
俺達がやったのは、山府の高校生の日常について聞き取りをしただけだ。そこまで大袈裟に評価されるような活動には思えない。ただ、雪白さんが何を基準に決めたのかは、本人にしか分からなかった。
渡部君が続ける。
「雪白さんといえば――」
その時、教室の扉が開いた。
渡部君の声が止まる。
登校してきた雪白さんが、教室へ入ってきた。扉の近くにいた生徒たちが、自然に道を空ける。雪白さんはその間を通りながら、俺と渡部君へ一瞬だけ視線を向けた。
渡部君は何事もなかったように表情を整えている。ついさっきまで雪白さんの勧誘難易度について語っていた人物とは思えない。
雪白さんは何も言わず、自分の席へ向かった。鞄を置き、椅子へ座る。それから、いつものように一冊の本を取り出した。
「続きを話さないのか?」
俺が声を落として尋ねる。
「本人のいるところで話すことではないでしょう」
「さっきまで話してたのに?」
「いないことを確認してから話していたからね」
途中で登校してくることまでは考えていなかったらしい。俺は教室の後ろを見る。雪白さんは既に本に集中し、こちらを気にしている様子はなかった。
「前に六家のことを聞いた時、古くから続く家で今も山府に影響力があるって言ってたよな」
「そうだね」
「でも、雪白さんが入部しただけで、渡部君が鞄を置き忘れるほど驚く理由までは聞いてない」
「置き忘れたわけじゃないよ」
「肩に掛けたまま俺のところへ来ただろ」
「少し急いでいただけ」
否定するところは、そこらしい。
「六家って、実際どのくらい特別なんだ?」
俺が尋ねると、渡部君はすぐには答えなかった。
言葉を選ぶように、わずかに視線を落とす。
「前にも話したとおり、六家はそれぞれ違う形で、山府の産業や暮らしに関わってきた家だよ」
「それは聞いた」
「今も、その関係が続いている。だから、家の名前と本人を完全に切り離して考えられない人が多いんだ」
「それも聞いた。そうじゃなくて、雪白家や大竹家、室井家それぞれの家について、もっと具体的に教えて欲しい」
「ごめん、それぞれの家について、僕が勝手に説明することはできない」
渡部君は穏やかな口調のまま答えた。
「学校で知られていることや、世間に出ている情報であっても、他家の事情を本人のいないところで並べるのは失礼だからね」
「渡部君から話し始めたのに?」
「六家がどう見られているかという一般的な話ならできる。でも、個々の家の話は別だよ」
はっきりと線を引かれた。渡部君は誰とでも気軽に話すが、何でも話すわけではない。その区別は、俺が思っていたよりも厳しいらしい。
「それなら、本人に聞くしかないか……」
大人しく諦めようと視線をそらした時、渡部君はやれやれと言わんばかりのため息をついた。
「しょうがない。僕の家なら話してあげるよ」
「渡部君の家?」
渡部君が頷く。
「渡部家も、山府六家の一つなんだ」
一瞬、意味が分からなかった。
俺は目の前の渡部君を見る。
「渡部家って、渡部君の家か?」
「そうだよ」
初めて聞いた。
以前、渡部君に六家について尋ねた時も、そんな話は一度も出ていない。
「どうして言わなかったんだ?」
「聞かれなかったから」
「六家について聞いただろ」
「六家が何なのかは答えたよ」
「渡部家が六家だとは言わなかった」
「それは別の質問だからね」
間違ってはいない。
ただ、かなり意図的に伏せられていた気がする。
「渡部家は、何をしてきた家なんだ?」
「政治だよ」
渡部君は、今度は迷わず答えた。
自分の家についてなら、話せるということらしい。
「山府を地盤として、代々政治に関わってきた。地方議員だけでなく、自治体の首長や国会議員も多く出している」
「そんなに?」
代々地盤を受け継ぐ政治一族、それが渡部家だった。
「それで、渡部君は、その本家とどういう関係なんだ?」
「親戚だよ」
「それだけ?」
「それだけ」
渡部君は笑顔のまま答えた。どの程度近い親戚なのかは、話すつもりがないらしい。自分の家についてなら話せると言ったが、何でも話すとは言っていない。
「渡部家だけで、その規模なのか」
「六家は、単純に比べられるものではないよ。それぞれ成り立ちも、担ってきた役割も違うからね」
「他の家も聞きたいんだけど」
「駄目。それは本人に聞いたほうがいい」
渡部君は教室の後ろへ視線を向ける。
雪白さんは変わらず本を読んでいた。
「雪白さんの家について知りたいなら、雪白さん本人に尋ねるべきだよ。答えるかどうかを決めるのも、雪白さんだから」
「答えてくれると思うか?」
「それは僕には分からない」
雪白さんなら、必要がないと思えば一言で断るだろう。
聞く前から、その様子が想像できた。
「でも、渡部家の話を聞けば、六家がどうして特別視されるのかは少し分かるでしょう?」
「とりあえず、政治家の家なら、周りが意識するのは分かる」
「他の五家にも、それぞれ長く担ってきたものがある。ただ、それ以上は僕から話すことじゃない」
渡部君の説明は、そこで終わった。
「それで雪白さんが入部したことも大きく見られるのか?」
「雪白さんの場合は、雪白家がどうこうという話ではないよ」
渡部君はすぐに訂正した。
「雪白さん本人が、これまでどの部にも入らなかったから驚いただけだ。少なくとも僕はね」
「六家最難関って言ってたけど」
「本人が来たから、その話は終わり」
「便利だな」
「礼儀だよ」
渡部君は穏やかに言い切った。俺はもう一度、教室の後ろを見る。雪白さんは静かに本を読んでいた。渡部家の話を聞いた後でも、昨日までと何かが変わったようには見えなかった。
雪白さんがどれほど大きな家の人間なのか、俺はまだ知らない。知っているのは、話しかけても短い返事しかせず、母の作品のことになると急に質問が増えるということだけだった。
「今のところ、無愛想な漫画オタクにしか見えないけど」
「それ、本人の前で言わない方がいいと思うよ」
「聞こえてないだろ」
その時、雪白さんがページをめくった。先程よりも、少しだけ音が大きかった。
俺は声をさらに落とした。
「……聞こえてたかな」
「僕に聞かないでくれる?」
渡部君は、雪白さんの方を見ようともしなかった。




